黙示録6:11
すると、彼らの一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。
復讐は神がなさるものです
さて、前回までで「第一の封印から第四の封印まで」を学びました。今回は「第五の封印」について学びます。
4頭の馬が出現し、世界を駆け巡っています。
子羊は、続けて、すぐ「第五の封印」を解かれます。ここは「間髪入れず」に解かれるようです。
「第五の封印」が解かれたとき、ヨハネは「祭壇」を見ました。そして、その下に「殺された者にたましい」がいるのを見たのです。
この「たましいたち」が誰を表わしているのか、と言うことについては、例によって様々な意見があります。
多くの人が、彼らは「旧約時代の殉教者たちだ」と言います。
「いや、患難時代にいのちを落とす聖徒たちだ」と言う人もいます。
また「全世界の全時代の殉教者たちだ」という意見もあります。
「旧約時代の聖徒たちと大患難時代に殺される人々のたましいだ」と言う人もいます。
これは、ちょっと、難しいですね。私には、よく分かりません。個人的には、これからを含む全時代の殉教者たちなのではないかなぁと思ったりしています。
いずれにせよ、彼らが「神の忠実なしもべたち」であったことに間違いはありません。
そのような彼らが大声で叫んで言うのです。
彼らは「地に住む者たちへの血の復讐」を求めています。
自分たちの血が不当に流されたことに対して、正当なさばきを要求しているのです。
新約時代の聖徒が「復讐を求める」などと言うことはないので、これは「旧約時代の聖徒だ」という解釈もあるようです。そうかもしれませんね。
ただ、私たちは覚えていなければなりません。
神は「さばき」を必ずなさいます。
神は「愛」なのだから「復讐」などという恐ろしいことはなさらないと言う考えは間違っています。
イエス様は言われました。
旧約の時代に神に忠実であった人々の「血」は、無駄に流されたわけではありません。主は、その一人ひとりの忠実さを覚えておられます。そして、必ず「その責任を問われる」のです。
また新約時代の聖徒の「苦しみ」をそのままにして置かれることもありません。
ですから、私たちは「すべて」を御手に委ねることができるのです。
神が「正しい方」であることを知っているので、自分の「正しさ」を主張して生きる必要はありません。
神が「報いてくださる方」なので、ことさらに「報酬」を求める必要はありません。また「報復」を企む必要もないのです。
蒔いた種は「必ず刈り取る」のです。肉に蒔けば「滅びを刈り取る」のです。御霊に蒔けば「永遠のいのちを刈り取る」のです。それが、変わることのない「法則」なのです。
私たちは「蒔くもの」に注意して歩まねばなりません。黙示録を学ぶ目的の一つは、そのことを心に留めることです。
私たちは「終末」について学びます。すべての「働きはなくなってしまう」ことを知ります。
それは、何のためにでしょう?
それは、この地上で「聖なる敬虔な生き方」をするためです。
私たちは「御霊に蒔き続け」なければなりません。「永遠のいのち」は私たちのものです。
崩れ去るものに「執着」せず、「天にあるもの」を見つめて歩みましょう。
すぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血
殉教者たちは「祭壇の下」にいます。「祭壇」とは「犠牲の子羊」が屠られる場所です。天の祭壇では、ただ一度だけ「主イエスの血」が注ぎかけられました。
天の祭壇の下で叫んでいる人々にも、「イエスの血の注ぎかけ」があったであろうと私は思います。
ゆえに「彼らの一人ひとりに白い衣が与えられた」のでしょう。
「第五の封印」が解かれたのは、彼らに「白い衣」を与えるためなのかもしれません。これは「子羊の血で白くした衣」のことでしょうか。
「白い衣」を与えられた人々に、主は「言い渡され」ました。
つまり、まだまだ「殉教者」が増えるということです。
今後も殉教者が増えることは確実なのです。
第五の封印は、殉教者についてですが、これからも殉教者が増えて行くということを示しています。ディビッド・バレットという有名なイギリスの統計学者が私に送ってくれた資料によると、1900年の時点で平均約三万五千人の殉教者がいました。1985年には、年平均三十五万人の殉教者に増加しています。10倍に増えたわけです。2000年の統計では、五十万人に達するのではないかと思われています。殉教者は減るどころか増えているのです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
さて、今は2025年ですから、2000年当時より、もっと殉教者が増えているであろうと推測できます。
しかし正確な殉教者の数を把握することが困難です。ただ、迫害下に置かれているクリスチャンの数が毎年、増加していることは確かです。
全体(2024年現在)として、3億6千500万人のクリスチャンが迫害または差別の激しい諸国に住んでいる。これは全世界のクリスチャンの7人に1人にあたり、アフリカでは5人に1人、アジアでは5人に2人、ラテンアメリカでは16人に1人にあたる。
Christianity Todayの記事から
神が「正しい方」であることは、先ほど学びました。主は、彼らの「たましい」を見過ごすことはされません。
神のさばきに「不正」はありません。「不当」なことも一切ありません。怒りを注がれる方に「反論できる者」は誰一人いないのです。
しかし、神の怒りは、まだ注がれません。終わりの日は、まだ来ていません。
愛する兄弟姉妹。
主は、今「忍耐」しておられるのです。今は、まだ「いつくしみと忍耐と寛容の日」なのです。
御父は、今「忍耐」しておられるのです。
それは「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むこと」を望んでおられるからです。
主の「いつくしみ深さ」は、人々を悔い改めに導くのです。
今まで「不当に血を流された人々」は「大声で叫んで」います。
アベルの血は「大地から」叫んでいます。アベル以降のすべての血が、主に向かって叫んでいるのです。
もちろん、主は、それらの「叫び」を聞いておられます。彼らの痛み、苦しみ、嘆きを知っておられます。しかし、それでも「待ちなさい」と言われるのです。
なぜでしょう?
「注ぎかけられたイエスの血」が「語って」いるからです。
「注ぎかけられたイエスの血」は、アベルの血よりも「すぐれたこと」を語ります。
アベルの血は「不当な扱いをされた」「正当なさばきをしてくれ」と叫んでいます。
では、御子イエスの血は何を叫ぶのでしょう?
御子は、御父に祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです」
御子イエスの血は「赦し」を叫びます。
私たちの「とりなし手」である方は、今、手を広げて御父の前に立っておられます。
そして、「父よ、ご覧ください。わたしの血です。どうか、今は、まだ、彼らをお赦しください。もうしばらく、もうしばらくお持ちください」と懇願してくださっているのです。
御父は、激しく怒っておられます。
愛する御子を痛めつけられたことに対して…
また、御子をうちに宿した「神の子たち」に対する仕打ちに対して…
いつまでも「神を神としてあがめない人々」に対して…
しかし、愛する御子イエスの血の叫びが、御父の耳に届いています。
「父よ、彼らをお赦しください」
そして、御父もまた、その「とりなし」を望んでおられるのです。
イエス様こそ、神と人との「唯一の仲介者」なのです。
愛する兄弟姉妹。
主イエスが、両手を上げて「とりなし」ておられることを覚えてください。
今は「まだ」終わりの日ではないのです。今は「いつくしみと忍耐の日」です。今は「恵みの時、救いの日」です。今は「まだ」そうなのです。
であるならば、私たちのするべきことは「一つ」です。
イエス様と一緒に立ち上がりましょう。両手をあげて祈りましょう。
「御父よ、どうかお赦しください。御子の血をご覧ください。どうか、私たちの国をあわれんでください。彼らは何をしているのか分かっていないのです」
イエス様の血の注ぎかけを受けた私たちは、イエス様と「一つ」です。
子羊イエスの血をほめたたえます。その贖いを感謝します。キリストの愛のうちを歩みましょう。
私は、キリストの心を祈る者とされたいと切に願っています。
子羊の御怒りの大いなる日が来ます
しかし、「いつくしみの日」が終わる時が来ます。
「御怒りの大いなる日」がやって来ます。
「だれがそれに耐えられよう」と人々は言います。もちろん、その答えは「だれもそれに耐えることはできない」です。
「誰も耐えることのできない御怒りの日」つまり、大患難が始まる日が必ず来るのです。
それは「神の怒り」に「子羊の怒り」が加えられる日です。
人々の叫びを聞いてください。「神」と「子羊」の怒りの日が来たと言っています。
使徒ヨハネは、わざわざ「神」と「子羊」の怒りの日であると書き記したのです。
いつの日か、イエス様が「とりなし手」ではなく「さばき主」として立ち上がられる日が来ます。
「子羊イエス」が御父の向かい側ではなく、御父と同じ方向を向いて「さばき」を行われる日が来ると言うことです。
御父は、さばきを行う権威を御子に渡しておられるのです。
御父の怒りに、子羊の怒りが加えられる日、それが患難時代の幕開けであると私は思っています。
イエス様が語られた、ぶどう園にあるイチジクの木のたとえを思い出してください。
主人は、実を結ばない「いちじくの木は切り倒してしまえ」と言いました。しかし、番人は主人に言います。
主人は御父の型です。そして、この番人はイエス様の型です。(聖霊様とも言えますね)
今は、まだ、イエス様は「とりなし」を続けておられます。聖霊様は、地上に聖徒とともにおられます。
今は「深いいつくしみと忍耐の日」が続いているのです。
しかし、いつの日か「御怒りの日」が訪れます。
神は「怒り」をなくしてしまわれたのではありません。「忍耐」をしてくださっているのです。
今は、御子イエスのとりなしのゆえに「忍耐」を続けてくださっているのです。
「頑なで悔い改めない人々」は「怒り」を蓄えているだけです。御父は「罪」を見過ごす方ではないからです。
ですから「今」が大切なのです。
私たちは、救われていない人々のために祈りましょう。たましいの大収穫がもたらされることを信じて祈りましよう。多くの人が必ず終わりの日の前に「覚醒」すると私は信じます。
そして、また、私たちは互いのためにも祈りましょう。
愛する兄弟姉妹。
終わりの日が近づいている「今」、「心を頑なにしない」ことが大切です。神の声に素直に応じる聖徒が必要です。
一人ひとりが「聖霊」の御声に耳を傾けて歩めるように祈りましょう。だれも「落ちて」はなりません。
私たちは、みな一緒に「天の故郷」へ行くのです。
私たちは「日々、互いに励まし合い」ましょう。私たちには「祈り」が必要です。
あなたのために、私は祈ります。そして、私にも、あなたの祈りが必要です。
気落ちしている兄姉、前に進む元気のない兄姉、下を向いて歩いている兄姉のために祈りましょう。
終わりの時代には「人々の愛が冷める」のです。
しかし、私たちは「愛を燃やして」歩みましょう。
主の「いつくしみと忍耐の日」を無駄に生きてはなりません。
多くの殉教者が「いのち」を奪われても手放さなかった「神のことばと証」を、私たちも掲げて歩みましょう。
イエス様の「血」が語る「赦し」を宣言しつつ歩みましょう。
神の御子を信じる「信仰の勝利」を宣言しましょう。
私たちは、全世界の、全時代の信仰者の一員なのです。
一緒に走りましょう。
祝福を祈ります。

