黙示録6:3
子羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が「来なさい」と言うのを聞いた。
赤い馬が出てきました
前回は、黙示録6章1節~2節を学びました。
「白い馬の乗り手」は「惑わし」「欺瞞」です。第一の封印は解かれて、白い馬は解き放たれ世界を駆け巡っています。
続けて、使徒ヨハネは、子羊が「第二の封印を解かれた」のを見ました。
四つの生き物のうち、第二の生き物が「来なさい」と命じています。
第二の封印が解かれると「火のように赤い馬」が出現しました。
この馬に乗っている者には「地から平和を奪い取る」ことが許可されていました。
「赤い馬の乗り手」には「大きな剣」が与えられたと記されています。
これは、与えられた「力」の大きさを物語っているのでしょう。「大きな戦争」「広範囲に及ぶ憎しみ」などの象徴でしょうか。
「赤い馬」は「争い」「分裂」「流血」を表しているのだろうと考えます。
ある人は、この馬は「戦争」を表していると言います。
ある人は「共産主義」を表わしているのだと言います。
近代の注解者のある者は、赤い馬は共産主義だと考えています。中国の共産主義者たちは、自分でもこの事に大へん敏感で、私たちが赤い馬について説教するのを嫌がりました。ある意味でこれはあてはまります。
黙示録の中のキリスト W.E.シューベルト著 リバイバル・フェローシップ
W.Eシューベルト師の本は、約60年前に書かれたものです。ですから、今とはかなり状況は違うでしょう。
私は、赤い馬を「共産主義」だとは思っていません。
しかし「ある意味においてあてはまる」という考えには同意します。
なぜなら「赤い馬の乗り手」は「平和を奪うすべてのもの」を表すのだと思うからです。
繰り返しますが「赤い馬の乗り手」には「地から平和を奪い取ることが許され」ているのです。
「平和を奪うため」なら、どんなものでも用いることができるのです。
「平和を奪うため」なら「戦争」も引き起こします。「共産主義」でも「民主主義」でも、とにかく「地から平和を奪う」ことができるのなら何でも用いるのです。
イエス様は言われました。
「戦争」は実際に起こりましたし、今も世界の各地で「戦争」はあります。そして、これからも「戦争」は続くでしょう。
「そういうことは必ず起こる」のです。
しかし「気をつけて、うろたえないように」しましょう。
「赤い馬の乗り手」の目的は「地から平和を奪うこと」です。「戦争」そのものが目的なのではありません。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、今こそ「しっかりと立つ」べきです。
世界を駆け巡って「争い」をまき散らし「平和を奪う赤い馬」は、あなたの平和も奪おうとするでしょう。
イエス様は、私たちに「平安を与える」と約束されました。
なぜ、わざわざ「世が与えるのとは同じようには与えない」と言われたのでしょう。
それは、世の人々から平和が奪われるような時でも、聖徒が「平安」を持つためです。
確かに「赤い馬」は、様々な方法で平和を奪います。
世の中は「不安な人」であふれています。
家庭の不和、友人との不和、会社での不和、近隣の不和…
至る所に「分裂分派」があふれています。どこに行っても「安心」することができない状況です。
私たち聖徒も「平和を奪われた世界」に生きています。
私たちが「世が与える平安」で生きているのなら…
私たちは、不安と恐れに満ちて生きることになります。
不和に吞み込まれ、誹謗中傷を聞きながら生きることになるでしょう。
「こんな生活、嫌だな」と思いながら、ただ「世と同じように」生きるしかありません。
愛する兄弟姉妹。
イエス様は言われます。
「わたしの平安を与えよう」と。
私たちは「世の与える平安」で生きているのではありません。
私たちは「わたしの平安」と言われるイエス様の平安で生きているのです。
主は「世と同じようには与えない」と言われます。
世の中から「すべての平和」が奪われたとしても、主にある聖徒は「神の平安」に満たされることができるのです。
ですから「しっかりと立ち」ましょう。
世界中を駆け巡る「平和を奪う者」に翻弄されてはなりません。
見える世界から「平和」が一つずつ消えていくように思えても…
見える世界が「不安」に染まっていくように見えても…
主にある聖徒よ。
あなたから「平安」を奪うことは誰にも何にもできないことを覚えてください。
立ち上がって宣言し続けてください。
「私から平安を奪うことは誰にも何にもできない。イエス様が世とは違う平安を与えてくださったのだ」と。
「神の平安」は「すべての理解を超える」のです。
黒い馬が現れました
子羊が第三の封印を解かれました。
さてはて、「一つの声のようなもの」とは難解ですね。
四つの生き物の「真ん中」に姿は見えないけれど「別の何か」がいたのでしょうか。全く分かりませんね(笑)
確かに、天国では退屈しなくてすみそうです。知りたいことをが山ほどありますから。
それはさて置き…
子羊が第三の封印を解かれると「黒い馬」が出現しました。
その乗り手は「手に秤」を持っていました。
さて「一つの声のようなもの」が言っていることに注目してみましょう。
「1コイニクス」とは、「約1リットル」のことだそうです。
そして、小麦1リットルとは、だいたい「700グラム~800グラム」らしいです。なんでも、小麦の種類によってグラム数が変わるそうで、はっきりとした数字は分かりません。
「一つの声のようなもの」が言うには、その小麦が「1コイニクスで1デナリ」つまり「1リットルで1日の給料分」の値段が付けられると言うことです。
「黒い馬」は、間違いなく「欠乏」「貧困」「飢餓」を表していると思います。
これらの節は、富裕の中にありながらなお、日常の糧の驚くべき必要があることを告げ知らせています。一枡(約1.14リットル)の麦は一日分の賃金(1デナリは当時の1日分の賃金)で売られました。ワインや香油などの贅沢品は豊富にありましたが、人々が最も必要とする麦などは手に入りませんでした。飢饉によって、贅沢な衣服は多くあるのに、日用の糧である基本的な食物がないという問題が引き起こされていました。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
「飢餓」「欠乏」は、世界の一部だけの問題ではなく「全世界」に及びます。
「黒い馬の乗り手」が、手に秤を持っているのは象徴的です。
世界は、預言者エゼキエルがしたように「穀物を量りながら、恐る恐る食べる」ようになるのでしょう。
ジャック・ヘイフォード師の本は、約30年ほど前のものです。今、もう一度、読み返してみますと、あの頃よりも終わりが近いことを実感します。
「贅沢品は豊富にありましたが、人々が最も必要とする麦などは手に入りません」というのは、まさに、今の私たちの現状を表しているように思います。今後、世界はますます、そのようになるのでしょう。
世界は、生活に疲れていきます。そうして、反キリストが登場する舞台が整っていくのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「見えるもの」によって生きてはいません。
世界から「必要のすべて」が奪いさられていくように見えても、うろたえてはなりません。
けれど正直に言うと、実際、スーパーからお米が消えたとき、私は結構うろたえました(笑)
主は、その昔、イスラエルの民を「苦しめ、飢えさせた」と言われます。
主は、イスラエルを「飢えさせ」ました。
それは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを知らせるため」でした。
愛する兄弟姉妹。
黒い馬は秤を手に握り、私たちの「生きる糧」さえも握っているように見えるかもしれません。
世の中は「米が高い。玉子も高い」と言って騒ぐかもしれません。
けれど、私たちには「隠れたマナ」が与えられるのです。主は、私たちの「必要のすべて」をご存知であることを忘れてはなりません。
私たちが騒がなければならない本当の飢饉は「みことばの飢饉」です。
「みことばの飢饉」は深刻です。
「黒い馬」は、見える必要を支配することで「霊のいのち」をも支配しようとしているのです。
私たちは「本当に生きるために必要なもの」を見失ってはなりません。
私たちは「主の口からでる一つ一つのことば」によって生きます。
「神の霊感による」とは、直訳すると「神の息吹による」です。
聖書のことばは「神の息吹によるもの」なのです。「神の息吹」とは、アダムを生きた者にした「息」のことです。エゼキエルが見た「干からびた骨」を生き返らせた「息」です。
私たちにいのちを与えるのは「神の息吹」です。「神のことばは生きていて、力がある」のです。私たちは、もっと「みことばの力」を信じる必要があります。
聖書が、当たり前に手に入る国に生きていることを感謝しましょう。
どうか豊かにみことばに触れる機会を無駄にしないでください。
ヨセフのことを思い出してください。私たちは、ヨセフのように賢く生きなければなりません。
「みことば」を集めましょう。ヨセフが「飢饉」に備えて穀物を数えきれないほど集めたように、私たちは「神のことば」を蓄えなければなりません。
誰かが「そこまで集めなくても」と言っても耳を貸してはなりません。
「みことばの飢饉」は、思う以上に激しいはずです。
人々は「主のことばを探し求めて行き巡る」のです。しかし、どこに行っても見出すことはできません。
主にある聖徒よ。
「みことば」を集めなさい。「神の息吹」に満たされなさい。
「みことばの飢饉」のとき、人々は「生きる希望」「いのちの光」を求めてさまよい歩きます。
その人たちに「いのちのことば」「生きる糧」を分け与えるのは誰でしょう。
それは、この時代のヨセフたちです。
今、みことばを蓄えている、主にある聖徒たちこそ現代のヨセフです。
私たちは、神のことばを心に蓄え「どのように生きればよいか分からない」と言う人々に「みことば」を分け与えるのです。
黒い馬がもたらす欠乏の恐怖を退けましょう。
「主イエスの御名によって、欠乏の恐怖をもたらす者よ、去れ。私は見える所に従って歩んではいない。私は見えない神の御手を信じて生きる。私は、神の口からでる一つ一つのことばによって生かされているのだから」
ただシンプルに、まずは聖書を読むのです
さて、今回は第五の封印まで学ぶつもりでしたが、良そうに反して長くなってしまったので、続きは次回にしたいと思います。
私たちは「赤い馬」と「黒い馬」を身近に感じる時代に生きています。
確かに「分裂」は起こります。「平和」は奪われます。
そして「欠乏」が私たちにも迫ってきています。
けれど、愛する兄弟姉妹。
私たちは「神の所有の民」であることを決して忘れないでください。
闇が濃ければ、その分「光が際立つ」のです。
終わりの日が近ければ近いほど、聖霊の傾注は激しくなるのです。
「赤い馬」も「黒い馬」も世界を駆け巡るでしょう。
けれど、私たちのうちにおられる方は「この世のあの者よりも強い」のです。
「幻」を語りましょう。
「もう若くない」と言うならば「夢」を見なさい。
そして、すべての聖徒は「預言」をするべきです。もちろん「預言者になれ」と言っているのではありません。神のみことばを集めて、生きる気力を失った人々に分け与えるのです。
私たちは、ただ「みことば」を集めましょう。そして「聖霊の注ぎ」を切に求めましょう。
「もう遅い。もう無理だ」
「まだ早い。まだ無理だ」
あなたの気持ちが、どちらに近いのかは分かりませんが、どちらも不正解であることは確かです。
愛する兄弟姉妹。
私は「今」やらなければ後悔するだろうと「ヒシヒシ」と感じています。
今、みことばを集めなければなりません。今、みことばを蓄えるのです。
今、聖霊を求めなければなりません。聖霊の注ぎを切に求めましょう。
「こんなことをしても何にもならない」と言わずに、聖書を読みなさい。みことばを学びなさい。
「もっと効率的に華々しく」と言わずに、黙って聖書を読みなさい。みことばを学ぶのです。
そうして、ひざまずいて祈るのです。
そうすれば、あなたから「平和」が奪い去られることはありません。
そうすれば、あなたは「みことば」を蓄え「分け与える人」になります。
現代のヨセフたちに大いなる油注ぎがありますように。
祝福を祈ります。

