黙示録5:13
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光が世々限りなくあるように。」
子羊が巻物を受け取られました
黙示録の学びを続けています。今回は、黙示録5章7節~14節までを学びます。
それでは、黙示録5章7節から始めましょう。
最初、巻物は「御座に着いておられる方の右の手」にありました。
「天にも地にも地の下にも」だれ一人、巻物の封印を解くのに「ふさわしい者」はいませんでした。
使徒ヨハネは、そのことを思い「激しく泣いていた」のです。
しかし、今、使徒ヨハネの目は「御座の前」に釘付けになっています。
そこには「屠られた姿の子羊」が立っています。
そして、その方がとうとう「巻物」を受け取られたのです。
今や、神のすべての意志は「子羊の手の中」にあるのです。
屠られた子羊が「封印」を解かれます。
使徒ヨハネに告げられた「この後、必ず起こること」が解き明かされるのです。
地に「さばき」がもたらされます。未曽有の恐ろしい出来事が地に起こります。神の怒りの杯が満ちています。
それは「恐怖の時」であるはずです。
しかし、子羊が「巻物」を受け取ったとき、天に「恐怖」はありませんでした。
いえ、もしかすると「一瞬」静まり返ったかもしれません。しかし、それは「恐怖」にためではありませんでした。
子羊が「巻物」を受け取ったとき「四つの生き物と二十四人の長老たち」は、子羊の御前にひれ伏します。
彼らは、子羊を礼拝しました。この一瞬、天は静まり返ったかもしれません。
四つの生き物は「御使い」たちです。「二十四人の長老」は、贖われた人々です。
御使いと贖われた人は、ともに「子羊」にひれ伏します。
これは「子羊」が神である証です。イエス様は「完全に人」であり「完全に神」であられます。
「彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持って」いました。
御使いも、長老たちも同じものを持っていたのでしょうか。誰が何を持っていたのかはわかりません。
しかし、確実なことは、御座の前には「竪琴」と「香に満ちた金の鉢」があったということです。
「竪琴」は、もちろん賛美のための楽器です。御座の前には「賛美」が常にあるのです。
そして、御座の前には「香に満ちた金の鉢」もあります。「香」とは、聖徒の祈りのことだと記されています。
幕屋の聖所の中には「香のための金の祭壇」がありました。メノーラ(金の燭台」も聖所にあります。もしかすると、使徒ヨハネが見ているのは「天の聖所」なのかもしれませんね。
主の御座の前には「香に満ちた金の鉢」があるのです。それは「祈り」が常に御前にあることを表しています。
御座の前にある「竪琴」と「香に満ちた金の鉢」を使徒ヨハネは見ました。
愛する兄弟姉妹。
使徒ヨハネは「私たちのために」御座の幻を見たのです。
主は、御座の前に「竪琴」と「香に満ちた金の鉢」があることを、私たちに示しておられるのです。
それは、私たちが「黙り込んでしまわないため」です。
主は、私の嘆きを踊りに変えられました。私に喜びをまとわせてくださいました。
それは、私が「主をほめ歌い、押し黙ることがないため」です。
主は、私たちに「いつも喜べ」と言っておられます。「すべてのことに感謝せよ」とも言われます。
主は「憂いの衣の代わりに賛美の外套」を与えてくださったのです。
贖われた者たちよ。
私たちは「黙り込んで」いてはなりません。「押し黙って」いてはならないのです。
天の賛美に呼応して「常に」声を上げ続けましょう。
あなたが「一人で」賛美していたとしても、あなたの「賛美」は御座の前にあります。そして、そこでは「御使い」と「贖われた人々」が声を合わせているのだということを覚えていてください。
私たちは「祈り」においても「黙り込んで」いてはなりません。
「絶えず祈る」ことは「神が望んでおられること」なのです。
私たちは「黙り込んで」いてはなりません。
主は「今に至るまで働いて」おられます。
この地に「エルサレムを堅く立てる」まで「休みたくない」と思っておられるのです。
ですから、私たちは「主が来られるまで」絶えず祈り続けましょう。
主は、私たちの叫び求めを放っておかれることはありません。
なぜなら、御座の前には「香に満ちた金の鉢」があるからです。聖徒の祈りは、絶えず御前に立ち上っているのです。
「四つの生き物」と「二十四人の長老」は、子羊の御前にひれ伏しました。
子羊は、礼拝を受けるのに「ふさわしい方」です。
おそらく、一瞬、静まり返ったかもしれませんが、その後、爆発的な賛美が響き渡ったであろうと思います。
天の御座の前には、賛美が響き渡っています。そして、聖徒の祈りは、大切に抱えられ御前に立ち上っているのです。
新しい歌が歌われます
子羊が巻物を受け取った後、常に響き渡っていた賛美が少し変わります。
彼らは、今までとは違う歌を歌い始めたのです。
それは「新しい歌」でした。
「新しい」とは「質的に新しい」と言う意味の語が使われています。
この歌は「今まで歌われたことのない新しい歌」なのです。
「ユダの獅子でありダビデの根である方」が「勝利をする」までは、だれも「新しい歌」を歌うことはできなかったのです。
「屠られた姿の子羊」が「巻物」を受け取ったとき、彼らは「新しい歌」を歌い始めました。
この日から永遠に「新しい歌」が歌われます。「屠られた子羊」は、未来永劫「ほめたたえられる」のです。
「新しい歌」とは「贖いの歌」です。それは「血による贖いの歌」です。
私たちは「血によって」贖われました。
「贖われた」とは、言い換えれば「代価を払って買い取られた」と言うことです。
イエス様の尊い御血は、私たちの「贖い金」です。とても「高価な代価」が支払われました。
それは、何のためでしょう。
それは「神のため」です。
子羊イエスが屠られたのは「神のため」です。イエス様は「御父」のために私たちを贖ってくださいました。
御父は「ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡され」るほど、私たちを愛してくださいました。このことは、何度も何度も繰り返し心に刻むべきことです。
私たちは「何のために贖われた」のでしょう。言い換えれば「何のために代価を払って買い取られ」のでしょう。
「新しい歌」は、私たちが「贖われた目的」を歌っています。
私たちは「神のために」贖われました。それは、神の国の王である祭司となり、地を治める者となるためです。
私たちは「神のものとされた民」です。
イエス様は「闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方」です。
私たちは、もはや「闇の中」にはいません。「驚くべき光の中」にいます。
「贖い」とは、立場が変わることです。
私たちは「闇から光」に移されました。「サタンの支配から神に」立ち返りました。
そして、主の恵みのゆえに「キリストともに共同相続人」とされたのです。
私たちは、霊の目によって「聖徒が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を知るのです。
私たちは「屠られた子羊」を称えます。
私たちは「屠られた子羊」が成就されたことを告白し続けます。
「彼ら」を「私」に変えて告白するとよいでしょう。実際、「私たち」となっている写本もあるようです。
「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、『私』を王国とし、祭司とされました。『私』は地を治めるのです。」
私たちは「新しい歌」を歌いましょう。それは「贖いの歌」です。それは、今までとは違う歌です。
贖われた者として、私たちは「屠られた子羊」をほめたたえます。
そして、子羊が勝ち取ってくださった立場を、高らかに告白するのです。
千の幾千倍、万の幾千倍の御使いがいます
「新しい歌」が歌われているとき、使徒ヨハネは「天の軍勢」に気が付きます。
数えきれないほど多くの御使いが声を合わせていました。
ダニエルも幻の中で「幾千、幾万の者」を見ています。御使いたちの数は、私たちの想像以上に多いのかもしれません。
しかし、これほど多くの御使いの存在に、使徒ヨハネは今まで気がつかなかったのでしょうか。
おそらく、天では「霊的な目」が必要なのだろうと私は思います。
アラムの王が、エリシャを攻めるために軍隊を送ってきました。(詳細は、Ⅱ列王記6章を読んでください)
エリシャに仕える若者は、自分たちが「馬と戦車と大軍」に取り囲まれているのに、びっくり仰天しました。
若者は、恐れのあまり動揺して「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と叫んだのです。
エリシャは「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈りました。
主は、若者の目を開いて見えるようにしてくださいました。
そこには、アラムの軍隊よりも、もっと驚くべきものが見えました。若者はエリシャを取り巻き、山にあふれる「火の馬」と「戦車」を見たのです。それは「御使いの軍勢」でした。
霊の目は「主が開いて」くださるものなのです。主によって「開かれた」ならば、私たちにも、きっと天の軍勢が見えるだろうと私は信じます。
エリシャは、確かに偉大な預言者です。しかし、主は偉大な預言者だけを守られるのではありません。
これは、サタンがイエス様を誘惑する時に用いた聖書箇所ですね。私たちは、もちろん「主を試みてはならない」のです。
しかし、この御言葉自体は「真理」です。私たちには「見えない守り」が確かにあります。
ですから、私たちは恐れないで歩みましょう。
エリシャの若者のように「ああ、どうしたらよいのでしょう」と混乱してしまうようなときは、静かに祈りましょう。
「主よ、私の目を開いてください。あなたの守りを見せてください。超自然の平安で満たしてください」と。
主は、必ず祈りに応えてくださいます。必要なならば「御使い」を見せてくださるでしょう。しかし、そうでなくても「見えないものを信じる信仰」を増し加えてくださるはずです。
どんなときでも、あなたは「一人で放っておかれる」などということはありません。私たちには「万の幾万倍、千の幾千倍」の味方がいるのです。
一人でひざまずき、涙を流して、ひれ伏している友よ。
あなたの礼拝は、とても価値のあるものです。その賛美は、良き香りとなって御前に立ち上っています。そして、あなたの賛美に「万の幾万倍、千の幾千倍の御使い」が呼応しているのです。
一人で戦い、孤独に涙している友よ。
あなたは、決して一人ではないのです。あなたの心の目が開かれますように。主は、あなたのために御使いを遣わしてくださいます。見えない守りが、いつもあなたとともにあるのです。
主の御座の周りには「万の数万倍、千の数千倍」の御使いが仕えているのです。
すべてのものが称えます
さあ、想像してみてください。
「万の幾万倍、千の幾千倍」の御使いが「大声で言った」のです。
その声は「大音響」などと言う言葉ではとても言い表せないでしょう。
御使いたちは「七つのふさわしいもの」を屠られた子羊に帰しています。
「力・富・知恵・勢い・誉れ・栄光・賛美」は、ただ主にだけ「ふさわしい」ものです。
私たちは、これらの「七つ」を、決して他のものに帰属させてはなりません。
さて、これはどういう状況なのでしょう。なかなか想像しがたい光景です。
使徒ヨハネは、いったい何を見て、何を聞いたのでしょうね。これは、御国に行ったときに、直接、確かめたいと思っている場面の一つです。
ただ確かなことは「全被造物」が「御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光が世々限りなくあるように」と言う日が必ず来るということです。
「必ず来る」という言葉で混乱しないでください。
「ヨハネは、今、見ているのでしょう。これは、まだ起こっていないことなの」という疑問が湧いているかもしれませんね。
どうぞ思い出してください。使徒ヨハネが「どこ」にいるのかを。
ヨハネは「天」にいます。つまり「永遠の中」にいるのです。
「時」を創造された方を「時」に閉じ込めてはなりません。そんなことをすれば、ますます「神」を理解することができなくなるでしょう。
黙示録は「天」の視点、つまり「永遠の視点」から読み解く必要があります。「地上の時」に縛られて解釈するならば混乱するだけです。
しかし、思い出してください。ヨハネが神の臨在の中に足を踏み入れたとき、永遠という時間のない世界に入ったのです。数千年前の出来事を目前に見ることができたのと同様に、半世紀前の出来事も見ることができました。ヨハネは時間の枠組みに制限されていなかったのです。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
さて、話を戻しましょう。
主イエスが「ご自分を空しくし」「自らを低くし」「十字架の死にまで従われた」ゆえに、御父は「この方を高く上げて、すべての名にまさる名」を与えられたのです。
「低くされた」のは「高く上げるため」です。
苦しみを受けられ、よみにまで下られた方に「すべてのものにまさる名」が与えられたのです。
すべての舌が必ず「イエス・キリストは主です」と告白します。
そして必ず「御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光が世々限りなくあるように」と叫ぶのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちも、ひれ伏しましょう。霊とまことをもって、御前に礼拝をささげましょう。
「御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光が世々限りなくあるように」
祝福を祈ります。