黙示録5:6
また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。
七つの角は「すべての権威」です
前回は「屠られた姿の子羊」について学びました。
今回はその続きから学びます。黙示録5章6節の後半です。中途半端な長さになったので6節後半だけです(笑)
いつもより、少し短めのメッセージになりますね。
さて、本文に入りましょう。
使徒ヨハネは、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に「屠られた姿で子羊が立っている」のを見ました。
この方こそ「巻物を開き、七つの封印を解くのにふさわしい方」です。
「屠られた姿の子羊」は、小さな可愛い子羊です。それは「弱々しく」見えるでしょう。
しかし、その子羊は「七つの角」と「七つの目」を持っていました。
なんだか不思議な子羊ですね。
「角」は「力」「権威」の象徴です。「七」は完全数です。
「七つの角」とは、屠られた姿の子羊が「完全な力」「完全な権威」を持っていることを表しています。
イエス様に「すべての権威」があります。私たちは、子羊に「すべての力」「すべての権威」があることを心に留めていなければなりません。
なぜなら「反キリストの霊」がすでに来ているからです。
この後、反キリストと呼ばれる獣が海から上がってきます。
この獣にも「角」があります。反キリストは地上において、自分の「力」「権威」を誇示します。人々は、獣に権威を与えた「竜」つまり「サタン」を拝むようになります。(詳しくはまた13章で学びます)
今はまだ「反キリストそのもの」は現れてはいません。
しかし、今すでに「反キリストの霊」は世に来ています。
終わりの日に「反キリスト」が出現した時から突然「惑わしの力」が現わされるのではありません。
「不法の秘密」はすでに働いています。
できれば「選民をも惑わそう」とする悪しき力は、今すでに働いているのです。
終わりの日が近づくにつれて、その力はますます強く働きます。
世の中の「権威」は「獣」のような恐ろしい姿によって現わされます。
ダニエル書にでてきた「世界帝国」は「獣の姿」をしていました。とくに最後の世界帝国である第四の獣はとてつもなく不気味で恐ろしい姿でした。
終わりの時には、このような獣が現れるのです。世界は「恐ろしく不気味な獣」に支配されるのです。
確かに、世の中は「不気味」になっていっていると私も思います。
それは何か、ただ恐ろしいだけではなく「得体のしれない不気味さ」を感じさせます。
世の中は、ますます「ややこしく」なっていくでしょう。何が「善」なのか、何が「正義」なのか、ますます混乱していくでしょう。
C・Sルイスが言うところの「人の皮を着た獣」が歩きまわる時代になるかもしれません。
誰を信じればいいのか、はたまた「誰も」信じてはならないのか…
聖書の言う通り「人々の愛は冷えていく」のでしょう。おそらく「愛のようなもの」が蔓延していくのでしょう。
私たちは、どうすればいいのでしょうか…
途方に暮れてしまいますね。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「屠られた姿の子羊」を見上げましょう。十字架に死なれ、よみがえられた主イエスから目を離さないでいましょう。
「七つの角」を持っているのは「屠られた姿の子羊」であることをどうか忘れないでください。
それは「小さく可愛らしく」見えます。それは「弱々しく」見えるかもしれません。とてもではないけれど「すべての権威」を持っているようには見えません。
それでも「神の弱さは人よりも強い」のです。
「屠られた子羊」とは、十字架ですべてを「完了」してくださった子羊なのです。
「屠られた子羊」に「すべての権威」があります。
ですから、私たちは「誰に権威があるのか」を探す必要はないのです。
誰が「反キリストの霊」なのかを見極める必要はないのです。
そのようなことをすれば「惑わされる」ことになるでしょう。
私たちはただ「イエスから目を離さないで」いればよいのです。
覚えてください。
「反キリストの霊」は、キリストの栄光を盗む霊です。
私たちは「神の栄光」をすり替えられてはなりません。
どんなものにも「神の栄光」を与えてはなりません。
世の終わりに際して、最も注意するべきは「誰が反キリストなのか」を見極めることではありません。
何が「善」なのか、何が「正義」なのかを探し求めることでもありません。
最も注意するべきはことは「神の真理を偽りと取り替えないようにする」ことです。
「造り主」の栄光を、決して「造られたもの」に与えてはなりません。それが「反キリスト」の目的なのです。
私たちは、細心の注意を払って「神に栄光」をささげましょう。そのことに全力を注ぎましょう。そうすれば、反キリストの霊に惑わされることはないと信じます。
「神の栄光」を奪う者こそ「反キリストの霊」です。
これから先、何が起こったとしても、ただ「屠られた子羊」を見上げましょう。
すべてのことが「混乱」していくように見えても恐れてはなりません。退いてはなりません。
堅く信仰に立って、子羊を見上げ礼拝するのです。私たちは「信じていのちを保つ者」です。
「巻物」を受け取られたのは誰でしょう。「神の意志」をすべて実行されるのは誰でしょう。
「屠られた姿で立っている子羊」です。「七つの角」を持つ子羊です。
私たちの「屠られた子羊」は、すべてを「握って」おられます。「すべての権威」を持っておられます。
見えない先を案ずるのはやめましょう。すべてのことが「御手の中」にあるのです。私たちには「途中」のことは分かりません。しかし「結末」は明らかにされています。
「その時になると」主はすべてを解決されるのです。「混乱」は消え去ります。「不気味さ」は一掃されます。
かつて、イエス様は仕えられるためではなく「仕えるため」に来てくださいました。多くの人の贖いの代価としてご自身のいのちを与えるために来てくださいました。
しかし、二度目は違います。
「その時になると」来臨の輝きがこの地を照らします。
「七つの角」を持つ「屠られた姿の子羊」をあがめましょう。
この方こそ「栄光と賛美を受けるにふさわしい方」です。
七つの目とは「神の七つの御霊」です
屠られた子羊は「七つの目」を持っておられます。「完全にすべてを見る」ことができるということです。子羊は「全知の神」だからです。
この「七つの目」は「神の七つの御霊であった」と使徒ヨハネは言います。
聖霊様こそ三位一体の神の「目」であられる方です。
エルサレム再建のとき、預言者ゼカリヤは幻を見ました。その幻について詳しく学ぶ時間は今はありません。けれどゼカリヤ書はいつか必ず学びたいと思います。
それはさておき…
大祭司ヨシュアの前に置かれた「一つの石」とは、私たちの大祭司である主イエスの型です。
「一つの石の上」には「七つの目」がありました。
「七つの目」は、全地を行き巡る「主の目」です。聖霊様は「全地を行き巡って」おられます。
すべてをご存知なのです。
聖霊様は「神の七つの御霊」と呼ばれます。それは「完全な神性」を表すと同時に「七つのご性質の啓示」でもあります。そして、それはまた、主イエスが「御霊に満ち満ちておられる」ことをも表しています。
イエス様は「エッサイの根株から出た若枝」です。つまり「ダビデの根」です。
その方の上に「主の霊」がとどまるのです。
イエス様の上に「七つの霊」すなわち「御霊のご性質」が満ちあふれていました。
「主の霊」を中心とした「七つの霊」です。
「主の霊」
「知恵の霊」
「悟りの霊」
「思慮の霊」
「力の霊」
「主を恐れる霊」
「知識の霊」
以前の新改訳と口語訳では、最後の部分は「主を知る知識と主を恐れる霊」と訳されていました。
これは聖所に置かれていた「メノーラ(燭台)」をイメージすると分かりやすいですね。

画像は聖所のメノーラではありません。イメージですが、それでも理解するのに役立つでしょう。
聖所に置かれた器具はすべて、イエス様を表す型です。
メノーラ(金の燭台」も、もちろんイエス様を表しています。
メノーラ(金の燭台)をよく見ると、七つに枝分かれしているように見えます。
しかし、もっとよく見ると「真ん中の支柱」から「六本の枝」が出ているのが分かります。
主イエスという燭台に「主の霊」という支柱があります。そして、そこから「六つの霊」が枝のように現れていると考えれば「七つの霊」の意味が分かります。
イエス様は「神の燭台」であり、御霊に満ち満ちたお方です。
主は、エペソの教会に言われました。
「七つの燭台」は「七つの教会」を表すと主イエスは言われました。
「教会」から「燭台」が取り除かれるということは、そこはもはや「教会」ではなくなると言うことです。
そしてまた「燭台」が主イエスご自身をも表すとするならば、「教会」からイエス様が去ってしまわれると解釈することもできるでしょう。
教会とは、イエス様が満ちておられるところです。
それは言い換えると「神の七つの御霊」が満ちておられるところです。
私たちの教会に「神の七つの御霊」は満ちているでしょうか。
イエス様は「御霊の力に帯びて」おられました。
私たちはどうでしょう。
これらの「御霊の性質」は、教会に満ちあふれているでしょうか。
私たちは「御霊に導かれて」いるでしょうか。
私たちは「自分の目」に従って歩んでいないでしょうか。
私の求めるものは、神の七つの霊でしょうか。
「主の霊」に満ち満ちるならば「貧しい人に良い知らせが伝えられ」ます。
「油注ぎ」があるならば、捕らわれ人に解放が告げられます。
目の見えない人の目が開くと告げられ、虐げられている人は自由にされます。
教会に「主の霊」が満ちるなら、そのようなことが起こるのです。
私が「御霊に満ち満ちる」ならば、恵みを告げ知らせることができるのです。
イエス様は、ご自身を復活させた「御霊」を全地に遣わしてくださいました。
屠られた子羊をよみがえらせた御霊が、今、私たちとともにおられるのです。
「神の目」である方が、私たちとともにおられるのです。
「七つの目」である方は、すべてを見通しておられます。
聖霊様こそ「これから起こること」を告げられる方です。
「屠られた姿の子羊」は「神の七つの御霊」によって、すべてのことを知られます。
私は「七つの目」である「神の七つの御霊」をもっと知りたいと願います。
私を導かれる聖霊様に従順でありたいと切に願います。
そうして、聖書に書かれていることが「実際に起こる」のを見たいのです。
子羊に「七つの角」と「七つの目」があるのです
弱く見える子羊こそ「すべての権威を持つ全知全能の神」です。
イエス様は、ご自身が「子羊」に見えることを気になさいません。本当は「獅子」であることを誇示したりされません。
なぜなら、強さは「見えるところ」にはないからです。
「屠られた姿の子羊」は、真の強さが何かを示しています。
「屠られた姿の子羊」に「七つの角」と「七つの目」があるのです。
それは、サタンには絶対に分からない真理です。この世の知者や賢者には決して分からない「神の知恵」です。
愛する兄弟姉妹。
弱さを嘆いて下を向き続けてはなりません。
確かに、私は弱いのです。時々、自分の無力さに途方にくれます。
しかし「神の七つの御霊」と呼ばれる聖霊様がおられることを思うと勇気が出ます。
「屠られた姿の子羊」が「七つの角」と「七つの目」を持っておられることこそ、私たちの希望です。
私たちは壊れやすい「土の器」ですが「宝」をうちに入れています。
黙示録は「勝利」が何によってもたらされるのかを教えています。
それは「力」ではありません。それは「圧政」でもありません。それは「能力」でもないのです。
勝利は「子羊の血」と「証のことば」によってもたらされます。
私たちは「子羊」を誇りましょう。「屠られた子羊の血」こそ「勝利」だと「証」しましょう。
「屠られた姿の子羊」にこそ「すべての権威」「全知の目」があるのです。
私たちのうちには「七つの御霊」と呼ばれる方がおられるのです。
救いは「子羊」にあります。勝利は「子羊の血」と「証のことば」によってもたらされます。
私たちは「子羊の血」を宣言しましょう。その勝利を「宣言」しましょう。
私たちは「屠られた姿の子羊」を掲げて歩みます。「子羊」の権威を宣言しながら歩みます。
これから先、何が起ころうとも「勝利」は「子羊」にあるのです。
信じましょう。従いましょう。
御霊に「満ち満ちる」ことを切に求めましょう。
「屠られた子羊」こそ、すべての栄光を受けるのにふさわしい方です。
祝福を祈ります。