黙示録5:6
また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。
前回の復習から始めます
黙示録5章の学びを続けましょう。
前回は「封印された巻物」について学びました。今回は「巻物を受け取られた方」について学びたいと思います。
さて「七つの封印で封じられた巻物」は、誰でもが気軽に受け取れるものではありませんでした。受け取れるのは「条件を満たした者」だけです。前回も学びましたが、少し復習したいと思います。
主は、公平なお方ですから「すべてのもの」に呼びかけられたのです。
「巻物を解くにふさわしいと思うものは名乗りをあげよ」と。
しかし「天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった」のです。
誰一人「条件を満たす者」はいなかったと言うことです。
「神の意志」が記された巻物を解くことができる者は、どこにも「存在」しません。
「神の意志」を遂行できる者は「天にも地にも地の下にも」いないのです。
ただ一人の方、私たちの「主イエス・キリスト」を除いては…
イエス様は「ユダ族からでた獅子」です。
その昔、族長ヤコブは、息子であるユダのことを「獅子の子」と呼びました。ユダ部族の旗印は「獅子」です。
そしてまた、ユダから「王権」は離れないとも言いました。
「彼がシロに来て」は、解釈が難しいので詳しいことは省きます(笑) 機会が与えられれば、いつか学びましょう。
ただこの箇所は「救い主」「統治者」がユダ族から出ることの預言であろうとは思えます。
イエス様は、ユダ族出身の「救い主」「統治者」です。
「ダビデの根」とは、ダビデの子孫であるという意味です。
「エッサイ」とは、ダビデの父です。
エッサイの根、すなわち「ダビデの子孫」から「もろもろの民の旗」「国々が求める者」がでるとイザヤは預言しました。
イエス様は「ダビデの子孫」すなわち「ダビデの根」です。
また、イエス様自身も宣言されています。
「ユダ族の獅子」であり「ダビデの根」である方が「勝利された」ので「巻物の封印を解く」ことができるのです。
「勝利した」とは、もちろん「十字架と復活」を経験されたと言うことです。
主イエスは、死の力を持つ者を滅ぼされ、私たちを死の恐怖から解放してくださいました。
死はもはや力を持っていません。悪魔は打ち負かされた敵です。
イエス様が勝利されたので、私たちも勝利を得ました。
イエス様の勝利のゆえに、私たちは「圧倒的な勝利者」とされました。
「ユダの獅子」「ダビデの根」「勝利した方」である主イエスこそ「巻物」を受け取るのにふさわしい方です。
それは、創世の昔から定められていた条件でした。族長ヤコブを初め、預言者たちが告げて来たことが実現したのです。
現れたのは屠られた姿の子羊でした
使徒ヨハネは、どこにも巻物を受け取るのに「ふさわしい者」を見出せなかったので「激しく泣いて」いました。
そのヨハネに長老が言ったのです。もう一度、黙示録5章5節を読みます。
ヨハネは、おそらく泣き止んだのだろうと思います。そして、御座の中央に目を向けたのです。
ヨハネは「獅子」を期待したかもしれません。もしくは、先に見た「主イエスの栄光に輝く姿」を探したかもしれません。
「ユダの獅子」「ダビデの根」「勝利した方」と聞くと、私たちは「力強さ」「威厳」「権威」などという言葉を思い浮かべるでしょう。
しかし、そこに立っておられたのは「子羊」でした。しかも「屠られた姿の子羊」だったのです。
それは「弱い」ように見えます。それは「無力」のように見えます。しかし、子羊こそ「勝利した方」なのです。
その「子羊」は「屠られた姿」で立っていました。
使徒ヨハネは、そこに「傷あと」を見たのかもしれません。もしくは、まさに「血」を見たのかもしれません。
その子羊は「屠られた」ことがわかる状態で立っていたのです。
勝利を得たのは「屠られた子羊」です。
そして、子羊こそ「獅子の力を持つ王」なのです。けれど、それは「外見」ではわかりません。
天国のことばは「十字架のことば」であると私は思います。
「十字架のことば」は、この世の人々にはわかりません。どんなに偉い人でも、どんなに賢い人でも、生まれたままの人には理解できないのです。
しかし、天の御国の民はみな、この「十字架のことば」を理解するのです。
私たちは「十字架のことば」を聖霊によって理解します。
聖霊様は「十字架のことば」を解き明かされます。
それは「弱さ」のうちにある「強さ」を明らかにします。
「無いもの」を「有るもの」のように呼びます。
「無に等しい者」を選ぶ「神の知恵」を語ります。
「屠られた姿の子羊」を見つめるとき、私たちは「神の知恵」「神の賢さ」を悟ります。
「屠られた姿の子羊」を見つめるとき、私たちは「神の義」「神の愛」を知ります。
「屠られた姿の子羊」を見るとき、私たちは「十字架こそわが誇り」と叫ぶのです。
「御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立って」おられます。
天のすべての目が、子羊を見つめています。全世界の行く末は「屠られた子羊」に委ねられるのです。
それは「愛されている子羊」です
さて、ここで「子羊」という言葉に注目してみましょう。
全世界の行く末を握るのは「子羊」なのです。
使徒ヨハネは、ここで「特殊」なことばを用いています。
通常「子羊」と訳される語は「アムノス(ἀμνός)」というギリシャ語が使用されます。
「犠牲の羊」「1歳の角のない羊」などと説明されます。
ヨハネの福音書で用いられている語は「アムノス(ἀμνός)」です。
バプテスマのヨハネは、イエス様を見て「神のアムノス(犠牲の子羊)」と呼んだのです。
しかし、使徒ヨハネが黙示録で使用したのは「アルニオン(ἀρνίον)」という語です。
使徒ヨハネは「屠られた姿のアルニオン(子羊)」が立っていると言ったのです。
「アルニオン」も「子羊」を表す語です。
けれど、新約聖書の中では黙示録にしか使用されていません。
「アルニオン」という語は、たいていの場合「勝利の子羊」と説明されます。言葉の意味ではなく「子羊の立場」の説明ですね。
もちろん、御座の前に立っているのは「勝利の子羊」です。イエス様は「犠牲の子羊」として、十字架に架けられましたが、今は、よみがえられ「勝利の子羊」として立っておられるからです。
しかし「アルニオン(子羊)」という語自体には、また別の意味があるようです。
J・バーノン・マギー神学博士はこのように言っています。
「小羊(アルニオン)」と書かれています。ここにあることばは(その小羊が)とても小さいことを示しています。文字通りには「小さな小羊」を意味します。小羊のおとなしさと、小羊が自ら進んで犠牲になることを示しています。
J・バーノン・マギー博士によるラジオ番組「Thru The Bible」より 福田弘之牧師訳
「アルニオン」とは、可愛らしい小さな羊を意味する語のようです。
「アムノス(犠牲の子羊)」の場合、強調されるのは「犠牲のための傷のない子羊」ということでしょう。イエス様は、罪のない方、傷も汚れもない方です。ゆえに、神にささげられる「なだめの供え物」とされたのです。
しかし、なぜ使徒ヨハネは、この場面で「犠牲の子羊」ではなく「可愛らしい小さな子羊」という語を用いたのでしょう。
これは、個人的な解釈ですが「視点」の違いなのだろうと思うのです。
「アルニオン(可愛い小さな小羊)」について、もう少し詳しい解説を紹介しましょう。少し長い引用になります。
けれども、この黙示録の中に二十回以上出て来る「小羊」は、もっと深い意味を持つことばです。英語の「ペット・ラム(ペットの子羊)」に当たります。
~中略~
ある雪の夜、一頭の雌の羊が死んでしまい、生まれたばかりの小さな小羊が残されてしまいました。飼い主の農夫は、その小さな子羊を寒さから守るために自分のコートに包み、家まで連れて来ます。~中略~
やがて、その子羊は成長し、子どもたちのペットになります。子どもたちは出かけるとき、ちょうど子犬や子猫を連れ歩くように、その子羊を連れて行きます。名前もつけて、本当にかわいがるのです。これが「ペット・ラム」です。その家の羊です。この言葉が二十回以上、私たちの主イエス・キリストに関して使われています。神の家の「ペット・ラム」、本当に愛されている神の子羊です。
ヨハネの黙示録 J・B・カリー著 伝道出版社
「アルニオン」とは、可愛い小さな愛されている「我が家の羊」なのです。
主イエスは、御父の愛する「ひとり子」なのです。
御父は、ご自身の「愛するひとり子」を死に渡されたのです。
そのことは、予表として預言されていました。
主はアブラハムを試練にあわせられました。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとして献げよ」と言われたのです。
主はご存知でした。
アブラハムがイサクをどれほど愛しているのかを。
そして、またイサクが約束を受け継ぐ唯一の「ひとり子」であるということも。
御父は、アブラハムと同じ痛みを負ってくださいました。いえ、それ以上の痛みです。
イサクに振り上げられた刃は止められました。しかし、イエス様をムチ打つ手は止められませんでした。
私たちは「犠牲の子羊」が「愛されていた神の子羊」であったことを覚えていなければなりません。
主は、そのことを心に留めて欲しいと望んでおられます。
それは、イスラエルの過越しの規定にも表れているように思います。
過越しの犠牲の子羊は「家で飼われている」ものの中から選ばれます。
その月の10日に選ばれた羊を14日まで見守ります。
今まで「家で飼っていた羊」は「過越しの子羊」となります。それは「屠られるため」に選ばれた羊です。
「この子羊は、あと数日で屠られるのだな」と思いながら家族で見守るのです。
その当日、過越しのための子羊を屠るとき、その子羊の血が流されるとき、誰しもが少しばかりの「痛み」を感じるのではないだろうかと思います。
数日、見守った子羊を屠るときでさえ「痛み」を感じるのです。
そうであるならば…
御父の「痛み」は計り知ることができません。
主イエスは、私たちの「過越しの子羊」です。
主イエスは私たちの「アムノス(犠牲の子羊)」です。そして、御父の御目から見るならば「アルニオン(愛する神の子羊)」なのです。
御座の前に進み出たのは「アルニオン(愛されている神の子羊)」です。
御父の「愛するひとり子」である方が御座の前に立っておられます。
「愛するひとり子」である方が「屠られた姿」で御座の前に立たれます。
この方が「勝利した子羊」なのです。
愛する兄弟姉妹。
ここに「圧倒的な愛」があふれています。
御子をさえ惜しまずに死に渡された方の愛が満ちています。
目の前に置かれた喜びのゆえ十字架を忍ばれた方の愛があふれています。
御父と御子の間にある「信頼」と「愛」があふれています。
そして、驚くべきことに、御霊によって私たちはその愛の中に入れられているのです。
ここに「愛」があります。
確かに、使徒ヨハネに示される「この後、必ず起こること」は、言葉に表せないほど恐ろしい出来事です。
神の怒りが地に注ぎだされます。
しかし、どうか覚えていてください。
この5章の光景を。
神の愛が満ちあふれている天の光景を。
「神は愛」なのです。御子をさえ惜しまず死に渡されるほど「私たち」を愛しておられます。
イエス様は、永遠に「屠られた子羊」です。
私たちは、未来永劫「屠られた子羊」を賛美します。そして礼拝します。
5章は黙示録の中心です
私は、個人的に黙示録の要は「5章」と「15章」ではないかと思っています。ですから、少し詳しく学んでいます(笑)
多くの聖徒の関心は「13章」の獣や666の数字にあるかもしれません。
けれど、黙示録を学ぶときに「神の愛」から視線を外すならば間違った結論に導かれる恐れがあります。
天の光景を決して忘れないでください。
使徒ヨハネが「天に上げられて」いるのだということを覚えていてください。
私たちの人生においても「神の愛」から視線を外してはなりません。
「神の愛」は「永遠の愛」であることを覚えてください。
それは「時」によって移り変わりません。
それは「状況」によって変化しません。
「屠られた姿」で立つ子羊が「誰のために」苦しまれたのかを忘れてはなりません。
御父が「誰のために」愛するひとり子を死に渡されたのかを忘れてはなりません。
「状況」によって愛を測ってはなりません。
「見えるところ」はすべてではないからです。
十字架のことばは「滅びる者たち」には愚かに見えるのです。
屠られた子羊が「弱く」「無力」に見えるのは「神の知恵」です。
十字架のことば、天のことばを理解することを求めましょう。
御国に満ちあふれている「愛」に、あなたも満ちあふれることができますように。
次回は、5章6節の続きを学びます。「神の七つの御霊」について学ぶ予定です。
祝福を祈ります。