黙示録5:1
また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。
七つの封印で封じられた巻物を見ました
使徒ヨハネは「天の礼拝」を見ました。四つの生き物と二十四人の長老たちの礼拝です。
四つの生き物は「聖なる、聖なる、聖なる主なる神」と叫んでいます。
二十四人の長老たちは、冠を投げ出し御前にひれ伏し礼拝しています。
「主よ、私たちの神よ、あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と言う声が響いています。
そのような中で、使徒ヨハネの視線は「御座に着いておられる方の右の手」に向けられます。
賛美の中心におられる、その方の右の手には「巻物」が握られていました。
「右の手」とは「力」を表します。主の「右の手」は「力強い」のです。
その「巻物」は、主の義の右の手にしっかりと握られています。誰も何も、御座に座しておられる方から「巻物」を損なうことも奪うこともできません。
では、この「巻物」とはいったい何でしょうか。
多くの注解者が、これは「地球の権利証書」もしくは「購入証書」であると言っています。
それでは一体、神の右の手にある巻き物とは何をさしているのでしょう。実は、その巻き物は、地球の権利証書なのです。もともとこの地球は、神が創造したのですから、神の所有物です。しかし、神は人を創られたとき、地球の所有権を人間に渡しました。創世記1章で、神は人に地を支配し、管理せよと命じられています。
黙示録の封印を解く チャック・スミス著 プリズム社
もう一つの解釈は、この巻物は「遺言書」であるというものです。
アジアの教会のまずすべての会衆は、七つの封印で閉じられた「ビブリオン(巻き物)」が遺言であることを知っていた。遺言は遺言者が死んだ後、取り出され、事情が許す限り、それを封印した七人の証人すべての前で開けられた。遺言は公に開封され、朗読され、施行されたのである。
一人で学べるキリストの啓示 K・フルダ・伊藤著 文芸社
確かに、この巻物の「呼び方」については、様々な意見があります。
「地球の権利書」「購入証書」「遺言書」など…
しかし、どのように呼んだとしても「その意味するところ」は同じです。
この巻物は、遺書(will)でした。すなわち、誰かの最終的な意志(will)を示す書です。五章の最初に、誰がこの巻き物を持っているかによって、これが誰の意志を示す書であるかを確認することが可能です。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
私たちが巻物を「権利書」と呼んでも「遺言書」と呼んでも、その内容に変わりはありません。
実際、この巻物は「権利証書」でもあり「遺書」でもあると思います。個人的には「購入証書」という呼び方が気に入っています。
巻物に記されているのは「この地に対する神の意志」です。
この巻物には「内側にも外側にも」神のことばが記されているのです。
その内容は、これから明らかにされます。
封印が一つずつ解かれていきます。そのたびに「神の意志」が明らかにされるのです。
そこに書かれていることは、ただ明らかにされるだけではなく「実行」されます。
ですから「巻物を受け取って封印を解く者」は、同時に「書かれていることを実行する者」でもあるのです。
私たちは、キリストが「救い主」であることを覚えて感謝すると同時に、キリストが「さばき主」であることを覚えていなければなりません。
預言者ゼカリヤは「飛んでいる巻物」の幻を見ています。
ゼカリヤが見た「巻物」は、使徒ヨハネが見た「巻物」と同じであるという注解者もいます。そうであるかもしれません。
もちろん定かではありませんが、確実なことは「書かれていることに照らし合わされる」と言うことです。
ゼカリヤの見た巻物にも「一方の面」と「もう一方の面」つまり「内側と外側」がありました。
そこには、少なくとも「盗む者」と「偽って誓う者」について記されていました。人々は、その「巻物」に書かれていることに「照らし合わせて」取り除かれるのです。
主なる神は「理不尽な神」ではありません。「横暴な主人」ではないのです。「怒り」にまかせて火を下すような方ではありません。公正に「書かれたことにしたがって」裁かれるのです。
イエス様は言われました。
イエス様が「御父のみこころの実行者」であることが分かります。
主イエスは「わたしのさばきは正しい」と言われました。
それは「自分の意志ではなく遣わされた方のみこころ」を求めるからです。つまり「御座に座しておられる方の意志」です。
「終わりの日」に人をさばくものとは何でしょう。
それは「神のことば」です。イエス様が語られた「ことば」が人をさばくのです。
私たちは最終的に「神のことば」に照らし合わされることになります。
そして、そこにはもはや「弁解の余地」は残されていません。
主のさばきは「正しい」のです。
誰もいないことは「確認」なのです
さて、この巻物は、誰もが開けて見ることができるというものではありません。
この巻物を受け取って開くためには「条件を満たす」ことが必要なのです。
一人の強い御使いとは、大天使ガブリエルのことでしょうか。
御使いは大声で「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と告げています。その声は「天と地と地の下」にも響き渡ったようです。
主なる神は「公平」な方です。天と地と地の下にまで呼びかけられました。
「誰でも、巻物を受け取るにふさわしいと思う者は来なさい」と。
しかし「だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった」のです。
つまり、だれ一人として「条件を満たす」ことができなかったと言うことです。
使徒ヨハネが「激しく泣いた」ということは、この巻物の重要性を認識していたということでしょう。
恐らく、この巻物の中に「この後、必ず起こること」が記されていると知っていたのだと思います。
激しく泣いているヨハネに長老の一人が近づきました。この長老は、事の次第を知っていたようです。恐らく24人の長老は、全員、だれが巻物を受け取るのかを知っていたのでしょう。
そういう意味においては、長老たちは「しもべ」ではなく「神の友」であると言えます。
長老は、ヨハネに言いました。
「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」
天と地と地の下のどこにも「ふさわしい者」は存在しませんでした。
ヨハネは、そこに絶望を感じ「激しく泣き」ましたが、それは「確認」に過ぎなかったのです。
私たちは、時々、何の手立てもないことに焦りを覚えます。どこからも助けが得られないことに恐怖すら感じるでしょう。
しかし、覚えてください。
たとえ「天にも地にも地の下にも」どこを見渡しても救いがないように思えても、それは「終わり」を意味するのではありません。
「ご覧なさい」と長老は言います。
どんなときにも、私たちは「見る」ことができるのです。そして、私たちが見ようとするならば、必ずそこに「勝利を得た方」がおられます。
「誰もいない」「何もない」ことは、救いが「主にのみある」ことの確認なのです。
私たちは、「激しく泣く」ほどの痛みを味わうかもしれません。
助けがどこにもない、望みは絶え果てたと嘆き崩れることがあるかもしれません。
けれど、どうか覚えてください。
私たちの主イエスこそ唯一の「栄光の望み」です。
あなたが自分の無力さを嘆き悲しむとき、誰も手を差し伸べてくれないと失望するとき、孤独に押しつぶされそうになるとき、主は、あなたの側におられます。
「ご覧なさい」
勝利した方がおられます。
私たちの「栄光の望み」が輝く光の中に立っておられます。
激しく泣いた使徒ヨハネの目の前に現れた方は、同じように、今日、激しく泣くあなたの前に立っておられます。
条件を満たした方が巻物を受け取られます
さて、もう一度、黙示録5章5節を読みましょう。
長老は「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので」巻物を開くことができると言いました。
つまり、それが「条件」だったわけです。
イエス様こそ「ユダ族からでた救い主」であり「ダビデの子孫」です。そして、十字架に架かり復活された「勝利の主」です。
このこと(ユダ族の獅子とダビデの根について)は、次回にもう少し詳しく見ます。今回は条件が満たされたことだけ覚えてください。
巻物とは「地球の権利証書」であり「購入証書」であり「遺書」であると言いました。
そして、私は「購入証書」という呼び方が気に入っていると言いました。それには理由があります。
私たちは、最初にこの地が「人間」に与えられたということを知っています。
地の所有権を証明する権利証書は最初、人間に与えられましたが、サタンの惑わしと人間の罪により、呪いを招くことになりました。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
人は、サタンに騙されて「地の権利証書」を明け渡してしまいました。
イエス様も認めているとおり、サタンは「この世の君」です。
しかし、「ユダの獅子」「ダビデの根」である方が「勝利」したので、その権利証書は取り戻されたのです。
つまり「買い戻された」と言うことです。
もともと「すべては主なる神のもの」です。それを「人」にお任せになりました。しかし「人」は、それをまんまと「だまし取られ」たのです。
主は、全能なる神として「文句を言わせず無代価で」それを取り戻すこともお出来になりました。
しかし、主は、ご自身のものを「代価を払って」再び買い戻してくださったのです。
「子羊のようなキリストの尊い血」が代価として支払われました。
今、私たちは「主のもの」です。そして「全世界」も主のものです。
「代価は十分以上」に支払われています。
しかし、サタンは「終わりの日」まで「不法占拠」を続けるつもりなのです。
サタンは「偽り」「騙しごと」を駆使して「この世の君」であり続けようとしているのです。
覚えてください。
イエス様は「人として」すべてを取り戻してくださったということを。
イエス様は、ルツ記における「ボアズ」のような存在です。
「ボアズ」は「買い戻しの権利のある親類」の一人でした。しかし「もっと近い買戻しの権利のある親類」が他にいたのです。
そこでボアズは、その親類に言います。
「買い戻し」とは、その相手の「権利を回復させること」です。
今回は、ルツ記について詳しくは学べません。しかし「贖い」について理解するためにルツ記の学びは必須でしょう。ですから、いつか詳しく学びたいと願っています。
今はただ、イエス様が「ご自身のため」ではなく「人の権利を回復させるため」に血を流されたのだということを覚えてください。
イエス様は「人として」勝利を得る必要がありました。主イエスは、私たちの「代表」として、すべてを買い戻してくださったのです。
「血と肉」を持たれたと言うことは「人」になられたと言うことです。
主イエスが「血と肉」を持たれたのは「血を流し、肉に傷を負う」ためです。
そして、最後に「死ぬ」ためです。神であるならば「死ぬ」ことはできません。神は「不滅」なのですから。
ここで「創始者」について、以下のように言われます。
ここで「創始者」と訳されている語は、「開拓者」あるいは「戦士」という含みのある語です。開拓者は「人」のために道を切り開き、彼らをその道に導きます。戦士は人々を束縛と苦痛から救い出します。イエスは私たちを救い出し、ご自身の救いのみわざによって救いの道を切り開いてくださいました。
ヘブル書に学ぶ ガレス・コッカリル著 福音文書刊行会
つまり、イエス様は「私たちの代表」なのです。
「人」として聖なる生涯を歩まれました。主イエスは「罪のない唯一の人」です。
「人」として打たれ、血を流され、十字架で死なれました。
そして、人として勝利され復活されたのです。
すべては、私たちが「後に続くため」です。私たちが「失ったもの」を再び「取り戻すため」です。
イエス様は、ご自身の尊い血をもって「人の権利を回復して」くださったのです。
この方以外に「巻物を受け取るのにふさわしい方」はいないのです。
キリスト・イエスこそ「その巻物を開き、七つの封印を解くこと」ができる唯一の方なのです。
あなたの上には光が輝いているのです
巻物には「この後、必ず起こる事」が記されているのは確かなことです。
それが「御座に着いておられる方の意志」であることも間違いないでしょう。
そして、それが実行されることもまた「確実」なことです。
この巻物は、黙示録五章から一八章に起こることの全体を含んでいるのです。そして一九章から二二章に起こる出来事は、この巻物の封印を解いた結果であると言えます。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
つまり、巻物の封印が解かれ実行されなければ、その後に続く「出来事」はなくなると言うことです。
再臨、千年王国、新天新地、主と永遠にともに住むという私たちの望みは失われるということです。
これから起こる「さばき」とそれに伴う「苦難」を目にしたとき、私たちの多くは「どうして神様」と叫ぶかもしれません。
しかし、どうか覚えてください。
それを通過しなければ「贖いの目的は完成しない」のだということを。
これから行われることは、私たちの「理解を超えたこと」でしょう。私たちがそれを「理解して納得すること」は不可能だと思います。
闇が地を覆っているように感じるかもしれません。
確かに「闇が地を覆う」のです。諸国の民は気がつかないかもしれませんが、暗黒に覆われるようになるのです。
イエス様が言われたように「誰も働くことのできない夜」が来ます。
しかし、光がすべて失われることはありません。
愛する兄弟姉妹。
終わりの日が来る前に「後の雨」が降ることを信じましょう。聖霊の偉大な傾注が必ず与えられます。
「終わりの日」が来る前に、爆発的なリバイバルが必ず起こります。
今、もうそれが起ころうとしています。
そして、それは、あなたから始まります。
今は「起き上がる時」です。
あなたの上にはすでに「光が輝いて」います。あなたの上には「主が輝いて」いるのです。
立ち上がりましょう。起き上がりましょう。輝きを放ちましょう。
封印は解かれました。あとは、それが「実行」されるだけなのです。
「もはや、時が延ばされることはない」のです。
私たちは「取り戻された権利」をしっかりと握って「不法占拠者」である敵に立ち向かいましょう。
子羊の血と宣言のことばこそ勝利の武器です。
さあ、起き上がって「血潮の勝利」を宣言しましょう。
私たちの「勝利の主」を褒めたたえましょう。そして、その後に続く者とされましょう。
祝福を祈ります。