黙示録4:11
主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。
四つの生き物の礼拝
さて、四つの生き物について、続けて学びましょう。
この四つの生き物が「何であるか」は、よく分かりません。確実なことは「人間ではない」ということでしょう。
「セラフィム」なのか「ケルビム」なのか、その両方の特質を備えた別の存在なのか…
想像するのは楽しいですが結論はでません。
ただ、前回も言いましたが、この生き物が「何であるか」ということより、この生き物が「何をしているのか」の方が大切なのです。
この生き物の「名前」が重要なのであれば、黙示録の中に記述されていたでしょう。
注目すべきは「彼らの言動」なのです。
生き物には「翼」がありました。彼らは、御座の周りを飛んでいたのだろうと思います。
イザヤが見た「セラフィム」は「二つの翼で顔をおおい」「二つで両足をおおい」「二つで飛んでいて」と記されています。
もしかすると、この生き物もそのような姿で御座の周りを飛んでいたのかもしれません。ただ使徒ヨハネは「翼の内側」に目が満ちているのを見ていますから、六つの翼で飛んでいたのかもしれません。
生き物は、主を賛美しています。
彼らは「黙っていること」がありません。昼も夜も「休みなく」言い続けています。
彼らは、主が「聖なる方」であることを言い表します。
天の御座に着いておられる方は「聖」なのです。
天においては、今も、絶えず、休みなく「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神」という声が響き渡っています。
私たちが「主の御名が聖なるものとされますように」と祈る時、四つの生き物に呼応しているのです。
「聖」とは「聖別」ということです。
「聖別」とは、特別なものとして「取り分ける」「区別する」ということです。
生き物たちは「主なる神は、すべてのものから区別された至高の存在である」と叫んでいるのです。
ですから、イエス様は「あなたがたはこう祈りなさい」と教えてくださったのです。
以前の新改訳では「あがめられますように」と訳されていました。
原語を直訳するならば「聖であれ、あなたの名」となります。
私たちは、祈りの定型句のように「主の御名をあがめます」と唱えてしまいますが、本当に「心を込めて」「意味を知って」祈る必要があります。
天の父の御名は「聖」とされなければなりません。「あがめる」とは、主の御名を「聖別すること」です。
私たちは「聖なる方」を思いましょう。
確かに、神は愛です。恵み深い神です。
しかし、イエス様は「御名が聖なるものとされますように」と祈りなさいと言われました。
祈る時には「すべてのものから区別された方」を思い見なければならないからです。
使徒ヨハネは、天の視点から地を見るようにと招かれました。開かれた門を通って、御座にまで引き上げられました。
そして、ヨハネは見たのです。
「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と叫ぶ四つの生き物を。
恐らく、その瞬間、ヨハネは「地上のすべて」を忘れてしまっただろうと思います。
愛する兄弟姉妹。
私たちには「地上のことを忘れる瞬間」が必要なのです。
地に「心惹かれるもの」があるでしょうか。
地に「引きずられるもの」を持っているでしょうか。
私たちは、地上に「楽しみ」や「喜び」を持っているかもしれません。
また「苦しみ」「痛み」「失望」に取り囲まれているかもしれません。
それがどのようなものであったとしても「地にあるものを思っては」ならないのです。特に「一切の重荷とまとわりつく罪」を引きずっていてはなりません。
使徒ヨハネには、多くの「苦しみ」があったでしょう。
自身が「囚人」であること、問題を抱えた聖徒たちへの思い、まだ救われていない魂への重荷…
しかし、御座の前でささげられる「礼拝の中」に身を置いたならば、そのような「重荷」は消え去るのです。
それは「問題を見なかったことにする」ことではありません。
「聖なる方」の臨在の中で、自分自身も「聖なる者」となることです。
イエス様は「この世のもの」ではありません。
そして、私たちもまた「この世のもの」ではないのです。私たちは「真理によって聖別される」のです。
私たちは「世のものではない」ことを認識しなければなりません。そうでなければ「まとわりつく重荷」に引きずられて歩くことになります。
御父は「礼拝者」を求めておられます。「御霊と真理」による礼拝者です。
今、私たちは「まことの礼拝者」であるように招かれています。
使徒ヨハネが「御霊に捕らえられた」ことを覚えてください。
「御霊」が天に引き上げてくださるのです。
そして、御霊が引き上げられた場所は「礼拝の場」なのです。絶えず「聖なる、聖なる、聖なる」と叫ばれている場所です。そこは「聖別された者」の場所です。
ヨハネは「絶えざる礼拝」を見ました。「絶えざる賛美」を聞きました。
天では「絶えず礼拝がささげられて」います。
そして、これは私たちへの「招き」です。
私たちは、この地に「御国が来ますように」と日々祈っています。
天の御国では「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」という賛美が休みなくささげられています。
主の世界は天において定められ、御座は揺るぐことがありません。御国の栄光と力は私たちに与えられています。その御座からは約束が輝き、開かれた扉が私たちを臨在の中へと招いています。主はラッパの声によって私たちを呼び、外へ逃げるのではなく、臨在に入ることによって洞察を得るように招待されているのです。霊とまことをもって神を礼拝するとき、私たちはいつでもこの御座へと引き寄せられます。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
御霊によって礼拝するとき、天での礼拝の中に入れられるのだと私は信じます。
この地にあって「礼拝」をささげるなら、主の臨在のうちに入れられます。私たちは、この地にあって「御国の心地」を味わうことができるのです。
「臨在」の中でこそ、私たちは「聖別された者」であることを「より深く」認識できるでしょう。それは「感情」ではなく「確信」となります。
「聖なる、聖なる、聖なる」と四つの生き物が叫ぶ声に、私たちも呼応しましょう。
願わくば、この地においても「昼も夜も休みなく」礼拝をささげることができますように。
二十四人の長老の礼拝
四つの生き物は「休みなく」礼拝をささげていました。
四つの生き物の礼拝について、まだまだ学びたいことはありますが、今回は諦めます(笑)
生き物は「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」に栄光、誉れ、感謝をささげています。この方は「御座に着いて世々限りなく生きておられる方」です。
生き物が礼拝をささげているとき、二十四人の長老たちも、もちろん礼拝をささげています。
長老たちは「ひれ伏して」います。
私は「ひれ伏す」ことこそ「礼拝」であると心から思います。「ひれ伏す」ことのない礼拝は本物ではありません。
ここに真の礼拝があり、順序が大切です。10節にある最初のことは、彼らがひれ伏すことです。「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して…。」これが第一であり、いつでも第一なのです。ひれ伏すとは、礼拝している方に対する服従を語っています。
祝されたデボーションのために ジョセフ・S・キャロル著 いのちのことば社
「ひれ伏す」ことは「服従の表明」です。
長老たちは、自分のすべてが「主のものである」ことを表明しているのです。
そして、それこそが「礼拝」なのです。
二十四人の長老たちは「世々限りなく生きておられる方」を礼拝しました。
そして、自分たちの冠を御座の前に投げ出したのです。
長老たちの冠は、恐らく「走るべき道のりを走り終えた後に授けられたもの」だと思います。彼らは、地上での日々を忍耐を持って走り抜きました。
「冠」とは、彼らの人生の証です。信じていのちを保った証です。彼らの忍耐の証とも言えます。
彼らは、その「冠」を「御座の前に投げ出した」のです。
天の御国において、最も価値のあることとは何でしょう。
それは「礼拝」です。
A・W・トウザー博士は「贖いの最終的な目標は礼拝だ」と言っています。
神は御子を送ってくださいました。御子は十字架につき、よみがえらされ、父なる神の右に座を占めました。それはひとえに失われた宝石を、私たちが取り戻すことができるようにしてくださるためです。礼拝という宝石です。私たちが、神に立ち返り、神が私たちを造られた初めの目的を、もう一度取り戻すことです。それは、神聖なる神を礼拝すること、神への恐れと賛美をもって、日々を過ごすこと、それを感じて表現すること、私たちの働きを礼拝中心のものとすることです。
霊とまことをもって A・W・トウザー著 いのちのことば社
「礼拝」とは、人が失った「宝石」だとトウザー博士は言います。
イエス様はその「宝石」を取り戻すために十字架に架かってくださったのです。
二十四人の長老は「贖われた人々の代表」として、ふさわしいことをしているのです。
二十四人の長老は「主のみこころ」を理解しています。万物がどうして存在するのかを理解しています。
万物は「主のみこころのゆえに存在する」のです。
つまり、あなたが存在するのは「主のみこころのゆえ」ということです。
なぜ生まれて来たのか、何のために生まれて来たのか、なぜ私は生きていなければならないのか…
それらの答えがここにあります。
私たちは「主のみこころのゆえに、存在し創造された」のです。
神は「世界の基が据えられる前から」「みこころの良しとするところにしたがって」私たちを創造し、存在させ、贖い、子としてくださいました。
それはすべて「恵みの栄光がほめたたえられるため」です。
私たちが救われたのは、父なる神に栄光を帰すためです。
私たちは、自分が「みこころのゆえに存在する」ことを認める必要があります。
世の人々は「自分の好きなように生きること」が良い人生だと思っています。
「自分を楽しませ」「自分を向上させ」ることこそ素晴らしい人生だと考えます。
しかし、聖徒である私たちは知っています。私たちはみな「自分のために」生きてはいません。
「主のために生きる」ことこそ幸いです。
「主のみこころのゆえに存在する」のだと認めて生きることこそ幸いなのです。
覚えてください。
人には二つの生き方しかありません。
一つは、神を創造主として認め、神の似姿として造られたことを感謝し、神を礼拝して生きることです。
もう一つは、神を神としてあがめず感謝もせず、心を空しくして生きることです。
選択肢はこの二つしかないのです。
私たちは「御前にひれ伏す」ことを選びましょう。
創造主なる神を覚えてほめたたえましょう。
みこころのゆえに「私は存在するのだ」ということを覚えて感謝しましょう。
それが「正しい立ち位置」なのです。長老たちの礼拝は、私たちの模範です。
御前にひれ伏し、御座の前にすべてを投げ出しましょう。
真の礼拝とは「価値を帰する」ことです。
二十四人の長老たちが「あなたは栄光と誉れと力を受けるのにふさわしい方」と言っていることを覚えてください。
主こそ「ふさわしい方」です。主こそ「すべてを受けるのにふさわしい方」です。
私たちは「ふさわしい方」の御前に「ひれ伏す」のです。
それが「始まり」なのです。そして、それが「すべて」なのです。
天での絶え間ない礼拝
私たちが「どのような状態の時」でも、天での礼拝が終わることはありません。
私が落ち込んでいても、失望していても、立ち上がる気力を失っていても「四つの生き物」が黙り込むことはありません。
天では絶えず賛美が響き渡っています。
「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」
二十四人の長老は、御前にひれ伏し、冠を投げ出し言っています。
「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。あなたのみこころのゆえに それらは存在し、また創造されたのです。」
覚えてください。
礼拝は「服従」であるということを。
「人間」というものは、なかなか「図太く」「反抗的」なものです。
私たちは「その気」になるまで「礼拝」することを引き延ばしてはなりません。
私たちが「礼拝」によって「臨在の中」に入ることをサタンは最も嫌うのです。ですから、必死で「その気」を邪魔してくるでしょう。
「その気」が起こるのを待っていたならば、おそらく「いつまでも」礼拝することはできないでしょう。
「礼拝」することは「決断」です。
すべての「思い」を服従させ「ひざまずく」ことを決心しなさい。
「上」を見上げるのです。
イザヤが見たセラフィムは互いに呼び交わしていたと記されています。
「呼び交わす」とは「呼応する」ということです。
イザヤの見たセラフィムと、ヨハネの見た四つの生き物が同じであるかは分かりません。しかし、それはどちらでも構わないのです。
それが、どうであっても私たちも「呼応」しましょう。
「聖なる、聖なる、聖なる、わが主」
私たちも三位一体の聖なる方をあがめましょう。
「その栄光は全地に満ちる」のです。
「天で満ちる」のではなく「全地に満ちる」のです。
私たちが「天での礼拝に呼応する」ならば、必ず、主の栄光は全地に満ちます。
主の招きに応じましょう。
神に近づくなら、神も私たちに近づいてくださいます。御座の周りには、来たい人は誰でも入れるほどの場所が開けられています。そして、神の御座に近づいたなら、天使たちは私たちの周りにいるのです。これは、あなたへの個人的な招きです。ヨハネを呼ばれたように、主はあなたを呼ばれ「ここに上って来なさい」と言われます。
地震 終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
あなたは「招き」に応じますか。
天での礼拝に「呼応」しますか。
「礼拝」は、今後の幻を開く鍵です。「礼拝」のうちに、主は「啓示」を与えて下さるのです。
「礼拝」のうちに、主は臨在を現わされます。
「天上にあるすべての霊的祝福」は、すでに注がれています。私たちは「礼拝」のうちにそれを理解し受け取ることができるのです。
主は、今、招いておられるのです。
「御霊に捕らえられ」ることを求めましょう。「御霊」によって、主の臨在の中に連れられて行きましょう。
主は「礼拝者」を求めておられます。
御前にひれ伏し、冠を投げ出す者を求めておられます。
一緒に告白しましょう。
主よ、私はあなたを礼拝することを決断します。日々、あなたを礼拝しながら生きます。
祝福を祈ります。