【黙示録4章4節~6節】 御座の周りの光景に思いを馳せます

再臨を待つ

黙示録4:4
また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠を被った二十四人の長老たちが座っていた。

御座の周りには二十四の座があります

前回は、黙示録4章1節~3節までを学びました。

黙示録4:1
その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こることを、あなたに示そう。」

今、使徒ヨハネは「天」にいます。

それは「この後、必ず起こること」を見るためです。

主は「この後、必ず起こること」を示される前に、ヨハネに「御座」をお見せになりました。

私たちは、決して忘れてはなりません。

「天に一つの御座がある」ということを。

その御座は堅く据えられていて、決して揺れ動くことがないということを。

そして、その御座に着いておられる方が「すべてを治めておられる」のだということを。

ローマ11:36
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

このことを心に刻みつけましょう。

私たちは、黙示録の啓示が「御座」から始まるのだということを覚えておかねばなりません。

しっかりと心に留めて、続けて学んでいきましょう。

さて、今回は「御座の周りの光景」について学びます。

黙示録4:4
また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠を被った二十四人の長老たちが座っていた。

これは、どういう位置関係なのかなと思います。

「御座の周り」ということは、御座を中心としてグルっと円形状に「二十四の座」が置かれていたということでしょうか。

この「二十四人の人」は何者なのかと言うことについては様々な意見があります。

  • イスラエルの12部族の族長と主イエスの12使徒たち
  • 旧約・新約時代の信仰者の代表
  • 教会を代表する人々
  • 教会の御使いたち
  • 地上の患難を通って来た人々

その他にも多くの解釈があるようです。

この24人がどのような人々であるのかは分かりません。

この聖句からはっきりと分かることは、彼らは「長老たちである」と言うことです。

この「二十四人の長老たち」には「座」がありました。

彼らは「御座の前」に座っているのです。

エペソ2:6
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

私たちは、キリストにあって「背きの罪の中から生かされ」ました。私たちは「恵みのゆえに」救われました。

私たちの「いのち」は、キリストとともに「神のうちに隠されて」います。

私たちは「ともに天上に座らせ」られているのです。

このように考えると「二十四人の長老たち」は、私たち「贖われた者の代表」と言えるかもしれません。

彼らは「白い衣」を身に着けています。

ヨハネは、この後「白い衣を身にまとう大群衆」を見ます。それは7章で詳しく見ます。

その大群衆が身にまとっている「白い衣」は、子羊の血で白くしたものだと言われています。

黙示録7:14b
「この人たちは大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」

長老たちの「白い衣」も、恐らく「キリストを信じる者に与えられる義の衣」であろうと思います。

そして、さらに長老たちは「頭に金の冠」をかぶっていると記されています。

この冠は、主イエスがかぶられる「王冠」ではありません。

黙示録19:12
その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。

再臨の主イエスの頭には「多くの王冠」があります。

原語は「ディアデーマ(διάδημα)」で「主権者の冠」を意味します。つまり「王冠」ですね。原語では複数形になっていますから「多くの王冠」となります。

一方、二十四人の長老の冠は「ステファノス(στέφανος)」で「勝利者の冠(リース)」を意味します。競技者に贈られる「花冠(リース)」のようなものです。

地上の花冠(リース)は、必ず枯れます。しかし、金で編まれたリースは決して朽ちることはありません。

Ⅱテモテ4:7~8
私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現われを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

パウロは「走るべき道のり」を走りぬいたと言っています。

パウロの信仰のレースは、終りに近づいていました。

あとは「義の栄冠」を待ち望むだけなのです。

このパウロが待ち望んでいる「義の栄冠」は、原語では「義のステファノス」です。

それは、信仰の戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えた人に授けられます。

「主の現われを慕い求めている人」にならば「だれにでも」授けられるのです。

ヤコブは「いのちの冠」について語っています。

ヤコブ1:12
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。

「いのちの冠」も同じように「リース」のことを表しています。

私たちに授けられる冠が二種類あるのか、それとも「義の冠」と「いのちの冠」は同じものを現わしているのか、はたまた、もっと何種類もの冠が用意されているのか、それは分かりません。

しかし、この二つの冠(義といのち)の記述から推測するならば、冠を受ける条件は「耐え忍ぶこと」にあるのだと思えます。

私たちは、今、信仰のレースに参加しています。様々な妨害を経験します。楽しみや喜びも伴いますが、苦しみも味わいます。

しかし、決して途中で降りてはなりません。途中で走るのをやめてはならないのです。

冠を受けるまで走り続けましょう。耐え抜いた人には「冠」が与えられます。それは「約束」です。

主は、走り終えた先に「冠」を用意して待っておられます。

私は、この二十四人の長老も「走りぬいた人々」なのだろうと思っています。彼らの頭にある「金の冠」は、試練で試された信仰の輝きなのかもしれません。

この「二十四人の長老」は「証人」なのではないかと私は思います。

これから起こる「さばき」の証人であり、御子イエスの婚姻の証人でもあるのではないかと考えます。

ルツ4:9
ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべてを買い取ったことの証人です。

ボアズは「長老たちを証人として」エリメレクのものを買い取りました。

長老たちは「ボアズとルツの婚姻の証人」です。

「二十四人の長老たち」も、これから起こる裁きのあとに行われる「子羊の婚宴」の証人なのかもしれないなと思います。

彼らは「この後、必ず起こること」のすべてを見ます。そして、その先の祝福をも見届けるのでしょう。

もちろん、それは本当かどうかわかりません。

ただ確かなことは、天には「多くの証人」がいると言うことです。

ヘブル12:1
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。

私たちは「あきらめずに」走り続けましょう。「走るべき道のり」を走り終えたならば、必ず、主イエスが迎えてくださいます。そして、あなたの頭の上には「義の冠」が光輝くのです。

御座からは稲妻と雷鳴がとどろきます

私たちにとって「神の御座」は、主イエスにあって「恵みの御座」です。

私たちは「大祭司キリスト」によって「大胆に恵みの御座に近づく」ことが許されています。

しかし「神の御座」はまた「裁きの御座」でもあります。

「神の御座」からは「稲妻と雷鳴」がとどろいているのです。

黙示録4:5
御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。

これは、シナイ山での出来事を思わせます。

主は、エジプトを出たイスラエルに会うために「シナイ山」に降りて来て下さいました。

出エジプト20:18
民は皆、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは、死んでしまいます。」

主が降りて来られた時、イスラエルはあまりの恐ろしさに震えあがりました。遠く離れて立ち、近づくことができませんでした。

モーセは民に言います。

出エジプト20:20
それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」

「神が来られた」のは、民が「神を恐れるため」です。そして、それは「民が罪に陥らないよう」にするためです。

私たちの神は「愛の神」です。恐怖で人を押さえつけるようなことはされません。私たちが近づくのは「恵みの御座」です。私たちは「大胆に恵みの御座に近づく」ことができます。

しかし、決して「神への恐れ」を忘れてはなりません。

ヘブル12:28
このように揺れ動かない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

私たちは「感謝しつつ、敬虔と恐れをもって」礼拝をささげましょう。

私たちは「神は愛です」というメッセージに慣れてしまって「神はさばき主」であるということを見落としがちです。

使徒の働きを読むと、不思議なことに気がつきます。パウロは書簡では「神の恵み」「神の愛」を強調しているように思いますが、宣教の時には「神のさばき」を強調しているように感じます。

使徒17:31
なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。

パウロは、アテネで宣教した際、主イエスを「さばき主」として紹介しています。

神が「日を定めて」世界をさばこうとしていると教えたのです。

そして、主イエスの復活こそ「その確証だ」と言ったのです。

使徒17:32
死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。

アテネの人たちは、パウロを「あざ笑い」ました。

「また、いつか聞くよ」と相手にしない人もいました。

そうです。これが「普通の人」の反応でしょう。

私たちの多くは、このような反応を予測しているので、あえて「さばき」や「復活」などから話さないようにしているのではないでしょうか。

耳障りの良いことばから語って、ゆっくりと心を開いて「寄り添って」伝道しようと試みます。

しかし、私は大いに反省しています。

黙示録を学ぶならば、私たちは「さばき」が迫っていることを確信せざるを得ません。

「神の怒り」が注がれる日は近いでしょう。

誰かに「寄り添う」ことは大切なことです。

しかし「神のみこころ」に「寄り添う」ことは、それ以上に大切です。

主は「怒って」おられます。そして「心を痛めて」おられます。人々が「罪に捕らわれたまま」でいることを望んではおられないのです。

愛する兄弟姉妹。

私たちは「福音」を宣べ伝えましょう。

主イエスの十字架と復活を宣べ伝えましょう。

御父が「ひとり子を惜しむことなく死に渡された」ことを宣べ伝えましょう。

「あなたは愛されています」と叫びましょう。

しかし、同時に「この世界は必ず裁かれる」ということを伝えなければなりません。

「信じたら救われる」と伝えるだけでなく「信じなければ滅びる」ことも伝えなければなりません。

ヨハネ3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

これが「真理」なのです。

そして、主は「すべての人が救われて、真理を知るようになること」を望んでおられます。

今は、私たちには「ヨナの油注ぎ」が必要だと切に感じます。

主はヨナに告げられました。

ヨナ3:2
「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」

ヨナは、最初は逃げましたが、主の言われたとおり「宣言」をしました。

そうすると、邪悪で有名な都ニネベは悔い改めたのです。

ヨナは奇跡を行ったわけではありません。癒やしも行いませんでした。

ただ「宣言」しただけなのです。

私は「奇跡」も「癒し」も信じます。主の大いなる御業が行われることを期待しています。

けれど、それにもまして「ヨナの油注ぎ」を求めたいのです。

主はヨナに「宣言せよ」と言われたのです。

ですから私たちも、主のことばを「宣言」しましょう。

「ヨナの油注ぎ」を求めましょう。

その「宣言」によって、主の御力が解き放たれることを切に切に求めましょう。

「ヨナ」について語りたいことが溢れていますが、かなり脱線したので黙示録に戻ります。

四つの生き物について

さて、御座の前の光景をもう少し見てみましょう。

黙示録4:5~6
御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。
そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

御座の前では「七つのともしび」が燃えていました。これは「神の七つの御霊である」と言われていますから「聖霊様」のことであると考えてよいと思います。

御座の前は「キラキラと輝いていた」ようです。

それは「水晶」のように輝く「ガラスの海のように見える」光景でした。

つまり、どこまでも広く輝いていたということでしょうか。

ヘブル8:5
この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設計しようとしたときに、お告げを受けたとおりのものです。神は「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。

幕屋は「天にあるものの写しと影」です。

主は、幕屋によって「天にあるもの」を私たちに啓示してくださいました。

モーセは「神の設計図」のとおりに幕屋を建設しました。ですから、私たちは「幕屋」を学ぶことによって「天にあるもの」を知ることができるのです。

そして、今、私たちは黙示録によって「写しと影」の「実体」をほんの少し垣間見ているようです。

しかし、残念ながら時間がありません。「幕屋」との関係については、そのうち「幕屋の学び」をする予定ですので、その時にこの箇所にも触れたいと思います。また「神の七つの御霊」については、黙示録五章で学びます。

今回は「四つの生き物」に注目してみましょう、

黙示録4:6b
そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

これは、何とも不可思議な生き物です。

使徒ヨハネは、この「生き物」の「姿形」について述べています。

黙示録4:7
第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。

はてさて、さっぱり分かりませんね。

ヨハネも「生き物」としか表現ができなかったのでしょう。

「人」なのか「御使い」なのか…

ただそれは確実に「生きているもの」であったと言うことです。四つの生き物は、自由に動いており、言葉を発していました。そこには「いのち」がありました。

黙示録4:8
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。
「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

ある人は、この生き物を「ケルビムだ」と言います。

また別の人は、この生き物は「セラフィムだ」と言います。

しかし、それはどちらとも断定はできません。「ケルビム」のようにも「セラフィム」のようにも思えます。

強いて言えば「セラフィム」に近いのかなと思います。

エゼキエルは「ケルビム」を見ました。(エゼキエル1章と10章を参考に)

イザヤは「セラフィム」を見ています。(イザヤ6章を参考に)

比べてみると面白いでしょう。興味があれば比較してみてください。

「四つの生き物」の「それぞれの姿」が何を表しているのかについても、諸説あります。

ある人は「御使いの代表だ」と言います。彼らは永遠に賛美しているからです。

「この世の政府」を表していると言う人もいます。ダニエル書に出て来る「獣」は「世界帝国を表わしていた」というのが根拠です。

また、ある人は「生き物の代表だ」と言います。獅子は「動物の代表」、雄牛は「家畜の代表」、鷲は「鳥の代表」、そして「人の顔」はもちろん「人類」を表しています。すべての「被造物」が主なる神を讃美していることを表していると言う解釈です。これは、心躍る解釈ですね。

「天地創造をあらわしている」という人もいます。主が「生き物」を造られたことが示されているという解釈です。「創造主なる神」「すべての主」が啓示されているということになります。

最も多い意見は「これは四福音書に現わされたイエス様の姿だ」と言うものです。

マタイの福音書の主題は「王であるイエス・キリスト」です。「ユダの獅子」である「支配者」としてのイエス様が描かれているのです。「獅子」とは、王であるイエス様の一面を表しています。

マルコの福音書の主題は「しもべであるイエス・キリスト」です。マルコの福音書には「系図」は記されていません。「しもべ」に系図は必要ないからです。「雄牛」は、しもべとして仕えてくださったイエス様の一面を表します。

ルカの福音書の主題は「人としてのイエス・キリスト」です。ですから「系図」は「アダム」までさかのぼります。イエス様は、完全な「神」であり、完全に「人」として生きられました。

ヨハネの福音書は「神であるイエス・キリスト」です。「はじめ」からおられたイエス様を描いています。そして「鷲」は「神性」を象徴すると言われます。

個人的には、福音書に対応しているかはさておき、主イエスのご性質のあらわれではないかなと思っています。天は、いたるところに「イエス様をあらわすもの」があるのではないかと私は思っているからです。

しかし、どの意見も断定はできませんね。

四つの生き物については、ししは獣の代表、雄牛は家畜の代表、人間は被造物の代表、わしは鳥類の代表、とされています。それぞれが神を讃美している様子は、被造物全体が神を讃美していることを表しています。またある人はこれを御使いの代表ではと考えます。またある人は四福音書を表している、という人もいます。黙示録は深いのです。ですから、他の主張を軽視しないで、聖書を文字通り信じて、真理を追究している人たちの考えを重んじて真理を求めましょう。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション

天で光景を「あれかこれか」と思い巡らせることも、黙示録の醍醐味であると私は思います。御国に行くまで大いに思い巡らせましょう。それは、地上にいる間だけの「楽しみ」なのですから。

さて「四つの生き物」が「何者か」を知ることより、もっと大切なことがあります。

それは、彼らが「何をしているのか」と言うことです。

黙示録4:8
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。
「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

彼らは「昼も夜も休みなく」礼拝をささげているのです。

「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」という声は、今も「天において鳴り響いて」います。

見えない領域において「主の栄光は全地に満つ」のです。

次回は、この続きを学びましょう。天での礼拝について学びます。「四つの生き物の礼拝」と「二十四人の長老たちの礼拝」についてです。

祝福を祈ります。