【黙示録4章1節~3節】「ここに上れ」とは、視点を変えよという招きです

再臨を待つ

黙示録4:2
たちまち御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座についておられる方がおられた。

ここに上れ、とは視点を変えよということです

黙示録4章の学びに入ります。

黙示録4:1
その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こることを、あなたに示そう。」

「その後」というのは、使徒ヨハネに七つの教会への個別の手紙が示された「後」ということです。

「その後」の時間的な流れはわかりません。そのまま連続して与えられた幻であったのか、何日か間を置いて再び示された幻であったのか、定かではありません。

ただ「その後」、使徒ヨハネは「開かれた門」が「天」にあるのを見たのです。

ヨハネは「あの最初の声」を再び聞きました。

ラッパのように響き渡る声は、イエス様が発せられたと考えて間違いないでしょう。

主イエスは、最初に「あなたが見たことを巻物に記して七つの教会に送りなさい」と命じられました。

そして、その後、今度は「ここに上れ。この後、必ず起こることを、あなたに示そう」と言われたのです。

「開かれた門」を使徒ヨハネは地上から見上げています。

イエス様は「ここに上れ」と言われます。

 「これから後、起こること」を、主は「天から見るように」と言われるのです。

使徒ヨハネは「地上の七つの教会」を見つめていました。称賛も非難も書き留めて来ました。

地上には「問題」が山積みだと感じたでしょう。叱責を受けた教会に直接行って導き助けたいと思ったでしょう。称賛された教会に行って、ともに喜び励まし合いたいと願ったでしょう。

しかし、ヨハネは動くことはできません。彼は囚人なのです。

そのようなヨハネに、イエス様は「この後、必ず起こること」を示したいと願われました。

しかし「地上を見ているヨハネ」には啓示できないのです。「地上から」では、主の本当の思いが分からないからです。

使徒ヨハネは「開かれた門」に上って行かねばなりません。それは、彼の「視点を変えるため」です。

これは、使徒ヨハネだけの特別な経験ではないと私は思います。

私たちも、今、使徒ヨハネに示された「この後、必ず起こること」を学ぼうとしています。

もし私たちがそれを「地上に立ったまま」学ぶのであれば、恐らく混乱するだけでしょう。

「この後、必ず起こること」を学ぶためには「視点」を変える必要があります。

これは、黙示録の学びに限ったことではないのかもしれません。

私たちは「地上から天を見上げる」のではなく「天から地上を見下ろす」という視点を学ばねばなりません。

「視点」が変われば、新しい洞察が与えられます。私たちは「自分から見た天」ではなく「神の目から見た地上」を知る必要があるのです。

開かれた門を見たからと言って、使徒ヨハネが囚人でなくなったわけではありません。彼は依然として流刑地パトモスにいる囚人です。

しかし、天の御座を見て、その礼拝の中に身を置いた後、彼の視点は完全に変えられたでしょう。

これから「地上に起こること」を彼は「天から」見ました。

そこには「大惨事」「未曽有の事柄」「恐ろしい災害」「苦しむ人々」が見えます。

地上にいながら「その光景」を見るならば、そこには「恐怖」と「絶望」しかありません。

しかし、天から「その光景」を見るならば…

そこには「神の義」「神の聖」「神の全能」が見えます。そして、地上からでは決して見ることのできない「希望」が見えます。

あなたの問題は何でしょう。

何に迷い、何に苦しみ、何を恐れているのでしょう。

愛する兄弟姉妹。

私たちは、天に引き上げられることを求めましょう。身体は、そのまま地に置かれたままであっても、天からの視点が与えられるように求めましょう。

主が、どのように見ておられるのかを知りたいと願いましょう。

地上的な視点では、乗り越えられないこと、理解できないことが確かにあります。

イエス様の招きに、私たちも応じましょう。

聖霊によってヨハネは天に上り、地上の苦難を超えた永遠の勝利と栄光を目撃し、新しい視点、天からの視点を与えられた。黙示録は、私たちに地上離れ、天から地を見渡すように、天の視点を持つようにと私たちを招いている。
黙示録の希望 岡山英雄著 いのちのことば社

「ここに上れ」とは、あなたの「視点」を変えよと言う主の招きです。

天の御座は「据えられて」います

黙示録4章2節を読みます。

黙示録4:2
たちまち私は御霊に捕らえられた。すると、見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。

イエス様は「ここに上れ」と言われましたが、いくら使徒ヨハネでも「自分の力で」天に上ることはできません。

そこには「聖霊の力」が必ず必要です。

「御霊に捕らえられて」とは「御霊の中に」とも訳せます。

使徒ヨハネは「御霊の中に入れられた」「御霊に包まれた」ような感じになったのだと思います。

そして、瞬間的に「開かれた門」の中に入れられたのでしょう。彼は「たちまち」天に上げられたのです。

「すると、見よ」とヨハネは言います。

彼は驚くべき光景を見たのです。それは「天の御座」と「その御座に着いておられる方」でした。

ヨハネは、まず「天の御座」を見たのです。主が、まず「御座」を見ることを許してくださったのです。

「この後、起こること」を詳細に見る前に、ヨハネは「天の御座」を見ました。

「御座があり」と訳されている語は、「御座が据えられて」と訳すことができます。原語では「据えられる」という言葉が使われています。

「据える」とは「しっかりと置く」という意味です。

ここでは「御座」が「不動のもの」であると啓示されているのです。

天には「不動」「不変」の御座があります。

私たちの神は「決して変わることのない方」「とこしえの岩」なのです。

これから「地上」は揺れ動きます。しかし、私たちの神は「ピクリ」とも動かれません。

ヨハネは、まず「不動」である方をしっかりと見る必要がありました。

私たちは、自分の拠り所が「どこにあるのか」を把握していなければなりません。

私たちの神の御座は「堅く据えられていて動かされることはない」のです。

詩篇46:1~3
神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。それゆえ われらは恐れない。たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても その水かさが増し 山々が動いても

主は「強き助け」です。私たちの変わることのない「避け所」です。

その御座は「不変」「不動」です。

ですから、私たちは、何もかもが移り変わっても「私は恐れない」と宣言できるのです。

主の御座が「不動」「不変」であることは、私たちを勇気づけます。主は「移り気」な方ではありません。常に「誠実」であり「真実」です。その約束は変わることがありません。

イザヤ54:10
たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。
ーあなたをあわれむ方、主は言われる。

終わりが近づくにつれ、この世界は「変わって」いきます。

使徒ヨハネは、今から、文字どおり「山が移り、丘が動く」のを見ます。地上に未曽有の災害が起こるのを見ます。

しかし、主はその前に「ご自身の不動の御座」をヨハネにお見せになりました。

愛する兄弟姉妹。

私たちの人生にも「山が移り、丘が動く」ような大変化が起こることがあります。

「主よ、なぜですか」「主よ、どうしてですか」とうめく日々を通過することがあるでしょう。

しかし、どうか覚えてください。

それでも「天には不動の御座」があります。

主は、あなたに言われます。

「たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」

天の門は、今も開かれていると私は信じています。

主イエスご自身が「門」です。十字架の御業により、御座への門は開かれました。

私たちは、開かれた門を見上げましょう。主が、私を引き上げてくださいますように。

私たちは「天の御座」を思い見ましょう。それは「不動」「不変」です。

主の愛は「決して変わらない愛」です。御父に「移り変わり」はありません。

「天の御座」を思い見ましょう。そうすれば、私たちの「視点」は変わります。

「決して変わることのない真実な愛」を信じましょう。「天の御座」が不動であることを決して忘れてはなりません。

主こそ、すべての光の源です

黙示録4章3節を読みましょう。

黙示録4:3
その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

ヨハネは「天に御座があり、その御座に着いておられる方がおられた」と言っています。

その方は、ただ宝石のようにきらめいて見えたのです。

まず、その方は「碧玉や赤めのう」のように見えました。

さて、私は宝石のことなどまるで分かりません(笑)

必死で調べましたが「碧玉」が何を意味しているのかは確定できませんでした。

ある人は「ダイヤモンドのような青白い輝きの石だ」と言います。

ある人は「ブルーサファイアのようなものだ」と言います。

エゼキエル書を読むと「サファイアのように見える王座に似たものがあり」と記されていますから、ヨハネの言う「碧玉」も「サファイア」であるとしても、大きく間違ってはいないと思います。

まあ、しかし、今回はそれが「ダイヤモンド」なのか「サファイア」なのか「別の宝石」なのか特定はできませんでしたが、共通しているのは「青色っぽい」ということです。つまり「碧玉」とは「青色に輝く宝石である」と言えます。

主は「青のように」輝いておられるのです。

「赤めのう」は、文字通り「赤い石」です。血のように赤いなどと表現する先生もおられます。主イエスの御血と重ね合わせる解釈もあります。

主は「赤く輝いて」もおられます。

使徒ヨハネは、鮮やかな「赤」と「青」を見たのでしょう。しかし、そのお姿に関する言及はありません。これは、想像の域を出ませんが、恐らく「見ることができなかった」のだろうと思います。

主ご自身は「碧玉(青)」と「赤めのう(赤」のように見えました。

そして、その御座の周りには「エメラルドのように見える虹」がありました。

「エメラルド」とは「緑色に輝く石」です。

御座の前の虹は「七色」ではなく「きらめく緑色」でした。

つまり、主の御座と周辺の光の色は「赤・青・緑」と言うことになりますね。

無数にある光の色のうち、特に、赤(Red)緑(Green)青(Blue)の3色を、目に見える光の中での、最も基本の色として「光の三原色」と呼んでいます。これは、このわずか3つの色の組み合わせで、この世に存在するほとんど全ての色を作り出すことができるためです。
キャノン公式HP キャノンサイエンスラボ・キッズより

この「三つの光の色」が御座の周辺にあふれていることは、主が「すべての光の源」であることを現わしているのかもしれません。

「赤・青・緑」の光の組み合わせで「この世に存在するほとんどすべての色を作り出せる」とは、本当に驚きですね。

「三つの光の組み合わせ」は、様々な色の光を生み出します。そして、その「三つの色の光」がすべて重なると、その重なった部分は「白く輝き」ます。なんだか不思議ですが、そうなのです。

碧玉は青、赤めのうは赤、緑玉は緑です。神は光の中に住んでおられます。光の三原則(青、赤、緑)それらの色が一つに集まるところは「白」です。色の場合、一つになる部分は黒色になりますが、光の場合は白になるのです。すなわち神の本性は「白光」で見えないということになります。御座の中央は白光で輝いているのです。そして、そこに神がおられます。
牧師の書斎 黙示録 銘形秀則師(空知太栄光キリスト教会HPより)

私たちの神は、すべての光の源であり、光の中に住んでおられます。

Ⅰテモテ6:16
死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできないお方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。

御座の中央は「白く輝いていて」見ることはできなかっただろうと私は思います。

私たちの神は「不滅で目に見えない唯一の神」です。

私たちは、この方のうちに「光」を見ます。

ヨハネ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

主こそ「光の源」です。

どんな「光」をも創ることがお出来になります。

この地には「何もなかったとき」そこには「闇」がありました。

主は、何もない暗闇に「ただ一言」で「光」を生み出されました。

それは、不思議でも何でもなかったのです。

「光の源」である方にとって、光を生み出すことは「ごく自然なこと」なのです。

Ⅰヨハネ1:5
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

イエス様は、ヨハネたちに「神は光だ」と教えられました。

私たちに伝えられた「神」は「光であって闇が全くない方」です。

御父の光の中に留まりましょう。「神との交わり」の中を歩むなら、私たちは「闇の中」を歩むことはありません。

「闇」を切り裂き「希望」を抱く秘訣は、常に「神と交わる」ことです。

主は、あなたが近づくなら、その交わりの中に喜んで迎えてくださいます。その交わりの中に入るならば、必ず「光があふれる」ようになります。

光の主のもとに行きましょう。

主の光の中を歩みましょう。

そうすれば、必ず、光が暗闇を切り裂くことを体験することができます。

あなたの「暗闇」は「濃い」ものですか。

身動きができないほど、その「闇」は押し迫ってきているでしょうか。

「光なんて絶対に生み出せない、もう希望はない、闇がすべてを覆ってしまった」そのように感じているでしょうか。

確かに、闇は地を覆うでしょう。暗黒が私たちを襲うかもしれません。

イザヤ60:1
見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。

光は来ます。主の栄光は輝きます。

光は、あなたの上に輝きます。

視点を変えるのです。

暗黒の地を見るならば、そこに希望を見出すことは難しいでしょう。

しかし、主の御座を思い見るならば…

主は、光の源です。私たちの神は、様々な光を「すべて創りだすことができる方」です。

詩篇50:2
麗しさの極み シオンから 主は光を放たれる。

光の源である方が、あなたの闇に「光を放たれ」ます。

闇は、決して光に打ち勝つことはできません。

地に「希望」がなくても、地が「闇」に覆われても「天の御座」には「光のもと」が溢れています。

使徒ヨハネは、地が闇に覆われたかのように見える「終わりの日」をこれから見ます。

しかし、彼は「光の御座」から「この後、起こること」を見るのです。

私たちが、黙示録を学ぶ理由の一つは、そこにあります。

私たちは、自分が生きている「地」を「光の御座」から見ることを学ぶのです。黙示録を通して、主は「ご自身の光」を明らかにしてくださいます。

天の御座を仰ぎ見ましょう。そして、願わくば「天の視点」ですべてを見ることができますように。

「闇」の中を歩いているように感じたとしても「光を創造する方」を見失わないようにしましょう。

神は「不動」「不変」です。その「真実の愛」は変わりません。あなたの上には「光」が輝きます。

「ここに上れ」という招きに、私たちも応じましょう。

主よ、引き上げてください。

あなたの「見せたい」と望まれることを、私は見たいのです。

あなたの御座からの視点を、どうか私たちにお与えください。

祝福を祈ります。