黙示録4:1
その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こることを、あなたに示そう。
携挙は、この後、必ず起こることです
使徒ヨハネは「この後、必ず起こること」を示されるために「天」に引き上げられます。
私たちは、使徒ヨハネとともに「天の御座」を見ます。ここから広がる「天の御座」の光景には心が躍ります。
しかし、今回は「天の御座」についてではなく「携挙」について学びたいと思います。
少し、黙示録の本論からはそれてしまいますが、ここで携挙について触れておいたほうがよいだろうと思います。
「携挙」についての意見は様々あります。
しかし、まず覚えておかねばならないことがあります。
「携挙がある」と信じている聖徒たちは、みな「同じグループ」であるということです。
世界のキリスト教会の中には、「千年王国などない」もしくは「今が千年王国だ」という説を信じている人々もいます。「大患難時代はない」「再臨はない」という人々もいます。
けれど「携挙」を信じている人々は、みな「イエス様の再臨」「千年王国」「新天新地」を信じているという点で一致しているわけです。
私は、大患難時代を経て、主イエスが地上に戻って来られると信じています。
その後、千年王国と呼ばれる統治があり、その間、悪魔は縛られていると信じています。千年の後、悪魔は再び解き放たれ、そして捕らえられ、火と硫黄の池に投げ込まれると信じています。
そして、それから新天新地を見るのだと信じています。
「携挙」を信じている聖徒であるならば、この点については「おおまか同じ意見」であると思います。
違うのは「携挙の時期」についての意見でしょう。
携挙の時期については、3つの意見があります。
一つは「患難期前携挙説」です。
これは「患難期の前」に教会は上げられるという説です。聖徒は「患難期」の前に携え上げられ苦難には遭わないと信じる説です。
二つ目は「患難期中携挙説」です。
聖徒は「患難期」を少しは経験するだろうという説です。もちろん「いつ」という時期は定かではありません。「最後の三年半の前」だろうと言う人もいます。また「患難時代の間のいつでも起こり得るのだ」という人もいます。でもこの説は、ほぼほぼ「患難期前」と同じだと考えてよいでしょう。
三つ目は「患難期後携挙説」です。
これは、聖徒は「苦難」を通過して上げられるのだという説です。イエス様が「地上再臨」される時に、同時に「空中再臨」が起こるという考え方です。
「携挙」が起こるだろうと思われる「時期」について「呼び方」が分かれています。分かりやすいですね。
伝統的な考え方として、多くの人が信じているのは「患難期前携挙説」でしょう。
私も、そのように教えられました。そして、一応、今もその立場を取っています。(これは、わざと含みのある物言いをしております。)
ですが、その他の二つの説を「間違っている」と排除し聞く耳を持たないのはどうかと思うのです。
先にも言いましたが「携挙」を信じているという点において、私たちは「同じグループ」です。
実際、「患難期後携挙説」を唱える先生方の著作を何冊か学びましたが、確かに「一理ある」と思わされます。また、新しい視点で黙示録を読む良い機会にもなりました。
患難期後携挙説を教えておられる岡山英雄師は「大きな一致、小さな違い」と言っておられます。
前患難期説と後患難期説の間では八〇年代以降も論争があり、初期のころの極端な説は主張されなくなり、、携挙が患難期の後である可能性を認める方々もおられる。両者の違いは携挙の時期、イスラエルの役割だが、他の点についてはほぼ一致している。これはキリスト教終末論から見ると小さな違いである。二つの説は終末論的全体の枠組みが共通しているので、建設的な対話が可能である。
黙示録の希望を語る 岡山 英雄著 いのちのことば社
今回、私は「前携挙説」と「後携挙説」について、簡単にですが紹介します。
それは、どちらの意見が「正しい」のかを決めるためではありません。
私たちが「ぼんやり」と信じているものを明確にするためです。
「希望」を確信するためです。
そしてまた「危機感」を新たにするためです。
私たちは、自分が「信じていること」について「自分で考えて」身に着ける必要があると思います。
闇雲に「ただ教えられたから」という理由だけで信じているならば、終りの時代を堅く立って生き抜くことは難しいでしょう。
この町とは、ベレヤのことです。ベレヤの人々は「素直で熱心」でした。そして「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のです。
「はたしてそのとおりかどうか聖書を調べること」と「素直で熱心」なこととは対立しません。それは両立するのです。
「はたしてそのとおりかどうか聖書を調べること」は、疑いの行為ではありません。聞いたことが「本当に聖書に書いてあるとおりなのだ」と知ることは信仰を確立します。
私たちも「素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ」ましょう。
そして「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」ましょう。
教えられたことを確信して、信仰に堅く立ちましょう。
ですから、携挙に関しても、どちらの意見も学んで「自分で考えること」が大切です。
今回の学びの目標は「携挙について考える」です。かなり「引用聖句」「引用文」が多くなると思いますが、頑張りましょう(笑)
私たちは「主の来られること」をますます待ち望む者とされましょう。
伝統的な考え方によると、この箇所が携挙をあらわします
「患難期前携挙説」においては、この箇所が「携挙をあらわしている」と考えます。
その主な根拠を二つあげます。
一つは、この先、黙示録22章16節まで「教会」について記されていないからです。
「ここに上れ」これ以前には(特に二章と三章には)「教会」ということばが何度も記されていました。けれども、四章一節から二十二章の終わりごろまで「教会」は一度もでてきません。四章以降(特に六章以降)の出来事が起こるとき、教会(この恵みの時代の信者たち)はもう地上にいないからでしょう。それらのことが起こる前に、教会は天に引き上げられてしまうからです。
ヨハネの黙示録 J・Bカリー著 伝道出版社
黙示録2章3章では、「教会」が中心でした。イエス様は「七つの教会」に目を留めておられます。
しかし、4章以降において「教会」の姿はありません。つまり、地上に「教会」はいないのだと解釈するわけです。
もう一つの根拠は聖句からです。
この聖句が「主イエスの再臨の描写」であることに異論はないと思います。
「天が開かれているのを見た」という箇所に注目してください。
先ほど見た「四章一節」の表現と似ていますね。
四章一節では「開かれた門が天にあった」と記されています。
少しニュアンスの違いはありますが「開かれた天」という表現は、この二カ所だけなのです。
ここを携挙と解釈する伝統的解釈は、立派な根拠を持っています。それはほとんど、どんな聖書を重んじる神学者でも、「主イエスの再臨」と解釈する「黙示録一九章十一節」の「開かれた天を見た」と、この「黙示録四章一節」の「私は見た。それは天にある開いた門である」と、この二カ所だけで「開かれた天」と記されているからです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
「天に開かれた門」の先には「御座」があります。「教会」はそこに上ります。
そして、また「天が開かれ」る時、主イエスは「御座」から来られるのです。
「天に開かれた門」と、その後「開かれる天」の間に、地上において「神の裁き」が行われます。
黙示録には「その間」の出来事が記されていると言うことです。
さて、これは「黙示録四章一節」が携挙をあらわすということの根拠であって「患難期前携挙説」の根拠のすべてではありません。
患難期前携挙説の根拠は、まだあります。それは、後ほど「患難期後携挙説」と比較しながら学びたいと思います。
しかし、その前に「携挙」とは何かを少し考えてみましょう。時間の都合上、ごく簡単にサラっと考えてみます。いつか機会が与えられたならば、詳しい学びができればよいなと思います。
携挙とは何かを考えてみます
パウロはこう言っています。
携挙とは「引き上げられ、空中で主と会うこと」です。
以前の新改訳では「一挙に引き上げられ」と訳されていました。「一挙に」と言う方が正確な意味が伝わるかなと思います。
ある人々は「携挙はない」と言います。その根拠は「新約聖書には携挙という言葉が一度も出てこないからだ」と言うことです。
あるクリスチャン学者は新約聖書には携挙という言葉はないと言うでしょう。それは幼稚な考えです。それは、どの翻訳によるかの問題だからです。~中略~
「一挙に引き上げられる」というのは、携挙の完璧な訳です。ラテン語の「強制的に何かを奪い取る」という意味の語から来ています。
デレク・プリンス著 (Found On The Rockシリーズより)デレク・プリンス・ミニストリーズ/アジア訳
確かに、日本語の聖書に「携挙」という文字はでてきません。英語の聖書にも「raptureラプチャー」という単語はでてきません。
しかし、ラテン語のウルガタ訳聖書には「raptureラプチャー」の語源となった「ラピオ」という語が記されています。ですから、それは「翻訳」の問題だということです。
「言葉の問題」に惑わされないようにしましょう。「携挙」という単語にこだわる必要もないのです。
「一挙に引き上げられること」が起こるのだと理解していれば充分です。
私たちが、その日まで生きていれば「空中で主と会う」のです。
それで、携挙のことを「空中再臨」と呼ぶ人たちもいます。
文字通り「空中で会う」ので「空中再臨」です。
主イエスが「地上に見える姿で戻って来られる」ことは「地上再臨」と呼びます。
時々、混ぜこぜになっている兄姉がいますが、ここは「区別」して覚えてください。
「携挙(空中再臨)」と「地上再臨」は別のものです。
「携挙(空中再臨)」とは、私たちが引き上げられることです。
「地上再臨」とは、主イエスが戻って来られることです。
私たちは、主が戻って来られるまでに「引き上げられること」を切に願っているわけです。
それは「一挙」に起こります。私たちは「一挙に引き上げられる」のです。
ここで「引き上げられ」と訳されている語は「力ずくで移す」「ひったくる」「強奪する」などと訳せます。
つまり、外部からの強い力で移動させられるということです。
私たちは、有無を言わさぬ強い力で「引き上げられ」ます。それは突然のことです。
私たちは「一瞬」のうちに変えられます。
それは「突然」起こります。
突然に、一挙に引き上げられ、一瞬で変わるのです。
すべてが変わります。私たちは、携え上げられ「空中で主と会う」のです。
携挙は「今日」にも起こります!
さて、もう一度、Ⅰコリント15章52節を読みましょう。
ここには、2種類の人がいます。
「死者」と「私たち」です。
「死者」は「よみがえり」ます。
「私たち」つまり「生きている者」は「変えられ」ます。
ここで、注目したいのは、パウロが自分自身を「私たち」つまり「生きていて変えられる者」に含めていると言うことです。
パウロは、自分が「携挙」されると信じていたと思えます。
つまり、大患難の裁きの前に「上げられる」と思っていたと言うことです。
私は「患難期前携挙説」を信じています。その根拠としては、パウロ自身が「携挙される可能性がある」と信じていたということが大きいのです。
もう一つ大きな根拠があります。それは、聖徒は「神の御怒りから救われる」と言うことです。
私たちは、イエス様の血によって「神の御怒り」から救われています。
黙示録に記されている様々な災いとは、いったい何でしょう。
それは、サタンが巻き起こすものではないのです。反キリストがもたらすのでもありません。反キリストと呼ばれる獣も、さばきの対象なのです。
七つの鉢には「神の憤り」が満ちています。そして、その「神の憤りは地に注がれる」のです。
大患難とは「御怒りの大いなる日」のことです。これは「地上に対する神の裁きの時」です。
「御怒り」に耐えることのできる人はいません。
この地は、未曽有の苦しみに会います。今までも、歴史上、苦しいことはたくさん起こりました。しかし、これから起こる事は「それ以上の苦しみ」をもたらします。
愛する兄弟姉妹。
キリストの血によって義と認められた者を、主が「御怒り」によって裁かれるでしょうか。
これが、私が「患難期前携挙説」を信じる最大の理由です。
少なくとも「最後の三年半の大患難」をキリストにある聖徒が通過することはないと信じます。
私は「携挙」は「今日」にでも起こるかもしれないと信じています。
なぜか、私たちは「患難時代の直前」に携挙があると思い込んでいる節があります。
しかし、使徒パウロは、すでに携挙を待ち望んでいました。
つまり、パウロの時代から、患難時代まで「いつ携挙されても不思議ではない」と言うことです。
「今日」であるかもしれません。「明日」であるかもしれません。
そのように「待ち望む思い」を持ちながら生きるのが聖徒の歩みです。
常に「主を待ち望む」生き方を、主は喜ばれると信じます。
携挙の型である「エノク」は、神に喜ばれていました。
「信仰」によって、エノクは「移された」のです。
私たちが「移される」ために、必要なのは「信仰」です。
愛する兄弟姉妹。
私たちは信じましょう。主に喜ばれる「信仰」を抱いて歩みましょう。
日々、主を待ち望み「飽きて」はなりません。常に、主イエスから目を離してはなりません。
私たちも、主とともに歩みましょう。
主は、ともに歩む者を「御怒り」に放り込んだりされません。
私たちは、キリストの血によって「御怒り」から救われています。
苦難を経て完全にされるという意見もあるのです
さて、「患難期前携挙説」の立場から話してきましたが、ここからは「患難期後携挙説」について考えてみたいと思います。
極々簡単に言うならば「患難期後携挙説」とは、終末期の苦難を通って、来臨のキリストに会うということです。
「教会は終末的な苦難を受けない」という主張は、旧新約聖書を貫いているテーマに照らしてみると、実に奇妙である。神の民が地上で苦しみを受けることは、終末の時代に限らない。悪の力は、新約時代のみならず、旧約の時代においても働いており、神の民はそれゆえに様々な苦難を受けて来た。
小羊の王国 岡山英雄著 いのちのことば社
確かに、パウロは「終わりの日には困難な時代が来る」と言っています。
また、イエス様も「あなたがたは世にあっては患難がある」と言われました。
麦と毒麦は、終わりの日まで「一緒に」生長するとも言われました。
前患難期説の問題点の第一は、終末的苦難の理解である。
黙示録の希望を語る 岡山 英雄著 いのちのことば社
つまり、苦難に遭わないことが「希望」なのではなく、苦難による「純化」こそが「希望」であり「喜び」であるということです。
確かに、主は「試練で精錬された信仰」を称賛してくださいます。
黙示録が「患難」について語っているのは確かです。
聖徒がすべて「患難に遭わない」のであれば、なぜ黙示録が必要なのでしょう。
患難期に救われる「新しい民」と「イスラエルのため」に必要だと「前携挙説」を信じる人は答えます。
私たちは「バビロン捕囚に遭わない」けれど、旧約には「捕囚の苦難」について記されています。ですから、黙示録に「患難期」のことが記されていても不思議なことはないと私は思います。
しかし、それでも、この点において真剣に向き合う必要があると思わずにはいられません。私たちは「苦難」の意味を改めて問うてみる必要があるでしょう。
さて、もう一つ「患難期後携挙説」の根拠を見ておきましょう。
「会う」という語に注目します。
「会う」とは「迎える」「出迎える」「遭遇する」などと訳せます。しかし、それだけではないようです。
ここで「会う」と訳されている語は、用例の少ない「アパンテーシス」である。名詞としての用法は他に二回のみであり、ともに迎えに行って戻って来ることである。
黙示録の希望を語る 岡山 英雄著 いのちのことば社
つまり、「患難期後携挙説」とは「地上再臨と携挙は同時に起こる」と言っているわけです。
もう少し正確に言うと「地上再臨の一瞬前に携挙され、主イエスと一緒に地上に戻る」ということです。私たちは「一瞬で変えられる」のですから、それはあり得ないことではありませんね。
すなわちイエスは天から下り、そのまま地へ向かう。キリスト者は、地上から天へ上げられ、空中でイエスを「出迎え」、方向転換して地へ戻る。~中略~
もし携挙が患難期の前なら、民はイエスを「迎え」た後そのまま天へ行くことになる。これは「迎え」(アドパンテーシス)の用例に合わない。それゆえこの語の用例は、後患難期説を支持する。
黙示録の希望を語る 岡山 英雄著 いのちのことば社
後患難期説を学び始めた当時、私は、かなりグラグラと揺れ動きました。
自分の信じていることについて「きちんと説明できない」ことに愕然としました。
何と、自分が「いい加減」に携挙を捉えていたかを思い知らされました。「なるほど」としか言えない自分を情けなく思いました。
「後患難説」の根拠はこれだけではなく、もっとたくさんあります。そして、たいてい論理的です。
個人的に「そうではないなぁ」と思うことはあります。けれど、納得させる反論をすることはできませんでした。今も、学び中です。
私は「後患難説」を学んで、もう一度「苦難の意味」を考えさせられました。
そして「患難に遭わない」ことに、あぐらをかいていてはならないなと思いました。
かなりグラグラと揺れ動きましたが、いろいろ学んで、やはり私は「患難期前携挙説」の立場を取っています。
すっきりと納得のいく説明をすることはできませんが、ただ「そう信じている」のです。
そして「そう信じている」ことに納得しているのです。
あなたはどうでしょう?
どうか考えてみてください。それも真剣に考えてください。
「携挙」について考えることは、イエス様を待ち望むことです。主のみことばを思い巡らすならば、あなたの信仰は「強く堅く」されます。
私たちは、一緒に「主の来られること」を、日々思い巡らせながら歩みましょう。
これは個人的な見解ですが…
最後に「含みを持たせた物言い」について説明しましょう。
私は「患難期前携挙説」を信じています。
しかし、黙示録4章1節が「携挙についての啓示である」とは思っていません。
これについては、奧山師の本から引用させていただきます。
ですから、この四章一節を携挙と考えるのは、決して間違いではないのです。それでも、私は、もう少し考えているのです。つまり、携挙の時は決定すべきではないように思えるからです。この「ヨハネの黙示録」の中に何カ所かが、「これは携挙ではないか」と思われるところがあるのですが、決定的ではありません。我々は聖書の行くところに行き、留まるところに留まるのです。だから、携挙の時も、我々が決定すべきではないと思います。今日かもしれないのですから。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
私も「携挙の時」を決定するべきではないと思います。
もちろん「黙示録4章1節」を携挙の啓示であるとしても「時を決定している」とは言えません。
私は「携挙」は、「今のこの時」から「大患難の三年半」までの間、いつ起こってもおかしくはないと思っています。その点においては「患難期中携挙説」の考え方も含んでいると思います。
携挙の時期に関しては、このような意見もあります。
携挙の起こるときは、最後の大地震の衝撃と同時です。
「みんなが突然にいなくなったなら、人々はどう思うだろうか」と疑問に思われるかもしれませんが。人々がどう思うかお教えしましょう。彼らは気づきもしないのです。
地震ー終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション
なかなか面白い説だなと思います。ジャック・ヘイフォード師は、この本の中で「黙示録」は直線的に呼んではならない、円として考えるべきだと言っています。いくつかの「地震」の描写は、実は「一つの地震」について語っているのだと言う解釈です。
まあ、その是非については、今は置いておきましょう。
ただ、いろいろな考え方があるのだということを覚えて欲しいだけです。
考えることは「疑うこと」ではありません。
私たちもベレヤの人々に倣いましょう。
「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」ましょう。
そうして、揺るぎない信仰を確立しましょう。
私は、「携挙はある」そして「私は御怒りから救われる」と信じています。揺れ動きましたが、今は信じています。
すべてのことに納得したわけでも、理解できたわけでもありません。しかし、最終的には「神の愛」「神の恵み」を信じると決めました。いろいろ学んで、主のご性質に信頼するべきだと確信したからです。
私は、神の恵みによって救われました。それは「大患難から救われること」にも及ぶと信じています。つまり「携挙は恵みである」と信じているのです。そして、これが理解はできないけれど、わたしの心には、ストンと落ちたわけです。
愛する兄弟姉妹。
このような大きなテーマを一度にまとめるのは難しいものです。まったく足りない説明です。
もっと言いたい(笑)
けれど、これをきっかけに「終末」「再臨」「携挙」について聖書を調べて下されば幸いです。
しかし、先に述べたように、実は、地上に残される者の方が多いのです。現在二〇億人いるクリスチャンが全員携挙されるわけではないのです。~中略~
名前だけのクリスチャンが携挙されるわけがありません。ですから携挙されないで地上に残るクリスチャンの方が、携挙されるクリスチャンよりも多いのです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
私は、携挙にも「恵みのゆえに信仰によって」という原則が適用されると思います。
エノクが「信仰」によって「神とともに歩み」そして「上げられた」ならば、私たちもそうなのだと思うのです。
あなたの「信仰」が確立されますように。
人から聞いた「他人の信仰」の上に、自分の信仰を築き上げてはなりません。
主の御前に「一人で」出るときが必要です。
あなたが、聖書を調べ、聖霊様の導きによって答えにたどり着くことを祈っています。
主を待ち望む、すべての聖徒に祝福がありますように。