黙示録3:20
見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりすると言われます
ラオディキア教会に対する3つの忠告を学んできました。
ラオディキアの教会は、自分たちの本当の姿が分かっていない愚かな教会でした。
しかし、イエス様は、そのようなラオディキア教会を愛しておられます。
イエス様は、ラオディキア教会を諦めてはおられません。
彼らは「なまぬるい」状態でしたが、主は、彼らが「熱心になって悔い改める」ことを望み続けておられます。
なぜでしょう?
なぜ、主は、望み続けてくださるのでしょう。
理由はただ一つ…
ラオディキア教会は「主の愛する者」だからです。
イエス様は、彼らを「愛して」おられるので、終りの時まで「決してあきらめない」のです。
神は「愛」です。そして「愛」は、決してあきらめないものです。
「愛」は「望み」を捨てることがありません。
主は、ラオディキアの教会の「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍んで」おられます。
ゆえに「忠告」をしてくださるのです。
それは、彼らがまだ「子として」扱われているという証拠です。
主は、ラオディキア教会を叱っておられます。
「あなたはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」と言われます。
とても厳しいことばに聞こえますが、そこには愛があります。
ラオディキア教会は「自分は豊かだ。足りないものはなにもない」と言ってイエス様を閉め出した教会です。
しかし、それでも、なお、主は彼らを愛し続けておられます。
イエス様は、ご自身を閉め出した教会から「立ち去って」はおられません。
主は、戸の外に「まだ立って」おられます。
主は、戸をたたいて「呼びかけて」おられます。
私たちは、いつも覚えていなければなりません。主は、決して「私を諦めないのだ」ということを。
あなたが、自分を諦めてしまっても、主は「あなたを信じ、望み」を捨てられません。
ご自身を3度否むことになるペテロにイエス様は言われました。
イエス様は、シモン・ペテロがご自身を否むことを知っておられました。
そして、その裏切りによって「ペテロ自身」が傷つくことをも知っておられました。
ゆえに「祈られた」のです。
「あなたの信仰がなくならないように」と。
裏切りが起こった時、ペテロは「自分を激しく責めた」でしょう。
「ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできております」と言った自分は、プライドとともに砕け散りました。
ペテロが立ち直れたのは、イエス様の祈りがあったからです。そして、ペテロに向けられた眼差しがあったからだと私は信じます。
イエス様はペテロをご覧になりました。それは、ペテロが「三度、知らないと言った時」でした。
主は「振り向いてペテロを見つめられた」のです。
どのような眼差しだったと、あなたは思いますか。
「ほら、言った通りだっただろう」という冷たい視線だったでしょうか。
「この裏切り者め」という怒りの視線だったでしょうか。
私は、イエス様の眼差しは「愛に満ちていた」と信じています。
「大丈夫だ。わたしは知っていた。おまえのために祈ったよ」という眼差しであったと信じています。
人を悔い改めに導くのは「罰」ではありません。「戒め」でもありません。
人を悔い改めに導くのは「神のいつくしみ」です。
主イエスの「いつくしみ」が、ペテロを深い悔い改めに導きました。
そうして、ペテロは立ち直りました。
ペテロは、生涯、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」というイエス様のお言葉と、振り向かれたときの「眼差し」を忘れなかったでしょう。
イエス様を「否んだ」というのは「閉め出した」と同じことです。
イエス様を故意に閉め出したペテロでも、立ち直って「兄弟たちを力づける者」とされました。
イエス様が、ラオディキアの教会に望んでおられるのは、まさにそのことではないかと思います。
主の「熱い愛」に気がついて、熱心に悔い改めること。
そして、立ち直ったならば「世界中の兄弟姉妹」を力づける教会となって欲しいということです。
主は、終りの時代の教会に期待しておられるのだと私は信じます。
愛する兄弟姉妹。
あなたは「終わりの時代の聖徒」です。
主は、あなたに大いに期待しておられます。
「いや、自分はイエス様を閉め出してしまった。主を裏切り続けてしまった。もう、熱く生きるなんてとてもできない」
そのように思っているでしょうか。
主は、あなたが「裏切ること」など、とうの昔から知っておられます。
主は、すべてをご存知です。
そして、それでも言われます。
あなたが「ヤコブ」のように「押しのける者」として生きていても、あなたは「主のもの」です。
あなたが「イスラエル」の名にふさわしく「神とともに」生きていても、もちろん「主のもの」です。
主は「わたしはあなたの名を呼んだ」と言われます。
あなたは、偶然、救われたのではありません。主が「呼ばれた」のです。
あなたが「裏切った」としても、主は「名を呼び続けて」くださいます。
あなたの「裏切り」は、主にとって「予想もできない痛手」ではありません。
もちろん「悲しまれ」ます。しかし、主は「わたしは知っていた」と言われるのです。
「大丈夫だ。わたしは知っていた。ゆえに御子を十字架に架けたのだ」
主の愛を信じてください。
どのような時でも、たとえ「裏切ってしまった」としても、それでも、主は「愛すること」を放棄されません。
悪しき敵は、終わりの時代の聖徒を「ふるいにかける」でしょう。
あなたも「ふるわれて」信仰を失う危機に陥るかも知れません。
しかし、どうか忘れないでください。
主は、あなたが「ふるわれること」をご存知なのです。
そして、もし、敵の策略につまづいてしまったとしても、あなたに向けられる主の眼差しは「いつくしみ」に満ちているのです。
主は、あなたへの「望み」を失われません。主が、あなたを「あきらめる」ことは決してありません。
私たちは、堅く立って「兄弟姉妹を力づける者」とされましょう。
イエス様を閉め出すとはどういうことでしょう
イエス様は「戸の外」におられます。
この「戸の内側」には、聖徒と呼ばれる人々が集っているのです。
これは「教会」に宛てた手紙ですから、イエス様を閉め出しているのは「教会の信徒たち」なのです。
教会がイエス様を「閉め出す」などということが本当に起こり得るのでしょうか。
なぜ、イエス様を「閉め出す」ような事態に陥ってしまうのでしょう。
YWAMの創設者ローレン・カニングハム師の証を紹介しましょう。少し長いですがお付き合い下さい。
それは1973年の話です。
主は、YWAMに船を与えようとしておられました。小さな船ではありません。世界中を航海できる大きな船です。
920人の宿泊が可能で、120台の車、何トンの荷物が積み込める大型船です。
若いローレンたちは大興奮でした。新聞なども彼らを取り上げたと言います。
「神はご自分の民に導き語られるのみならず、備えもしてくださいます」
新聞社はその声明文がたいそう気に入ったらしく、大見出しで載せてくれた。
「若者は語る。『神は必ず船を与えてくださる。』と。
神様、私に語ってください ローレン・カニングハム著 ワイワム出版
何もかもが順調でした。航海士も与えられ乗務員も集まっていました。
船の支払いのための献金も、最初は順調に集まっていたのです。
だれもが「みこころだ」と信じて疑っていませんでした。
そのような時、主は、ローレン師に「みことば」を語られます。
すべが変わってしまったのは、神と過ごした週である。座って静かに聖書を持ち「ヘブル人への手紙」の所を開いていた。不意に、十二章の二十六節と二十七節が目の中に飛び込んできた。
「わたしは、もう一度、地だけでなく、天も揺り動かす…決して揺り動かされることのないものが残るために…」
頭をガーンと殴られたような気がしました。
「まさか! あの船のことではありませんように」
神様、私に語ってください ローレン・カニングハム著 ワイワム出版
ローレン師の「まさか」は、当たっていました。主は「あの船」のことを言っておられたのです。
しばらく後、ローレン師は一つの幻を見ます。長いですが全文引用します。
突然心の中に浮かんだ幻を見ていた。十七年前にも波の幻を見たが、ただ今度の幻は、それとは似ても似つかぬ恐ろしいものだった。
幻の中で、大勢のYWAMリーダーたちの前に立っている自分の姿を見た。私は張り切って彼らに報告していた。「船が与えられました! 神はマオリ号を買うお金をくださったのです!」
リーダーたちの士気は大いに揚がり、彼らは腕を振ったり叫んだりしていた。すると不意に人の姿が見えた。その人は私の左側にできた影の中に立っていたが、彼に気付く人はいなかった。近づいて顔を見ると、深い悲しみの表情が浮かんでいる。その時、ハッと気が付いた。イエス様だ! イエス様から目を離していたのだ!
船をほめたたえ、イエス様を忘れていたのだ。
わら布団の中に顔を埋めたが、悲しい表情で立っておられるイエス様の惨めなお姿を頭から払いのけることができなかった。
「お赦しください。与えてくださる船に目を奪われ、あなたから目を離していました。私は…私たちは…船をいただけるような者ではありません。あなたから栄光を奪い、船の塊りに栄光を与えるようなことはしたくありません。」
神様、私に語ってください ローレン・カニングハム著 ワイワム出版
結果として、ローレン師たちは船を諦めました。融資を受け、人間的な方策を講じれば手に入れることはできたかもしれません。もう、準備は整っていたのです。
彼らは泣き崩れました。しかし、それは「船を失う悲しみ」ではなく「主イエスを隅に追いやったこと」に対する悲しみです。
彼らは諦めることを選びました。なぜなら、そこにイエス様はおられなかったからです。
いえ、正確には、イエス様は「隅の方においやられ、鉄の塊りが栄光を受けていた」からです。
さて、後のことは想像できますね。
新聞までが大々的に取り上げたビッグニュースだったのです。世間の反応は厳しいものでした。特に、彼らに反対していたクリスチャン団体からの非難は激しいものであったと言います。
ローレン師は詐欺師と呼ばれました。彼らの名声は地に落ちました。
しかし、それは覚悟の上で船を諦めたのです。表面を繕っても、世間の称賛を得ても、イエス様がおられなければ意味がありません。
たとえ、船を手に入れて、そのことで「主がほめたたえられた」としてもです。
後の話を少しだけしましょう。
何年も経った後、YWAMは「大型船」を手に入れることになります。船の名前は「アナスタシス(復活)」です。しかし、この後の話はまた別の機会に紹介できればと思います。
私は、三十年前から、ずっと「船をあきらめた話」を読み続けています。何度も何度も、メッセージで取り上げました。
しかし、それでも同じ間違いをしでかしてしまいました。船ではないけれど、私も「ビジョン」を手放すことになったのです。いつの間にか「私のビジョン」になっていたからです。
人とは弱いものだなとつくづく思います。
順調に物事が運んでいる時、私は「主をほめよ」と言いました。しかし、実際には「順調にいっている物事」をほめたたえていたのです。
「主に感謝」と言葉では言うけれど「与えられた物」や「上手くいった事」を感謝していたのです。
「物と事」に栄光を与えてはなりません。「鉄の塊りである船」に栄光を与えてはなりません。栄光は、ただ主イエスだけにふさわしいのです。
素晴らしい賛美がささげられていても、イエス様を隅に追いやることはできるのです。
実際、私は、イエス様を隅に追いやっているつもりは全くありませんでした。
教会が、イエス様から目を離し「物と事」に栄光を与えるならば、主イエスを閉め出すことになります。
しかし、イエス様を「閉め出している」ことに気が付く人々は、まだ幸いだと言えます。
ローレン師たちのように、主を隅に追いやったことを「心から悲しみ泣き崩れる」ことのできる聖徒は幸いです。
船を手放し、詐欺師呼ばわりされたとしても、それでも「主イエス」を再びお招きできることは幸いなのです。
あなたの心の中央には「何が」あるでしょう。「誰が」いるでしょう。
あなたの心の戸は「たたかれて」はいませんか?
私たちは、決して「主イエスから目を離して」はならないのです。
主の臨在を取り戻しましょう
もう一度、黙示録3章20節を読みましょう。
イエス様は「わたしの声を聞いて」と言われます。
主は「呼ばわりながら、戸をたたいて」おられるのです。
主は「ともに食事をしよう」と申し出てくださっているのです。
イエス様は「わたしは食事をする。あなたは立って給仕をしなさい」とは言われませんでした。
戸を開いてイエス様を招き入れるなら「彼もともに食事をする」と言われます。
一緒に食卓を囲むなら、もはや「しもべ」ではありません。それは「友」です。
イエス様は、過ぎ越しの食事をともにした弟子たちを「友」と呼ばれました。
「しもべ」と「友」の違いは「主人のすることを知っているか、知らないか」です。
イエス様は「友」である弟子たちに「父から聞いたことをすべて」知らせたと言われます。
つまり「神の友」とは「神のみこころを知らされた者」ということです。
愛する兄弟姉妹。
戸を開いて、イエス様をお迎えしましょう。
礼拝の中で、生活の中で、どんなときにも「みこころを知る」ことを最優先としなければなりません。
終わりの時代の教会にとって、最も必要なことは「主の臨在を取り戻すこと」です。
私たちは、賢くなりすぎてしまいました。豊かになり、足りない物は何もないという状態になりました。
しかし、本当に必要な唯一のものを失ってしまったのです。
イエス様を閉め出してしまったなら、教会に何が残るのでしょう。
礼拝は、ただの習慣的な儀式となります。そこには「力」はありません。いつもと同じように集まって、いつもと同じように帰るだけです。
しかし、教会の真ん中にイエス様がおられるならば何が起こるでしょう。
力ある御言葉が語られ、神のみこころが明確にされます。人々は癒されます。悪霊は追い出されます。赦しが宣言され、喜びがあふれます。
教会の真ん中にイエス様をお迎えするためには、まず、私の心の戸を開けなければなりません。
主の友となりたければ、主とともに食卓を囲むことです。
主は、喜んであなたと食事をしてくださいます。
あなたは、そこで「みこころ」を知ることができるでしょう。主が語ってくださることを聞いてください。
静まって「主イエスよ、扉は開いております。どうそ、お越しください。そして、どうかみこころをお語りください」と言えばよいのです。
主が語ってくださることを信じてください。主が、あなたを「友」と呼ばれる恵みを感謝して受け取ってください。
私たちは臨在を取り戻さなければなりません。そして、いつもその中にとどまっていなければならないのです。
これは偉大な約束です。
ラオディキア教会は「なまぬるく」「高慢」な教会です。しかし、主は、彼らと「食事をしたい」と望まれるのです。食卓を囲み、主の「みこころ」を知らせたいと望んでおられるのです。彼らを「友」として扱ってくださるのです。
イエス様は、あなたにも同じことを望んでおられます。
「世を友」とせず「神の友」であることを選びましょう。その臨在の中で生きることを求めましょう。
「みこころ」を追い求め「みこころ」だけを行うことができますように
私が「みこころ」から目を離すなら、イエス様は閉め出されます。
「物と事」に栄光を与えるなら、イエス様を閉め出します。
「自分」を見つめるなら、イエス様を閉め出します。
「他の人」を気にするなら、イエス様を閉め出します。
イエス様は、柔和で謙遜な方です。そして、私たちを決してあきらめない愛の主です。
しかし、終わりの日は来ます。
ラオディキア教会が「携挙に取り残される教会」と呼ばれていることを思い出してください。
主イエスは戸をたたき続けてくださいます。しかし、それは「時」が来るまでです。
「もはや時は残されていない」と御使いが宣言する日は近づいています。
準備のできていなかった愚かな娘たちは「閉め出されて」しまいます。
私たちが、主イエスを「閉め出したまま」気付かずに過ごすなら「その日」が来た時に「閉め出される」のは、私たちの方です。
イエス様が「戸の外」に立っておられることに気がつかないまま過ごすことは可能です。
ラオディキアの教会は気がついていませんでした。彼らの目には「富んでいる自分。不足のない自分」が見えていました。「物と事」に栄光を与えた彼らの中に、主イエスはおられません。
私たちは、イエス様を閉め出してはなりません。主を閉め出すなら、最終的には「自分が閉め出される」ことを覚えていなければなりません。
キリストの名のもとに生きて来たつもりなのに、最終的に「私はあなたを知らない」と言われたとしたら…
恐ろしすぎて身震いしてしまいます。
ラオディキアの教会に与えられた約束は偉大なものです。
主は、一緒に食事をする者を「わたしとともに座に着かせる」と言われるのです。
イエス様に友と呼ばれる者は幸いです。
主イエスが「勝利を得て、父とともに父の御座についたのと同じ」ようにされるのです。考えられない光栄です。
勝利を得る者とは「戸を開き、主と食事をする者」です。
つまるところ、聖徒にとって「最も大事な事」は「主と食事をすること」なのです。
主と交わり、みことばを味わい、主のみこころを知ること。
そして「知らされたみこころ」に応答すること。その「みこころ」を行うこと。
これが「すべて」なのです。
私たちは、みことばを行う力ある勇士とされましょう。
「何が」とか「誰が」という思いは葬り去りましょう。
ただ「みこころ」を追い求め「みこころ」だけを行うことができますように。
終わりの日に堅く立ってことを行なえるのは「自分の神を知る者」です。
主を知ることを求めましょう。主を知ることを切に求めましょう。
主は「戸をたたいて」おられます。あなたを「友」と呼ぶために。
今日、御声を聞くなら心を頑なにしてはなりません。すぐに「戸を開いて」お迎えしましょう。
祝福を祈ります。