【黙示録2章24節~25節】わたしが行くまで、しっかり保ちなさい

再臨を待つ

黙示録2:25
ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと保ちなさい。

「残りの者」は必ず存在します

ティアティラの教会への手紙について、続きを学んでいきます。

前回は「イゼベルの惑わし」について学びました。今回は、「サタンの深み」について考えたいと思います。

黙示録2:24
しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

「ティアティラにいる残りの者たち」とは、イゼベルの教えに惑わされず「サタンの深み」を知らない聖徒のことです。

ティアティラの教会は、見た感じ「良い」教会です。

彼らの「行い、愛と信仰と奉仕と忍耐」をイエス様も認めておられます。しかし「人の思いを探る方」は、その「本当の姿」を見通しておられます。

ティアティラの教会には「イゼベルの教え」が蔓延していました。それは、もう治療することができないほどでした。彼らは「死病で死ぬ」と宣告されています。

しかし、同時に「残りの者たち」がいるとイエス様は言われます。

Ⅰ列王記19:18
しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。

エリヤの時代にも「残された者」がいました。イゼベルに屈せず「バアルに膝をかがめなかった者たち」がいたのです。

主は「わたしは」残していると言われます。どんなときにも「主が残しておられる七千人」がいるのです。

そのように「ティアティラの教会」にも「あの女、イゼベル」の教えを退けた「残りの者たち」がいました。

彼らは、主が「残された者たち」です。

終わりの日、私たちの周囲には「惑わし」が蔓延するでしょう。誰を信じて、誰を疑えばよいのか分からなくて戸惑うかもしれません。しかし「誰のことも」見る必要はありません。ただ、主イエスだけを見て進めばよいのです。

あなたは「ただ一人」残されてしまったと感じているかもしれません。一人で戦って、エリヤのように疲れ果てているかもしれません。誰も、何もわかってくれないと感じることもあるでしょう。

しかし、覚えてください。

必ず「バアルに膝をかがめていない七千人」が残されています。主が「わたしが残しておいた」と言われる選びの民が存在するのです。

私たちは、恐れずに立って進みましょう。目には見えなくても、ともに戦う勇士はいます。あなたが、進んで行くならば、必ずいつか「他の勇士」と出会います。エリヤにエリシャが与えられたように「同じ召し」に生きる人と出会うでしょう。

私は、そう信じています。

「サタンの深み」とは何か その①

さて「ティアティラにいる残りの者たち」は「サタンの深み」を知らない者たちと呼ばれています。

「サタンの深み」とは何でしょう。いくつかの解釈があります。二つだけ紹介します。私は、この二つの意見に同意しています。

一つは文字通り「サタンの深み」を経験するということです。

文字どおり、自分たちで、自分たちの教えや生き方が「サタンの深み」を知っている教えであり生き方であると自慢していたのです。そのように吹聴していたのです。罪、汚れから離れて生きる清潔さを誇りとするのではなく、全くその逆です。本物の信仰をもっていれば「サタンの深み」を知っても大丈夫である、という教えだったのでしょう。信仰の点で初心者か上級者かを試す試金石となっていたのが、「サタンの深み」なのです。
黙示録の七つの手紙 柴田敏彦著 いのちのことば社

ある人々は「霊的な強さ」があるならば「サタンの深み」を知っても大丈夫だと考えました。サタンを打ち負かすためにも「サタンの深み」を経験するべきだと考えました。

彼らは「わざと」悪の巣窟に身を置いたのです。

例えば「わざと」偶像に献げられたものを食べるようなことです。

Ⅰコリント8:10
知識のあるあなたがたが偶像の宮で食事しているのをだれかが見たなら、その人はそれに後押しされて、その良心が弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。

パウロは、コリントの教会に言っています。

確かに「偶像の神」など存在しません。天地を創造された唯一の神がおられるだけです。

ゆえに「供えられた物を食べても何の影響も受けない」という強い心で食べた人がいたのでしょう。彼らは「知識を誇るため」に食べました。

しかし、それを見た「救われたばかりの人」や「その知識のない人」たちが影響されてしまいました。その影響された人々は「良心の弱い人」と呼ばれます。

パウロは「弱い人」を傷つけるならば「キリストに対して罪を犯すことになる」という戒めを語っているのです。

しかし「サタンの深み」を知る人々は「偶像に備えられた物」を食べることこそ「強さの証明」だと考えました。そのようなことをしても「何の害も受けない」と誇っていたわけです。

同じように彼らは「不道徳な行為」「淫らな行い」に関しても同じように考えました。「罪」の中に身を置いても「霊」に影響はないと考えたからです。

愛する兄弟姉妹。

決して思い違いをしてはなりません。主を試すようなことをしてはなりません。

Ⅰコリント8:1
次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

この聖句を読むと「偉大なイスラエルの王ソロモン」を思い出します。

ソロモンは、世界中の誰よりも「知識」を持っていました。私は、ソロモンは「強い人」であったと思います。しかし、残念なことにソロモンは「偶像の神を拝む」までに霊が堕落したのです。彼の「多くの妻たち」が「偶像」に導いたからです。ソロモンは「異国の女たち」を主ご自身よりも愛したのです。

ローマ6:15
では、どうなのでしょう。私たちは律法の下ではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。

「罪が増し加わるところに、恵みも満ち溢れました」と聖書は言います。ある人々は「では、もっと罪を犯そう。もっと恵みを味わうために」と考えました。

そんな考え方は無益であると、私たちはみな知っています。しかし「サタンの深み」を知る人々は、それを実践したのです。

彼らは「知識」をフル活用しました。自分たちは「知っているのだ、だから大丈夫」と考えました。

そして、自分たちの仲間に加わらない人々を見下したのです。

「なんだ、こんなことも知らないのか、大丈夫なんだよ。何の影響も受けはしない。さあ、一緒に食べて飲もう」と言ったのです。

知識は人を高ぶらせます。これは「サタンの言い分」です。「それを食べても死にませんよ。賢くなるだけです」とサタンはエバに言ったのです。

「滅びないならやってもいい」「罪でないから大丈夫」と思っているなら、あなたは「誰かを滅びに導く」かもしれません。そして、あなた自身もまたいつか「大きく道をそれた」ことに気がつくでしょう。

私たちは「罪」か「罪でないか」を行動の判断基準にしてはなりません。

それは「主への愛」の行為ですか。それは「兄姉への愛」の行為ですか。それは「主の栄光」をあらわしますか。それは「兄姉のつまずき」になりませんか。

「イゼベルの子どもたち」は「霊的高慢」に陥っていました。

私たちは「霊的に強い」ことを誇る必要はないのです。「知っている」ことをひけらかす必要もありません。

「罪」を深く知っている人は「恵み」もより深く感じることができると私たちは思います。

確かに「劇的な証」には感動します。圧倒的な主の愛を感じて「うらやましく」思うこともあるでしょう。

私は、おそらく、所謂「劇的な証」を持っている一人であると思います。そして、若いころの「証」において、幾分、「罪を犯したこと」を自慢するような話し方をしていたことは否めません。

主が、どれほど「恵み深い方」であるかを強調するよりも、自分が「いかに罪深かったか」を強調していたように思います。「このような私でさえ救われたのだ」と言いたかったのは本当です。しかし、その「証」によって「罪の量」が「恵みの量」であるかのような誤解を与えてしまったのではないかと、今さらながら恐れています。

いわゆる「罪の量」と「恵みの量」は比例しません。これは、30年かけて知った真理の一つです。

「大きな罪」とか「深い罪」とか、そのような分類はないのです。「罪」はみな「大きく」「深い」のです。

主に忌み嫌われる者のリストには「咎なき者の血を流す手」と「兄弟の間に争いを引き起こす者」が同時に記されています。殺人者も、いざこざを起こす人も「同じ忌み嫌われる者」なのです。

「恵み」を知るために「サタンの深みを知る」必要はありません。そんなことをしても「サタンと仲良くなるだけ」です。

本当の「罪深さ」を知りたいのなら「聖なる神」の御前に立ちなさい。「恵みの神」の御前にひれ伏しなさい。

「聖なる神」の御前に立てば、嫌でも「自分の汚れ」が分かります。

そして「恵みの神」の御前にひれ伏すならば、「恵み」が、あなたを「悔い改め」へと導くでしょう。そして、そこにさらに「恵みが満ち溢れる」ことを知るでしょう。

「サタンの深み」へと誘う「イゼベルの教え」を退けなさい。

「イゼベルの子どもたち」も最初から「深み」にはまっていたわけではないでしょう。それは、少しずつ「深く」なって行くのです。

「サタンの深み」とは何か その②

さて、もう一つの解釈は、彼らは「サタンの深み」を「神の深み」であると思っていたというものです。

「神の深いところ」を知っていると主張したグノーシス派に対する風刺。彼らの主張した「霊知」は悪魔的に吹き込まれたもので、神の霊感によるものではない。

一人で学べるキリストの啓示 フルダ・K・伊藤著 文芸社

彼らは「神の深み」を知っていると主張していたのだけれど、それは実際には「サタンの深み」であったのです。

彼らは自分たちには「霊知」があると主張していました。自分たちは「神秘」を知っていると言っていました。

おそらく「あの女、イゼベル」と呼ばれた人は「魅力的」であったのだと思います。容姿も端麗であったかもしれませんが、何より彼女の「語ることば」が魅力的であったのでしょう。

「イゼベルの教え」は、人の「知的好奇心」を満足させたのでしょう。また「宗教的な経験」は「神を知っている」ような気分にさせただろうと思います。

人々は「イゼベルの教え」に夢中になったのです。彼女の教えこそ「神の深いところだ」と信じたのです。

「あの女、イゼベル」には、本当に「預言の賜物」が与えられていたのかもしれません。しかし、彼女は「自分の見た幻に依り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって」しまったのだと思います。

Ⅰヨハネ4:1
愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものか吟味しなさい。

吟味する責任は「私たち自身」にあります。

多くの「預言者」がいます。多くの「不思議」が行われます。しかし、すべてが「神からのもの」であるとは言えません。

また逆も同じです。

すべての「預言」が間違っているわけではないし、すべての「不思議」が悪霊からのものでもありません。

私たちは「霊が神からのものか」しっかりと識別する必要があるのです。「霊だから」と言って「すべて」を信じてはいけないと言われているとおりです。

私たちは「自分で」吟味しなければならないのです。

Ⅰヨハネ4:2~3a
神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。

「イエスを主」と告白するだけではダメです。「人として来られたイエス・キリストを告白」する必要があります。直訳すると「肉を持って来られたイエス・キリスト」です。

イエス様の神性を認めていて、主をあがめるようなことを言っていても、「人」となって「肉と血」をもたれたイエス様を否定するなら、それは「福音」ではありません。

ピリピ2:5~8
キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てることができないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現われ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

「神としてのあり方を捨てることができないとは考えず」と記されています。つまり、イエス様は「神である」ということです。「神」でなければ「神のあり方を捨てること」はできません。「人としてのキリスト」を信じるということは「神であるキリスト」を信じることでもあります。

「人として来られたイエス・キリスト」を告白するとは「自らを低くし、十字架の死にまで従われた方」を告白することであると私は思います。イエス様は「傷つき血を流すために」身体を持ってくださったのです。

自分こそ「神の深み」を知っていると語る人がいるならば「よく観察すること」です。

彼らは「キリスト・イエスにあるこの思い」を抱いているでしょうか。

つまり「自分のあり方を捨てて、自分を空しくし、しもべの姿をとっているか」ということです。

私たちは「キリスト・イエスのうちにある思い」を抱かなければなりません。

「キリスト・イエスのうちにある思い」を抱かない、抱こうとしないならば、それは「イエスを主と告白しない」ということです。

コロサイ2:18~19a(新改訳第二版)
あなたがたは、ことさらに自己卑下しようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに結びつくことをしません。

「ほうびをだまし取られてはなりません」とは、別訳では「不利な批評をさせてはなりません」です。

また、新改訳2017では「彼らがあなたがたを断罪することがあってはなりません」です。

多くの「自称預言者」「自称神の人」たちに振り回されるのはやめましょう。

「ことさらに自己卑下」する人は「謙遜」に見えるかもしれません。しかし「自己卑下」とは形を変えた「高慢」です。

「現象」を強調する人がいても、耳を貸してはなりません。彼らが「まだ経験していないのか」「新しい教えを聞いていないのか」と言ってきても混乱してはなりません。彼らの「批評」や「断罪」は、主なる神から出たものではないからです。

私たちは「幻」に結びつくのではありません。「奇跡」に結びつくのでもありません。「現象」を追い求めるのはやめなさい。「新しい教え」を求めて駆けずりまわる必要はないのです。

私たちは「かしらなるキリスト」に結びつきます。私たちみなが、一人ひとり「直接」かしらに結びつくのです。

「誰か」や「何か」の前に立って生きてはなりません。

詩篇16:8
私はいつも 主を前にしています。
主が私の右におられるので
私は揺るぐことがありません。

「サタンの深み」にはまらない最も良い方法は「いつも、主を前にする」ということです。

わたしが行くまで、しっかり保ちなさい

黙示録2:25
ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。

イエス様は「ティアティラの教会の残りの者たち」に「わたしが行くまで」と言われます。

ここに確かな「再臨の約束」があります。イエス様は必ず戻って来られます。

「わたしが行くまで」とは、なんと力強い励ましでしょう。

Ⅰテサロニケ4:16a
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

Ⅰテサロニケ4:18
ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

主の再臨は「励まし」です。私たちは「もうすぐ主とお会いできるよ」と言い合って、励まし合いながら生きるのです。

イエス様は「サタンの深み」を知らない「残こりの者たち」に「その他の重荷を負わせない」と言われました。

つまり彼らは「サタンの深みを知らない」ままでいるだけでよいということになります。

使徒たちは、御霊によって「異邦人クリスチャン」に書き送りました。

使徒15:28~29
聖霊と私たちは、次に必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上の重荷を負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。

主イエスも「ティアティラの残りの者たち」に同じことを望まれたのだと思います。

彼らは「あの女、イゼベル」の惑わしに屈せず、それらのことを注意ぶかく避けていたのですから、それ以上は「何も負わせない」ということでしょう。

「あなたが持っているもの」が何なのかはっきりとは分かりませんが、今のままの「信仰」を保持せよということなのだろうと思います。

「わたしが行くまで、しっかりと保ちなさい」ということは、主イエスが来られるときまで、教会の中に「サタンの深み」を知る人々が存在し続けるということになります。

「残りの者たち」は、その中で「持っているものをしっかりと保ち」続けることが必要なのです。

イエス様が、終わりの日のたとえ話において「麦と毒麦」の話をされた意味がわかりますね。

マタイ13:29~30a
しかし、主人は言った。「いや、毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかも知れない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。

麦と毒麦は「収穫まで両方とも」育つのです。主が来られるまで「麦も毒麦も」一緒に育ちます。

覚えてください。

「麦も毒麦も」です。

確かに「終わりの日には困難な時代」がやって来ます。「偽預言者」が多く現れて、選民をも惑わそうとします。

「毒麦」が猛威を奮うように見えるでしょう。「毒麦」は大いに成長します。

しかし、同時に「麦」も成長するのです。

「サタンの深み」を知る人々の中で、そのようなものを「知らない」人々が残されています。

「バアルにひざをかがめていない七千人」は、いつでも「残されて」います。

「麦」も大いに成長します。

終わりの時代、今までかつてない「リバイバル」が訪れます。福音の大勝利がもたらされます。

準備しましょう。もう、それは始まっています。

立ち上がって、主の大勝利の一員に加わりましょう。

「あの女、イゼベル」の惑わしを退けた「残りの者」とは「選ばれた者」のことです。

私たちが終わりの時代に生かされているのは偶然ではありません。

私たちの生きる時代を決められたのは「主なる神」です。

私たちは、この時代に「成長する麦であれ」と望まれて召し出されたのです。

あなたの持っている「確信」を決して投げ捨ててはなりません。あなたの持っているものを「しっかり」保ちなさい。

主は必ず来られます。あなたの報いを携えて来られます。

ヘブル10:35~39
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
しかし、私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、信じていのちを保つ者です。

祝福を祈ります。