黙示録2:18
また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われるー。
教会は「改革」されなければなりませんでした
引き続き「ティアティラの教会」について学びます。今回は2章23節までです。
ティアティラの教会は「6世紀~15世紀の教会の姿」を現していると言われます。
テアテラの教会は、六世紀から十五世紀までの、教会の暗黒時代の姿を現していると言われます。西方教会に関して言えば、六世紀から十五世紀の教会は、聖書よりも、アリストテレスの哲学を重んじ、それに立っていました。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
もちろん、この時代を生きていた人々は、自分たちが「暗黒時代」を生きているなどとは思ってもみなかったでしょう。
「6世紀から15世紀」とは、長い期間ですよね。「中世暗黒時代」などと呼ばれているので悪いイメージしかありませんが、すべてが「悪かった」わけではありません。
「長い期間」の間には、もちろん様々なことがあったのです。難しい歴史の話は頭痛がするので省略しますが、この時代に「修道院」が発達しました。映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」で有名な「アッシジのフランチェスコ」などは、この時代の人です。
彼らは、その生き方に賛否両論はあるでしょうが、熱心に「聖である」ことを求めた人々です。伝道もしましたし、貧しい人々に施しもしていました。病の人々の面倒もみました。彼らは「愛を実践」していました。
イエス様が言われるとおり「愛と信仰と奉仕と忍耐」があったのです。その行いは「初めの行いにまさる」ものでした。
しかし、同時に、この時代、教会の中央は「腐敗」していたのです。
この時代の後に、ルターらによる「宗教改革」が行われます。つまり、この時代の宗教は「改革」される必要があったということです。
ドイツにおける免罪符制度のあまりにも目立つ悪用が、この国に宗教改革の起こった直接の原因であった。
基督教全史 E.E.ケァンズ著 聖書図書刊行会
宗教改革の原因を簡単に解説することはできません。「免罪符」だけが理由ではなかったのは明らかです。様々な要因があったなかで「直接的な原因」としてあげられているのが「免罪符」です。
つまりは「そのようなこと」がまかり通っていた時代であったということです。
何でも「お金」で買えました。罪は「金銭」によって償われました。聖職者の地位も「金銭」で買えました。
そのように「金銭」によって「聖職者」になった人々が、本当の意味で聖書の御言葉を教えることなどできるわけがありません。教える気もなかったと思いますが。
聖職者の道徳的堕落は、誰の目からも明らかでした。
教会は「偉く立派に」なり過ぎたのです。教会は「世的な権力」を持ってしまったのです。
教会は「大きく」なったけれど、本来の「教会」としての使命を完全に失いました。
「改革」が必要だったのです。
いいえ、教会は「一度、死ぬべき」であったと私は個人的には思います。
なすがままにさせているなら滅びます
「あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている」とイエス様は言われました。
責められているのは「なすがままにさせている」ことです。
つまり「ティアティラの教会」の聖徒は「イゼベル」のしていることを知っていたということです。知っていながら「なすがまま」にさせていることを、イエス様は叱責しておられるのです。
イゼベルと呼ばれる女は、ティアティラの教会に「惑わし」を持ち込みました。
それは文字通り「惑わし」であったと思います。
多くの聖徒は「主に背いている」とは考えずに「不道徳」を行っていたのではないでしょうか。「偶像に献げた物」を食べてもよいのだと信じていたのだろうと思います。
「自称預言者」を本物の預言者であると信じていたならば、彼女の言うことは「絶対」なのだと考えたとしても不思議ではありません。
彼女は、淫らなことを「行なわせて」いました。それは「つまずきの石を置くこと」とは、また別の「悪」であると私は思います。
「惑わし」は存在します。それは「教会」の中にもあります。
終わりの時には「惑わす者たち」が現れます。彼らはみな「私こそキリストだ」と言います。彼らはみな「私の教えこそ真理だ」と言うでしょう。
ですから、私たちは「惑わされないように気をつけなさい」と警告されているのです。
まさに「中世の暗黒時代の教会」は「真理から耳を背け、作り話にそれていった時代」でした。
「煉獄」なんて聖書のどこにも記されていません。「免罪符」で罪が償えるなんて、どこに記されているのでしょう。
人々は「自分の都合の良いように作り話」を考え出したのです。それで「儲けてやろう」と考えた人たちがいたのです。
その始まりは「健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こう」としたことからでしょう。
なぜ「健全な教えに耐えられない」のでしょう。それは、人々が「生まれたままの人」「肉の人」であったからです。
愛する兄弟姉妹。
イゼベルの霊は「支配する霊」です。それは、最初は「力」で押さえつけて来ることはないでしょう。あなたの「耳に心地よい」ことをささやくはずです。イゼベルは「惑わし」をもって「コントロール」してきます。
覚えてください。
コントロールされるのは「肉」です。あなたが「御霊に満たされている」のなら、イゼベルの霊は、あなたを支配することはできないのです。
「ティアティラの教会」の問題は、中世の暗黒時代で終わったわけではありません。
教会に「肉」がはびこることを許してはなりません。「弱さ」という名目で、いたるところに「肉」がはびこっているのを私たちは見ているはずです。
「弱さ」なのだから「受け入れて当然だ」言われて、私たちは「肉」をのさばらせてしまうのです。「弱さ」を盾に「愛を搾取する」ような人には注意しなければなりません。
なかなか難しいときもありますね。しかし、私たちの愛が「豊かになるため」には「識別力」が必要なのです。つまり、なんでもかんでも「受け入れる」ことが本当の愛ではないということです。
私たちも祈りましょう。
どうか主よ、大切なことを見分ける識別力をお与えください。そして、私の愛を豊かにしてください。
「自称預言者」は、必ず、どの時代にでも現れるものです。どれほど「御霊の賜物」に満ちあふれていても「肉的な人」は存在します。
ですから、決して「惑わされて」はなりません。
主のみこころは、私たちが「聖なる者」とされることです。
教会に、その「みこころ」を妨げるような「思想」「教え」が入って来たなら立ち向かいなさい。それを「なすがまま」にさせてはなりません。
まず私が「御霊に満たされる」ことです。そして「賜物」ではなく「聖められること」を一心に追い求めることです。
巻き込まれないようにしなさい
主は、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。イゼベルと呼ばれる女にも「悔い改めの機会」は与えられたのです。しかし、彼女は悔い改めることはありませんでした。
「この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む」とは警告です。そして、主の最後のあわれみです。
終わりの時、再び「宗教」と「政治」が融合します。「一致することはよいこと」と皆が思うでしょう。不法の秘密は「バベルの塔」の時と同じように働いています。
使徒ヨハネは、大淫婦と呼ばれる「一人の女」が「獣」に乗っている幻を見ます。
イゼベルは、この「一人の女」の型であると私は思います。
「一人の女」は、「大淫婦」とも「大バビロン」とも呼ばれます。「地の王たちを支配する大きな都」のことです。この「一人の女」は、おそらく「宗教的な都」であると思われます。「宗教的な都」が「政治的な指導者」である獣つまり「反キリスト」と融合します。(このことは、また黙示録17章で詳しく学びます。)
大バビロンは必ず滅びます。ですから「わたしの民は、彼女のところから出て行きなさい」と警告しておられるのです。
同じように「あの女、イゼベル」も最終的には滅びます。
ティアティラの教会の聖徒は、なぜ「あの女、イゼベル」と関係を持ってしまったのでしょう。彼らも、最初は「主イエスの福音」を聞いて信じたはずなのです。
「私は大丈夫」と思わないようにしましょう。私たちも「惑わされる」危険性は常にあります。
「霊的なこと」にはくれぐれも注意してください。「自称預言者」は、狼の姿では現れません。彼らは「良き羊飼い」のように現れます。
「自称預言者」に耳を傾け続けるならば、あなたも「滅び」に巻き込まれることを忘れないでください。
人の心と思いを探る方
「この女の子どもたち」とは、イゼベルに付き従う人たちのことでしょう。主は、彼らに容赦されません。はっきりと「死病で殺す」と宣言されます。恐ろしいですね。
主は「心と思いを探る者」だと言われます。
あなたは「心で」信じていますか。「神はイエスを死者の中からよみがえらされた」と信じていますか。「イエスは主です」と心から告白しましたか。
主は「心と思いを探る方」です。「燃える炎のような目」で、すべてを見通されるのです。
「イゼベルの子どもたち」と呼ばれる人々の「心と思い」をイエス様は探られました。その結果、彼らは「心で」信じていないことが明らかになったのです。
「霊的な仮面」は、主の御前では役には立ちません。偽りの聖職者をイエス様は見抜かれます。「信仰的な行い」は何の役にも立ちません。
「心で」信じているかが重要なのです。
イエス様は「ティアティラの教会」に対して、ご自身を「神の子」として現わされました。これは「重要」なことです。この手紙が「特別」と言われる理由でもあります。
ティアティラの聖徒たちは「神の子」であるキリストを知る必要がありました。それは、つまり、彼らが「神の子イエス」をないがしろにしていたことを意味します。
つまり彼らは「キリストの神性」を軽々しく扱っていたということです。
「福音」とは「御子」に関することです。
そして、この方は「聖霊によって死者の中から復活された神の子」なのです。
ですから「神の子イエス」を認めないということは「福音を否定する」ということなのです。
「神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ことは「イエスは神の子キリストである」と信じることです。それはまた「神の子が十字架で死なれた」ことを信じることです。
「イゼベルの霊」は、私たちに「妥協」をもたらします。「これぐらいは大丈夫」とささやくのです。「肉」に引きずられて、私たちは「惑わされて」しまいそうになりますが、しっかり立ちましょう。
神は決して「これぐらいは大丈夫」などと言われません。神は妥協されません。ゆえに「御子を十字架にかけた」のです。「福音」には「神の義」が啓示されていることを忘れないでください。
「心で」イエス様を「神の子」と信じない限り、本当の告白はできません。主は「燃える炎のような目」をもって「偽りの告白」を見抜かれます。
「ティアティラの教会への手紙」には、主の「いつくしみ」と「厳しさ」が見えます。
「神の子」としてのキリストを認めないならば、そこにあるのは「厳しさ」です。イエス様の権威を侮り、「肉」をなすがままにさせているならば、必ず「厳しさ」と向き合うことになります。「今」向き合いましょう。先延ばしにして、「いつか」向き合ったときには、もしかすると、もう遅いかもしれません。
「光り輝く真鍮のような足」は、すみやかに「闇」を踏み砕かれます。教会の中にある「闇」は、必ず明るみに出ます。そして、主は「光り輝く真鍮のような足」でその「闇」を踏みつぶされるでしょう。
「本当に理解」することが大切なのです。「心で」本当に信じることが必要なのです。そうすれば「世界中で実を結び成長する」のです。
「暗黒時代」であっても、「イエスを主と告白し」一心に求めた人々が存在しました。彼らは「教会」ではなく「主イエス」を求めたのです。
「暗黒時代」において、彼らは「異端児」でした。「変わり者」と呼ばれました。しかし、そう呼んだのは「指導者たち」「権威者たち」「金銭を追い求める人たち」です。
「貧しい人々」「病む人々」は、彼らの中に「キリスト」を見ました。
主は、言われます。
「わたしはあなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる」と。
救いは「個人的なもの」であることを忘れないでください。良い教会に通っているからと言って「救われている」わけではありません。
ダビデは言います。
主に「心を探ってください」と言える人は幸いです。
私たちは「心で」信じているか「探って」いただきましょう。
本当に「イエスを主としているか」を「探って」いただきましょう。
光の中に自ら進んで出るならば、私たちを闇が覆うことはありません。すべてを御前に明け渡すならば「イゼベルの霊」によって惑わされることはありません。
「福音」を本当に理解できるように求めましょう。世界中で実を結ぶのを見ることができるように求めましょう。
「心と思い」を探られて恐ろしい思いをするのは「主の敵」だけです。
主は「心を探ってください」と願う者を「とこしえの道」に導いてくださいます。
愛する兄弟姉妹。
厳しいと感じるかもしれませんが、私たちは「妥協せず」に生きましょう。「肉」を「弱さ」と偽ってはなりません。「自由」と「わがまま」を混同させてはなりません。
確かに「神は愛」ですが「聖」でもあられるのです。
私たちは「イゼベル」のもたらす、あらゆる「汚れ」を退けましょう。「行い」だけではなく「心と思い」をも汚さないように生きましょう。
「肉」をなすがままにさせてはなりません。「あの女、イゼベル」をなすがままにさせてはなりません。
聖くなければ神を見ることはできません。
私たちは、聖さを追い求めて生きましょう。
祝福がありますように。