【黙示録2章18節~20節】イゼベルの霊に惑わされないためには、燃える主の御目を見上げることです

再臨を待つ

黙示録2:18
また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われるー。

燃える炎のような目を持つ方から隠れることはできません

七つの教会への手紙の「第四番目」まできました。

「ティアティラにある教会への手紙」は、七つの教会のなかで「最も長い手紙」です。また「七つの手紙の真ん中に位置する」ので「最も重要な手紙だ」と言う人もいます。

ある人々は、この手紙は最も重大な罪を取り扱っているから、最も重要な手紙だと考えています。その、七つのシリーズの四番目という位置はまた、ヘブル的背景を持つ著述家が用いる強調法を知っている者にはだれでも、特別な重要性を思わせます。
黙示録の中のキリスト W・E・シューベルト著 軽井沢聖書学院(リバイバル・フェローシップ)

さて、どの手紙が「最も重要か」という議論には意味はありません。七つの教会は、それぞれ「独自性」があり、それぞれ「特別」です。

ただ「ティアティラの教会」に対する、イエス様のお言葉は、何となくですが「特別に恐ろしい」ように思えます。そういう意味において、ティアティラの教会は「重要である」と言えるかもしれません。

ティアティラの教会については詳しいことは分かりません。ティアティラの町についても、あまりよく分かりませんでした。

昔は「国境の要塞都市」として重要視されていたと言われます。しかし、使徒ヨハネが黙示録を書いた時代には「それほど目立つ町ではなかった」ようです。

町そのものとしては、七つの教会でも一番目立たないところでした。重要でもなく、知名度も低いと言ったらよいでしょうか。
黙示録の七つの教会への手紙 柴田敏彦著 いのちのことば社

ものすごく「目立つ町」ではなかったのは確かなようです。他の注解書にも「小さな町」だと記されていました。

しかし、それでも「三つの主要な道路」がティアティラの町で交差していたようです。ですから、商売をする人々が行き来する場所であったと思われます。

ティアテラは「小さく目立たない町」だけれど「多くの商人が行き交う町」であったということです。

そして、ティアティラの教会は「町としては小規模だけれど、アジア州の中で最も活発な教会」であったと言われます。

正直に言いますと、私は個人的に「ティアティラの教会への手紙」が一番難解だと感じています。なんというか「つかみどころのない感じ」もしくは「得体のしれない感じ」がするのです。

しかし、おそらく、それが特徴ではないかと思うのです。

ティアティラの教会について学ぶとき、私たちも「燃える炎のような目を持つ方」の前に立つこととなります。そうでなければならないのです。

主イエスは、私たちの心の内側を「燃える炎のような目」で見通されます。

私の「得体のしれない心」を、主が見通されます。自分では「どうすることもできない心」をイエス様にお任せしましょう。

エレミヤ17:9~10
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方により、行いの実にしたがって報いる。

主に「知り尽くして」もらう人は幸いです。主に「心のすべて」をお任せする人は幸いなのです。

自分で「何よりもねじ曲がっている心」を治すことはできません。自分の「得体のしれない心」を解読することはできません。

ですから、私たちは「燃える炎のような目」を持つ方の御前に、自ら立つのです。

雅歌8:6b
愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。

主イエスは「燃える愛」をもって、私たちを見つめておられます。

その「愛の炎」は「激しい炎」です。主は、私たちの内にある「他のものへの思い」を焼き尽くそうとしておられます。主は、私たちに「ご自身だけ」を見てもらいたいと望んでおられるのです。

主を慕い求める者にとって「主の燃える目」は「恐ろしい」ものではありません。たとえ、罪を示され「少し痛み」を覚えたとしても、その何倍もの愛と恵みに圧倒されます。

おそらく、あなたが、そのあふれるばかりの愛を経験したならば「主よ、もっと罪を示してください」と逆に願うようになるだろうと私は思います。

隠してはなりません。隠すことはできないからです。

しかし、隠し通そうとするならば「ティアテラ教会のイゼベルたち」と同じ結末を迎えることになるでしょう。

さて、前置きが長くなりました。ここから、ティアティラの教会について学んでいきましょう。

しかし、責めるべきことがあると言われます

黙示録2:19
わたしはあなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。

ティアテラの教会は一言で言うならば「素晴らしい教会」です。

エペソの教会も「行い、労苦と忍耐」を称賛されていました。しかし、ティアテラの教会は「愛と信仰」においても称賛されています。

「愛と信仰と奉仕と忍耐」のある教会なのです。また、現状に甘んじることなく進歩しています。彼らの「近ごろの行い」は「初めの行い」よりも優っているのです。

彼らのどこに「責められるべきこと」があるのでしょう?

ティアティラの教会の行いには「愛」がありました。そして、それは「信仰」と結びついています。彼らは「奉仕」をしていました。それは不平不満から行うものではなく「忍耐」と結びついていました。

それは、今のカトリックの「愛と奉仕の精神」につながるものだと私は思います。確かに彼らの「愛と奉仕」は素晴らしいものです。(このことは、次回に学びたいと思います)

イエス様は「ティアティラの教会」の「行い、愛と信仰と奉仕と忍耐」を誉めておられます。

黙示録2:19
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げものを食べさせている。

ティアテラの教会にも「責めるべきこと」がありました。それも「少しばかり」ではなく大いに責めるべきことがありました。

「あの女、イゼベル」と主は言われます。主が「イゼベル」を非難しておられるのは明らかです。

ティアティラの教会には「自称預言者」であるイゼベルという女がいました。おそらく実名ではないでしょう。

旧約聖書に登場する悪名高き「イゼベル」になぞらえて語っておられるのだと思います。

ティアティラの教会が「責められて」いるのは、このイゼベルを「なすがまま」にさせていることについてでした。

教会の中に彼女の教えは蔓延していました。「主のみことば」ではなく「イゼベルの預言」が蔓延していたのです。この「自称預言者」に一部の人々は心酔しました。彼らは「イゼベルの霊的な子どもたち」でした。

「これは、あまりよくないな」と思っていた人たちも、教会の中には存在したかもしれません。しかし、誰もイゼベルに対して何も言わなかったのです。

何も言えない気持ちは分かります。「預言者」とされている人に向かって意見するのは勇気がいることです。

しかし、主は「なすがままにさせている」ことを責めておられるのです。

「愛と信仰と奉仕と忍耐」のあるティアティラの教会の中に「恐ろしいこと」が潜んでいました。教会は「愛と信仰と奉仕と忍耐」を行うだけではダメなのです。

マルコ10:40
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹がわたしだけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

ここで「もてなし」と訳されている言葉と、ティアティラの教会にあった「奉仕」という言葉は同じ語が使われています。

マルタは「さまざまな奉仕のために心が落ち着かず」と訳すこともできるということです。

マルタの奉仕は「愛」からでたものです。そこには、イエス様に対する「信仰」もありました。彼女は少し「忍耐」には欠けていたのかもしれませんが、一生懸命に「奉仕」したいという心は持っていました。

そのようなマルタにイエス様は言われます。

ルカ10:41~42
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

主は、マルタに「必要なことは一つだけです」と言われました。

「奉仕」は大切なことです。ティアティラの教会は褒められています。

しかし、どうしても「必要な一つ」を欠くならば、すべてのことは「空しいもの」となります。

私は、ティアティラの教会は「忙しい教会」であったのだろうと思います。「愛と信仰と奉仕と忍耐」を表すことに一生懸命だったのかもしれません。

「忙しい」という漢字は「心を亡くす」と書きますね。

「心を亡くす」まで走り回ってはなりません。たとえ「善いことのため」であったとしても「心を亡くして」はなりません。

教会は「奉仕」のために存在するのではありません。たしかに「もてなし」は大切です。「伝道」は大いに励むべきです。「祈り会」も持ちましょう。

しかし「必要なことは一つだけ」だということを忘れてはなりません。

ルカ10:39
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。

マリアは「必要な一つのこと」を選びました。

それは「主の足もとに座って、主のことばに聞き入ること」です。

主を見上げるマリアの姿が見えるような気がします。目を輝かせて、一心に、イエス様のお話を聞き入っている姿が浮かんできます。

熱心に話を聞いてもらえるのは嬉しいものです。イエス様は、ご自身の話を熱心に聞いて欲しいと望んでおられます。

マリアにとっての至福の時は、実に、イエス様にとっても至福の時間なのです。

あなたが、主の足もとに座って「どうかお語りください。しもべは聞いております」と言うとき、主は喜んでくださるのです。あなたは、主を喜ばせることができるのです。

マリアの選んだ「良いほう」が取り上げられることはありません。

私たちは「良いほう」を選ばなければなりません。それこそ「必要な一つのこと」だからです。

教会が「必要な一つのこと」を失ってしまうならば、それは「心を亡くすこと」です。

奉仕をしても、伝道をしても、たとえ救われる人が増し加わったとしても「心を亡くす」ならば、そこに「イエス様との交わり」は生まれません。

「心を亡くす」ならば、たとえ「早天祈祷」を毎朝行ったとしても、それは「難行苦行」でしかありません。

教会が「心を亡くし」たならば、簡単に「イゼベルの霊」に支配されるでしょう。それは、ある意味において「バラムの教え」よりひどいことです。気がついた時には「取り返しのつかない状態」になっているかもしれません。

ですから「なすがまま」にしていてはなりません。

まず「必要な一つのこと」に専心することです。そうすれば、主が「何を」語っておられるのかが分かるようになるでしょう。

あの女、イゼベルと呼ばれました

イエス様は「あの女、イゼベル」と言われました。少し「嫌悪」されているように感じる呼び方ですね。

「自称預言者」である「あの女」は、旧約聖書に登場する「イゼベル」のような霊性を持っていたのだろうと推測できます。

イゼベルとは、イスラエルの王アハブの妻です。

Ⅰ列王記21:25
アハブのように、自らを裏切って主の目の前に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。

イゼベルは、アハブ王を「そそのかし」ました。彼女は「人をコントロールする霊」を持った人の代表です。

アハブは、すっかり「フェニキア文化」の虜になってしまったと言われています。自分の妻の故郷の「名産」である「象牙」で家を建て「象牙の家」などと呼んで調子にのっていたそうです。

イゼベルは、自分の夫を操るだけでなく、自ら、主の預言者を虐殺しろと命令し、北イスラエルだけでなく、南ユダにまで偶像をもたらそうとしました。

とにかく「悪名」とはこの人のためにあると言っても過言ではありません。

イゼベルの「本性」がよくあらわされているのは「ナボテの事件」ではないかと思います。

わがままで子どもっぽい王であるアハブは、ナボテのぶどう畑が欲しかったのです。

しかし、ナボテはそれを断ります。断られたアハブ王は、すねてしまって「寝台で横になり、顔を背けて食事もしようと」しませんでした。なんともはや、あきれた「お子様」ですね(笑)

それを見たイゼベルが言います。「この私がぶどう畑を手に入れてあげましょう」と。

そして、恐ろしい方法でそれを手に入れるのです。

Ⅰ列王記21:9
彼女は手紙にこう書いた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに「おまえは神と王を呪った」と証言させなさい。そして、彼を外に出し、石打にして殺しなさい。

これは、この通りに実行されました。

イゼベルは「でっち上げの罪」をナボテに追わせて、その情報を信じた民に「石打ち」にさせたのです。

「神と王を呪った罪」を犯したナボテを、人々は「正しい心」で石打にしたのです。

たかが一般市民の「ぶどう畑」を手に入れるために、よくもこんなひどい計画が立てられるものです。

イゼベルとは、このような人なのです。

彼女は「よこしまな者」を用います。

彼女は「民の心」を操ります。民は「操られている」ことに気づきもしないでしょう。

彼女は「正しい人」を策略によって殺すことに何の罪悪感も抱きません。

自分の目的のためには「何でも」するのです。

彼女は必要なら「泣く」でしょう。必要なら「金銭を渡す」でしょう。そして、必要なら「殺す」こともするのです。

そのように考えると「ティアテラのイゼベル」がどのような女であったのか、想像がつきます。

燃える炎のような目を持つ方の御前に立つのです

「あの女、イゼベル」は、現代の教会においても深刻な問題であると私は思います。

この「自称預言者」には、細心の注意を払うべきだと考えます。しかし「注目」してはなりません。「イゼベルの霊」は「注目されること」を好みますから。

「イゼベルの霊」に惑わされないために、私たちができる一番良いことはいつも同じです。

「イエス様の足もとに座ること」です。主を見上げて、主のおことばを聞くことです。

「預言の賜物」があることは確かです。本当に「主のことばを預かって話す人」はもちろん存在します。

しかし、覚えてください。

私たちは「預言者に導かれる」のではないということを。

ローマ8:14
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

「霊的な人」の意見に惑わされてはなりません。これは「自戒」を込めて強調して言います。

「聖書を知っていること」と「みことばに生きること」は違います。

「霊的に見えること」と「御霊によって生きること」とは違うのです。

あなたに「神のことば」を押し付ける人には警戒しなさい。

その人は、最初は「よい人」に見えるでしょう。親切なふうに近づいてくるかもしれません。

しかし「コントロール」される前に離れなさい。決定権を「その人」に渡してはなりません。

どんな人にも「決定する権利」を譲り渡してはなりません。

その人が「預言者」であっても「牧師」であっても「友人」であってもです。

こんなふうに聞くと「誰がイゼベルか?」と教会中を疑いの目で見まわしてしまうかもしれませんね(笑)

だれがイゼベルなのかと明らかにする必要はありません。

だれでも「イゼベル」になり得るのです。女性も男性も「イゼベルの霊」を持つことがあります。そうさせられる人もいると思います。役職や立場によって「イゼベル」にさせられる人もいるでしょう。

今までは「普通」に見えたのに、気がついたら「イゼベル」になっていたという人もいると私は思うのです。

マタイ13:25
ところが眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。

まずは「眠らない」ことです。

敵は、いつでも「毒麦の種」を蒔こうと待ちかまえています。私たちは、イエス様が帰って来られる日まで「熱心に」主を待ち望みましょう。

しかし、それでも確実に「毒麦」は蒔かれているでしょう。毒麦は最初は麦と見分けがつきません。それでも確実に、世の終わりになると、今まで蒔かれて来た「毒麦」が成長してくるだろうと思うのです。けれど「毒麦」を抜こうとしてはなりません。すべて、主にお任せするのです。

マタイ13:29~30
しかし、主人は言った。「いや、毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかも知れない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。」

「毒麦」を集めることは、すべて主にお任せしましょう。

私たちはただ「イゼベルの霊」に自分自身が惑わされないようにしっかりと立つだけです。

あなたにからみついてくる「イゼベルの霊」をなすがままにさせてはなりません。その「支配」を野放しにしてはなりません。

私たちは「口の言葉」に細心の注意を払うべきです。

私は「誰をも思い通りに動かそうと」してはならないからです。誰かを「思い通りに動かそう」としてはなりません。言葉を用いて「誘導」してはなりません。相手を尊重して、御霊の支配に委ねるべきです。

逆もまた同じです。

誰かの「思い通りに動いては」なりません。私たちは、日々、自分の上に「みこころ」だけが成るようにと宣言しましょう。

しかし、自分が操られているとは、なかなか思えないものです。それが分かっていたならば「ティアティラの教会」の聖徒たちも「あの女、イゼベル」に心酔したりしなかったでしょう。

ですから、私たちは「燃える炎のような目を持つ方」の御前に自分自身をさらけ出すのです。

主は、あなたを「炎のような激しい愛」をもって見つめておられます。

あなたがその愛に「応答」するならば、イゼベルの霊に惑わされることはないと私は信じます。

なぜなら、主の炎は「主以外のものに向く心」を焼き尽くすからです。焼き尽くされ「純真な心を主に献げる人」は幸いです。

その人は「真鍮のような足を持つ神の子」に踏みつぶされることがないからです。

主を見上げましょう。いつも同じです。私はいつも同じことを言っています。私たちは、主の足もとに座り、ただ主を見上げるだけの者です。そしてそれこそ「必要な一つのこと」なのです。

祝福を祈ります。