黙示録2:17
耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかは誰も知らない、新しい名が記されている。
ニコライ派の教えを頑なに守っている者たち
前回は「バラムの教え」について学びました。今回は「黙示録2章15節~17節」を学びます。
ペルガモンの教会は「ローマ帝国による迫害が終わった、四、五世紀の教会の姿を現している」と言われています。
迫害されることがなくなった教会は、今までとは違い「昇格」し「偉く」なりました。「キリスト者」であることは、一種のステータスとなりました。
「キリスト教」は、もはや「信仰者の集まり」とは呼べなくなりました。それは「宗教家たちの集まり」となりました。そして、その「宗教」は「政治」と密接に結びついていたのです。
つまり「地位」や「権力」を得るために「宗教」を利用する人が多く存在したということです。
「バラムの教え」と「ニコライ派の教え」を同じ教えであるとする意見もあります。
しかし「同じように」と記されているので、バラムの教えを頑なに守る者たちと「同じように」ニコライ派の教えを頑なに守っている者がいると解釈する方が自然かなと私は思います。
どちらにしても、主イエスがそれらの教えを否定しておられることは間違いありません。
当時の「ニコライ派」については「エペソにある教会への手紙」でだいたいどのようなものであるのかを学びました。ですから、今回は詳しくはやりません。以前のメッセージを参照してください。

今回は、ニコライ派の教えが「四~五世紀」の教会にもたらした影響について考えてみましょう。
ニコライ派の教えはすでにエペソの教会に浸透していた教えで「人々を支配する」という名が暗示しているように、教会の中に聖職者階級制度を持ち込んだのでした。キリストの教え「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません…、あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」は忘れ去られ、牧師、神父などの聖職が、神が定められたものとして制度化されたのです。
聖職者と平信徒との間に明確な境界が敷かれ、信徒は教会の教理、規定、聖職者の教えに従うことを評価基準とする教会制度が確立されたのでした。
ひとりで学べるキリストの啓示 ヨハネの黙示録 K・フルダ・伊藤著 文芸社
ニコライ派は、教会に「階級制度」を持ち込みました。「権力」を持ちたいと願う人にとって「階級制度」は、もってこいの制度であったのです。
いつから「聖職者」と「平信徒」などという言葉が使われるようになったのでしょう。そんな「召し」は聖書に記されていません。
みなが「聖徒」です。そして、みなが「献身者」であるべきです。みな「キリスト・イエスの兵士」です。みな「神の子ども」です。
「牧師」や「教師」として立てられた人々は「偉い」のではありません。彼らは「召し」に従っただけです。
主の「召し」による「本当の使徒」「本当の預言者」「本当の伝道者」「本当の牧師」「本当の教師」は、所謂「教職者」ではなく「平信徒」と呼ばれる兄姉の中に隠れているのではないかと思います。
実際「教職者」などという呼び方はなくなればよいと私は思います。「平信徒」って何だ?と心底思っています。
パウロは、ローマの教会にこう書き送っています。
神に愛され、召された「聖徒たちへ」とパウロは言っています。
「聖徒」とは、神のために「取り分けられた人」という意味です。神がご自身のために「特別に」あなたを取り分けられたのです。
主は、目的もなく取り分けたりなさいません。主は、あなたを「目的を持って選ばれた」のです。
みな「召されて」いることを覚えてください。「神に愛され、召され」たのです。
「献身者」でない「聖徒」など存在しないのです。あなたが「聖徒」ならば「取り分けられて」います。「取り分けられて」いるならば、あなたは、もはや「この世のもの」ではありません。あなたは「キリストのもの」です。あなたは「献げられた」のです。
神に愛され、召された聖徒たちよ。
誤解を恐れず、あえて言います。
教会ではなく「神」に従ってください。主の御声に聞き従ってください。
私たちは、みな「キリストのしもべ」であって、組織や教団のしもべではないからです。
ある時点において「聖職者階級制度」が持ち込まれたとするならば、いつまでもそれに縛られる必要はないのです。
主は「ニコライ派の行い」を憎んでいると言われたではありませんか。
教会には「従うべき」であると私は信じて来ました。ずっと「自分は我欲のかたまりで、反逆の心があるのだ」と自分自身を責めてきました。主に従うことは「教会に従うこと」であると信じていました。
しかし「教会」は「神」ではないのです。「牧師」も「神」ではありません。「役員」も「神」ではないし「リーダーたち」も「神」ではありません。
牧師と呼ばれていても、信徒と呼ばれていても、何と呼ばれていようと、盲目的に「教会が言うことは絶対だ」という従い方をしてはなりません。「だれか」の目を気にして信仰生活を歩んではなりません。
私はただ「キリストのしもべ」でありたいと願います。ただ「主を喜ばせるために」生きたいと願います。
主なる神とあなたの間に「だれも」「何も」入れてはなりません。あなたを直接導くのは「聖霊」であることを決して忘れないで下さい。
教会に根深く残っている過去の遺産「ニコライ派の教えを頑なに守る」のはもう終わりにしましょう。
みことばに生きることこそ霊的な生き方です
いつの時代にも「上に立ちたい」と願う人がいるのは否めません。
「かしらになりたがっているディオテレペス」が何者であるかは分かりません。しかし、使徒ヨハネを受け入れず、教会から気に入らない人を追い出していたということは分かります。
「かしらになりたがっているディオテレペス」のような人は、いつの時代にも存在します。
イエス様は言われます。
「かしらになる」ことが「権力をふるうこと」であると思っているならば、それは大きな間違いです。「上に立つ」ことは「偉くなる」ことではありません。
私たちは、そのようなことは、ちゃんと理解しているのです。しかし、誰でも「上に立って」しまうと「横柄さ」がにじみ出てしまうのです。
それは、つまり「私がかしらだ」「私は上に立っている」と思うからです。自分の「部位」もしくは「立ち位置」を誤解しているので「横柄」になるのです。
「私は仕える者です」「私はしもべです」と考えているならば「横柄」にはなりません。「横柄なしもべ」などあり得ないのです。
「頭はキリストです」「私はキリストのしもべです」と思っているならば「権力をふるう」ことはできません。
ニコライ派の教えを「頑なに守る」人の多くは、上流階級の人たちであったと言われています。彼らは「ゆるいキリスト教」を好んでいたのです。もちろん、彼ら自身は「ゆるい」とは思っていなかったでしょう。彼らは自分たちを「賢くて霊的」だと思っていたようです。
そして、その「賢くて霊的」な自分たちこそ「上に立つにふさわしい」と信じていたのでしょう。
自分たちは「からだの重要な部分」であると考えました。ゆえに、人々を「みことば」から遠ざけたのです。「教え」は自分たちから「出る」もので充分だとしたわけです。
このようなことが「現在の教会」でも、形を変えて受け継がれていると言ったら、また怒られるでしょうか。まあ、怒られますね。きっと(笑)
しかし聖徒が、全員、赤ちゃんで、自分自身で「みことば」をいのちの糧とすることができないのならば、何かが間違っていると言わざるを得ません。
覚えてください。
「霊的」なのは「みことばを語る人」ではありません。「語るのが上手ければ霊的」ならば、パウロより「偽使徒」の方が霊的だということになります。
口八丁手八丁の人に騙されてはなりません。「みことばを良く知ってる」「語るのも上手」「仕事も早い」から「霊的」とは限りません。サタンは、まさにそのような者でしょう。しかし、いくら「みことば」を知っていても、サタンは決して「みことばに生きる」ことはしません。
本当に「霊的」なのは「みことばに生きる人」です。「行いのない信仰は死んだもの」なのです。
からだの中に「不要な部分」はありません。からだの中に「働かなくてよい部分」もありません。各部位は、みな、それぞれ何らかの働きを担っているのです。
愛する兄弟姉妹。
あなたにも「担うべき働き」があります。サタンの偽りに惑わされてはなりません。
「おまえには何もできない。まだ早い」と言われてもひるんではなりません。
「おまえには何もできない。もう遅いのだ」と言われても無視しなさい。
あなたにも「必ずある」のです。主は、あなたを世界の基が据えられる前から「選ばれた」のです。それは、もちろん「愛する者」として選ばれたのですが、一緒に働く「同労者」としても選ばれたのです。
応答するのに「早すぎる」ことはありません。「呼びかけ」を聞いたなら「今」応じるのです。
「もう遅い」と言って、今日、立ち上がらないのなら「明日」では、もっと「遅い」のです。
生かされている限り、何かしらの「使命」が必ずあります。主に「聖い生きた供えもの」として自分自身を「今」献げなさい。
あなたは語れます。励ませます。教えることもできます。開拓にも行けます。家を解放して集会もできるでしょう。預言も語れるし、伝道もできるのです。慰め、愛を与え、癒しを行い、新しい言葉を語り、奇跡を行うことができるのです。
もちろん、それらのすべてを一人で行うことはできないでしょう。
けれど、あなたにもあるのです。主が与えてくださった「使命」が。
主が、あなたと共に成し遂げたいと用意された「使命」が必ずあるのです。主はあなたにも「ビジョン」を与えられます。あなたにも「夢や幻」を与えられます。
「志し」は、特別な人のためのものだという「偽り」を、今、打ち砕きます。
それこそサタンの偽りです。「献身」は特別な召しがなければならないのだと思い込ませているのです。「献身者」になるには、神学校を出なければならないなんて「あり得ない」のです。救われた聖徒は、すべて「献身者」であることを忘れないでください。「献身」こそ「キリスト者の標準」なのです。
すべての人が「使命」をいただいているのです。主からの「使命」を解放してくださるように求めてください。もうすでに「ビジョン」が与えられているならば「みこころよ、成れ」と宣言するのです。
サタンが「ニコライ派の教え」を浸透させて「奪い続けて来たもの」を取り戻しましょう。「みことばに生きる者」となりましょう。
愛する兄弟姉妹。
一緒に立ち上がりましょう。
すべての聖徒が「自分の使命」を握って堅く立つならば、必ずリバイバルが起こると私は信じています。
隠されているマナを与えよう
ペルガモンの教会に対する約束は「隠れたマナ」と「白い石に記された名前」です。
イエス様は、偶像に献げたいけにえを拒否したペルガモンの聖徒に「隠れたマナ」をくださいます。
その昔、荒野の旅においてイスラエルは「マナ」によって養われました。
彼らは、カナンの地に入るまで、ずっと「マナ」を食べ続けたのです。主は「マナ」を毎日毎日欠かさずに降らせてくださいました。
主がイスラエルを「マナ」で養われたのは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」ことを教えるためでした。
ペルガモンの聖徒たちに「隠れたマナ」を与えるのも同じ理由です。
「バラムの教え」「ニコライ派の教え」を頑なに守っている人々は「世の中の恩恵」を受けていました。
彼らは「世と同じくびき」を負っていました。彼らは「世と上手くつきあって」いました。
それは「豊かに生きるため」にです。
しかし、主は言われます。
「豊かないのち」のために必要なのは「世の保護」ではありません。「豊かないのち」のためには、イエス様だけで充分なのです。
この先、終わりの日が近づくにつれ「政治」と「宗教」は、ますます「癒着」します。
「多様化」を受け入れるという名目で、宗教が統一されていくでしょう。その背後には「大バビロン」と「獣」が隠れています。まだ現れません。しかし、すでに不法の秘密は働いています。
愛する聖徒の兄弟姉妹。
「世」は、あなたにパンを差し出すでしょう。あなたが「必要だ」と感じている「それ」を差し出してきます。
「世」が差し出す「それ」を受け取れなければ「豊かに」生きることはできないという「偽り」に耳を貸してはなりません。
「世」と手をつないではなりません。決して「仲良く」してはなりません。つまり、同じ「くびき」を負ってはならないということです。
私たちは「世に生きる人」を憐れみます。彼らは「火の中に」いるので「つかみ出す」べき人々です。私たちは「世を愛する」ことはしません。それは「愛着」を持たない「執着」しないということです。
「世」は、私たちの本来の場所ではないからです。私たちの国籍は「天」にあります。そして、私たちは「世の人の知らない天のマナ」によって養われます。
それは「天国人」にしか与えられないものなのです。
もしも、私たちが「目に見えるパン」だけを追い求めるとすれば、おそらく「主イエス」を見失うでしょう。
多くの群衆が「満腹するため」にイエス様を捜しまわりました。彼らは「パン」を食べることはできましたが「永遠のいのち」を得たわけではありません。
勝利を得たペルガモンの聖徒に与えられるのは「キリストご自身」です。
彼らは、世の与えるものを拒否しました。
「糸一本、靴ひも一本、あなたの所有物からは取らない」とソドムの王に宣言したアブラハムの信仰に倣ったのです。
自分で「金銭を追い求める」のはやめなさい。「世から何かを引き出そう」とするのもやめなさい。
主が与えてくださいます。自分で「奪い取る」必要はありません。主が、ちょうど良いときに「揺すり入れあふれんばかり」に与えてくださいます。「世」から、はぎとって与えてくださることもおできになります。
私たちは「隠れたマナ」によって養われます。「神のことば」によって生かされます。「いのちのことば」である方こそ、私たちの「マナ」です。
「世」と癒着しない者には、「キリストと一つになる」という特権が与えられるのです。
「キリストと一つとなる」ことは「奥義」であるとパウロは言っています。
それは「隠されて」いるものです。しかし、勝利を得る者には「与えられる」のです。
隠れたマナとは、主イエスご自身のことです。ペルガモの教会は、この世に妥協した結果、主イエスを見失ってしまいました。教会が国家権力に守られるということは非常に危険なことなのです。勝利を得る者とは、主イエスご自身を得る者なのです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
私たちは「天からのマナ」であるイエス様によって豊かないのちを得ます。
主イエスと一つとなることだけを求め、主を愛し続けましょう。主に守られ生かされていることを決して忘れてはなりません。
新しい名前が記されている白い石
イエス様は、勝利を得る者に「白い石を与える」と言われました。
この「白い石」については、何を表しているのか定かではありません。
代表的な解釈が3つあります。
一つは、当時の異教徒が持っていた「魔よけの石」になぞらえたのだという解釈です。異教徒たちは「白い石」に何か文字を書いてお守りとして持っていたと言われています。
二つ目は、「有罪・無罪の石」という解釈です。当時、裁判の結果は「石の色」で告げられました。「有罪なら黒い石」で「無罪なら白い石」が渡されました。
三つ目は、「入場券としての石」という解釈です。競技大会の勝利者には「石」が与えられました。その「石」を持っている勝利者は、祝祭への入場が許可されたと言われています。所謂「通行許可書」もしくは「入場券」のようなものです。
いずれの解釈も確かではありませんが、個人的には「勝利者に与えられる通行許可書もしくは入場券」という解釈がよいのかなと思います。
しかし、断定はできませんね。
ただ、「隠されたマナ」がイエス様ご自身を表すように、「白い石」もまた、主イエスご自身を象徴しているのではないかと考えられます。
旧約聖書の預言では「石」がキリストを表すことがよくあります。
つまり「白い石」が与えられるということは、キリストを与えられることなのだろうと考えます。
イエス様は「道」です。またイエス様は「羊の門」です。そして「通行許可書」でもあると解釈しても、あながち間違いではないでしょう。
そして、その「通行許可書」には「新しい名」が記されているのだと私は思います。つまり「御国へのパスポート」のようなものです。
「新しい」とは原語では「カイノス」という語が使われています。これは「質的に新しい」という意味です。
私たちには「新しい名」が与えられます。
ヤコブに「イスラエル」という名前が与えられたように、まったく「性質の違う」つまり「新生した者にふさわしい」名前が与えられるのです。
それは「それを受ける者しか」知ることのできない名前です。
「名前」というのは、その人自身を表すものです。主は、あなたの「新しい名前」をすでに用意しておられます。
その名前は、あなたを表すのに最もふさわしい名前であると私は信じています。
主は、私たちの「完成した姿」を見ておられます。
私たちの毎日は、その「完成した姿」に近づく一日です。私たちは、日々、新しい名前に近づいているのです。
ですから、ただ「主イエス」を受けることを喜びとして歩みましょう。すべての良きものは「イエス・キリスト」にあるのです。
祝福を祈ります。