黙示録2:14
けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまづきの石を置かせた。
主が戦われるのは誰とか?
イエス様は、ペルガモンの教会の前に「鋭い両刃の剣を持つ方」として立っておられます。
ペルガモンには「サタンの王座」があったのだということは、前回に学びました。
イエス様が「両刃の剣」を持っておられることは、一見「頼もしいこと」のように思えます。主は、私たちを苦しめる敵たちと戦ってくださるのだと喜ばしく感じます。
ペルガモンの聖徒たちも、そう思ったかもしれません。
しかし、手紙を読み進めていきますと、どうも様子がおかしいようです。イエス様は「サタンの王座」を打つなどと言ってはおられません。
主は、ペルガモンの教会に「悔い改め」を迫っておられます。そして、悔い改めないのであれば「戦う」と言われるのです。
誰と「戦う」おつもりなのでしょう。
「わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う」
つまり、主は「ペルガモンの教会の中にいる『彼ら』と戦う」と言っておられるのです。
主の剣は、まず「教会」に向けられているということです。
ペルガモンの教会において、主が戦われる教えが「2つ」記されています。
「バラムの教え」と「ニコライ派の教え」です。二つは「同じ」とする解釈もありますが、今回の学びでは「別の教えである」という解釈を取りたいと思います。
今週は、黙示録2章14節の「バラムの教え」について学びます。次週に「ニコライ派の教え」を学びます。
さて、黙示録の七つの手紙で「教会史」が学べると、この学びを始めたときに申し上げました。
エペソの教会は「初代教会」の時代を見せてくれました。
スミルナの教会は「迫害下」にあった2世紀から3世紀の教会の姿を見せてくれました。
ペルガモンの教会はどうでしょう。
この教会は、ローマ帝国による迫害が終わった、四、五世紀の教会の姿を現していると言われます。迫害は下火になりましたが、この世に対する妥協が起こってきます。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
ペルガモンの教会は「キリスト教がローマの国教とされた時代」を表わしていると言われます。
三一三年、「キリスト教」はローマ帝国によって公認されました。ローマ皇帝コンスタンティヌスが「回心」して信者になったからです。しかし、彼が「クリスチャン」になったのは、戦争に勝つために「クリスチャンの神」の力を借りたかったからです。
ヨハネの黙示録 J・B カリー著 伝道出版社
コンスタンティヌス帝の改心が本物であったかどうかはさて置き、キリスト教がローマに公認されたことは事実です。
ついこの間まで「キリスト者である」ことは「死」を意味していました。
しかし、今は「キリストを信じています」と大声で叫んでも、何の危害も加えられないのです。それどころか「クリスチャンでない人」が迫害されるほど、立場が逆転してしまったのです。
この変革は、喜ばしいように見えますが、実際にはそうではありませんでした。教会は「昇格」しました。強い立場を得ました。しかし、イエス様への純粋な信仰を失いました。
「みことば」に多くの不純物が加えられました。それは、もはや「別の宗教」だと言えます。
もちろん「立派な信仰者」もいました。けれど、多くの人々が「名ばかりのキリスト者」であったことは否めません。
異端がキリスト教化され、異端の神殿はキリスト教会になり、異端の祭りはキリスト信者の祭りに融合し、異端の祭司はクリスチャンの祭司として聖職に滑り込むという大改革が起こったのですが、何が変わったのかといえば、異端から名がキリスト教に変わっただけで、この世と結婚し、大きく昇格された異端的「教会」の教えが広まったのでした。
一人で学べるキリストの啓示(ヨハネの黙示録) K・フルダ・伊藤著 文芸社
ペルガモンの教会は「妥協した教会」と呼ばれます。そして、また「この世と結婚した教会」などとも呼ばれます。「政治」と「宗教」が癒着した、もはや「キリストの教会」とは呼べない悲しい教会です。
イエス様は、このような教会の前に「鋭い両刃の剣を持つ方」として立たれます。
「この世」と「教会」を分離するために「両刃の剣」を振るわれるのです。
世をも世にあるものを愛してはなりません
「サタンの王座」は、迫害の激しいところにあるとは限りません。むしろ、比較的「穏やかなところ」にあるのではないかと個人的には思います。
2世紀から3世紀の間、多くの人が殉教しました。聖徒たちは、脅され、痛めつけられても、決して信仰を捨てませんでした。
そのような姿を見て、もしかするとサタンは戦法を変えたのかもしれません。本当の信仰者は「死」には屈しない、それならば「取り込んでしまうのはどうだろう」と考えたのかもしれません。
教会は、まんまとその策略にはまって「世と結婚」してしまったわけです。
ペルガモとは、結婚という意味です。πεπγμω(ペルガモン)は、περ(ペル)とγαμεω(ガメオー)であって、γαμεω(ガメオー)とは「結婚する」の意、さらに「結婚に彼女自身を与える」の意味がある。περ(ペル)は、強調を示す前置詞である。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
教会は「キリストの花嫁」でなければなりません。いつの時代であっても、どの国の教会であろうとも、真のキリストの教会は「キリストの花嫁」として、常に「花婿キリスト」だけを慕い続けなければなりません。
「世」が、信仰に反対せず「むしろ味方」のように見えたとしても、私たちは「世の保護」に頼ってはなりません。私たちを完全に守ることができるのは「主なる神」だけです。
「自分自身」を「世」に与えてはなりません。私たちは、迫害する者に「自分自身」を与えることはないでしょう。信仰に反対する「世」に対しては、断固として立ち向かう決意をするでしょう。
しかし、優しく接してくる「世」に対してはどうでしょう。優しい口調で「時々ならいいじゃないの」「みな同じことをしてますよ」などと言われたらどうでしょう。
味方であるように見える「世」に立ち向かうのは難しいものです。
しかし、聖書は、はっきりと言っています。
「世」を愛さないとは「世」に「自分自身」を与えないことです。私たちの「夫」はただ一人です。私は「すべて主のもの」です。
主は、ご自身のものを完全に守ることがお出来になります。主は、ご自身のものを完全に養うことがお出来になります。
私たちは「保護」と「供給」を「世」に頼る必要はないのです。「世」が揺れ動いても心配してはなりません。それは、今後、ますます揺れ動きます。しかし、主は「とこしえの岩」です。主に信頼する者は、決して恥を見ることはありません。主は、ご自身の聖徒を特別に扱ってくださいます。
終わりの時代、ますますサタンの策略は巧妙になります。信仰を失わせるための戦法は「迫害だけではない」ことを覚えていてください。
「サタンの王座のあるペルガモン」でも、殉教した聖徒がいました。アンティパスという聖徒について、イエス様は「確かな証人」と呼ばれます。
このアンティパスについて詳しいことは何もわかりません。とても残虐な殺され方をしたという伝承が残っているだけです。
ただ彼が「確かな証人」であったことは明らかです。「確かな」とは「信頼できる」という意味です。
主から「信頼できる」と思われる聖徒こそ幸いです。
「信頼できる」と思われる聖徒になりたいと私は思います。いつの日か、イエス様が戻って来られるその日まで、主だけに忠実でありたいと願います。
たとえ「サタンの王座のあるところ」に住んでいたとしても、イエス様から目を離さないことです。
バラムの教えとは「世との癒着」です
イエス様はペルガモンの教会に対して「少しばかり責めるべきことがある」と言われました。
その責めるべきこととは、教会の中に「バラムの教えを守る者たちがいる」ということです。
バラムは、イスラエルを「呪う」ために、モアブの王バラクに雇われた人です。(詳細は、民数記22章から24章を読んでください)
バラムは、報酬が欲しかったのでイスラエルを呪おうとしましたができませんでした。主は、呪いを祝福に変えられました。バラムは、イスラエルを呪うどころか、かえって祝福を宣言したのです。
その後、なぜか、イスラエルの民は、モアブ人の娘たちと不品行な関係を持つようになりました。そして、その娘たちがイスラエルに偶像を持ち込んだのです。イスラエルは、モアブの娘たちの神々を拝んだのです。
荒野の旅の途中でした。主の臨在の箱を持ち運んでいる民が、主を見失って偶像にひれ伏したのです。おそらく、淫らな行いは「儀式」に含まれていたのでしょう。彼らは「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」に呑み込まれてしまったのです。
神を「愛さない」わけではない、ただ「世のもの」が少し欲しくなっただけなのです。「マナ」ばかり食べていたので、偶像にささげた「ごちそう」を食べたくなってしまったのです。不品行な行いに吸い寄せられて「偶像を礼拝する儀式」に参加してしまったのです。
主は、激しく怒られました。この時、主の罰で死んだ者は「二万四千人」であったと記されています。
これは「バラムの事件」と呼ばれています。つまり、この事件の背後に「バラム」がいたのです。イスラエルの堕落の背後には「そそのかす者」がいたのです。
イエス様が「バラム事件」の裏事情を明らかにしてくださいました。
バラムがモアブの王バラクに教えたのです。「呪うことには失敗したけれど、イスラエルを滅ぼす方法は他にもありますよ」と言ったのでしょう。彼は、イスラエルの人々よりも「神のみこころ」を知っていたように思えます。バラムは、イスラエルをつまずかせ、主なる神が自ら「神罰」を下し、イスラエルを滅ぼすように仕向けたのです。
サタンは、私たちのだれよりも「聖書」を知っています。敵は自由自在に聖句を操れます。そして、どうすれば「神が心を痛めるのか」を知っているのです。
サタンは、誰かをそそのかして「つまずきの石」を置かせるのです。そして、私たちにもささやくのです。
「こんなチャンスはもう二度とないよ」
「少しぐらいなら大丈夫」
「これは罪ではないよ。効率的な方法だ」
どんな風にささやくかは分かりませんが、その言葉が「魅力的に響く」ことは確かです。
アンティパスが殺されたときでさえ、信仰を捨てなかったペルガモンの教会ですが、内部に「世を愛する心」を抱えていました。「バラムの教え」から離れられない人々がいました。
バラムは、世俗主義をイスラエルに持ち込もうとしたもので、まさにバラムの教えとは、世俗主義への妥協のことです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
「バラムの教え」とは「世俗主義」だと言われます。それは「信仰によって生きる」こととは「正反対の生き方」です。
バラムは、敬虔さを装いながら神に対する不従順と悪を助成する者の代表なのである。
ヨハネの黙示録 メリル・C・テニイ著 いのちのことば社
バラムは「神に従うふり」をしました。そうして、神の「ことば」を語りました。
バラムは「主の目にかなう」ことを見つけました。そして、主のことばを「語る」ためにイスラエルを見ました。主の霊がバラムに臨みました。そして、バラムは預言を語ったのです。
霊的な賜物が「救いの証拠」にはならない良い例ですね。バラムは、主のことばを語ったにも関わらず「神に対する不従順と悪を助成する者の代表」となったのです。
金銭を追い求めたのかもしれません。それは「あらゆる悪の根」です。世の中に対して私たちは「金銭」で縛られているようにも思います。「世」に反対したら「食べてはいけない」と思っている人は多いのではないでしょうか。
「バラムの教えを頑なに守る者たち」は、人々を「罵倒したり」「追い出したり」しません。しかし、彼らは着実に「人々を滅びに導き」ます。
神ではなく「快楽とくびきをともにする」ように仕向けます。神ではなく「金銭とくびきをともにする」ように導きます。
終わりの日、多くの聖徒が「自分を愛する者」となっているでしょう。そして、そのような人は簡単に「バラムの教え」を自分のものとするでしょう。
見かけは敬虔であっても、その実を否定する者たちにはなりません
聖書は言います。
終わりのとき、人々は「世俗主義」になります。それは「見えるところに従って歩む」ということです。本当の信仰者とは「見えないもの」を確信しながら歩む人です。
もし、私たちが「見えるもの」に振り回されて生きているならば、本物の「信仰者」ではありません。それは「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者」になる可能性がある生き方です。
バラムは「敬虔」さえも、自分の私利私欲のために用いました。
私たちは「信仰生活」を自分のために「利用」してはなりません。それは、なかなか「表面化」しにくい罪です。「世」と同じくびきを負うならば、私たちは何もかもを「自分のため」に用いるようになるでしょう。
アナニヤとサッピラのように「献げる」という行為を評判のために利用してはなりません。「見た目」にこだわってはなりません。
「見えるところ」で「祝福」は量れません。
天からの「マナ」を侮ってはなりません。世の中が提供する「ごちそう」は魅力的に見えるでしょうか?
あなたが世の中に「魅力」を感じているのならば、おそらくサタンはささやいて来るでしょう。
「いいんじゃないの。クリスチャンだって楽しまなきゃ。楽しむことは罪じゃないでしょう」
「富を求めなさいよ。聖徒は特別だってことを証明してみせようよ」
「不品行っていうけど、どこまでがそうなの。ここまでは大丈夫だよ」
「知識を求めることの何がいけないの。もっと賢くなったら、もっと用いられるよ」
ああ、サタンは本当に「鬱陶しい」ですね。もっともらしく聞こえますが、それらはすべて「偽り」です。サタンは「偽りの父」なのです。彼は「詐欺師」です。
「この世の君」が提供してくるすべてのものは「良いもの」「魅力的なもの」に見えても、すべて「手かせ足かせ」がついていることを忘れてはなりません。それは「つまずきの石」であり、それは「罠」なのです。
覚えてください。
主は「何か」を差し出されません。「魅力的なもの」で誘惑されません。
神は、常に「イエスご自身」を差し出されます。
イエス様は「私のすべて」となられました。
私たちは「知恵」を求めます。しかしそれは「世の知恵」ではありません。私たちは「主イエス」を求めます。イエス様こそ「知恵」だからです。
主の御前に「楽しみ」があります。「喜び」があります。イエス様ご自身こそ「いのち」そのものです。イエス様に「すべて」があります。彼こそ「天からのマナ」なのです。(これは次回に詳しく学びます)
この世の君が差し出すものは「罪」だけではありません。敵が差し出すのは「あなたの目をほんの少しキリストから逸らせるもの」です。
「両刃の剣を持つ方」を見上げましょう。
そして、今、心を差し出すのです。一緒に心から祈りましょう。
「主よ、私の心の思いとはかりごとを見分けてください。世と癒着している部分を切り離してください。私はすべて主のものです。」
祝福を祈ります。