【黙示録17章9節~14節】知恵のある心が必要です

再臨を待つ

黙示録17:9
ここに、知恵のある考え方が必要です。七つの頭とは、この女が座している七つの山で、それは七人の王たちのことです。

知恵のある考え方が必要です

「ここに、知恵のある考え方が必要です」と御使いは言います。

つまり「普通」に考えるだけでは分からないと言うことですね。

ここで「七つの山」とは「ローマ」のことであると前回学びました。

この「七つの山」をローマ帝国の検閲回避のための「カモフラージュ」とする説は、歴史的背景を考慮した解釈として広く支持されています。

つまり、直接「ローマは滅びる」などと書けば、どんな目に会うか分からないので「含みをもたせた」と言うことです。当時、一般的に「七つの丘」といえば「ローマ」であると知れ渡っていたのは事実ですが、具体的な名前が記されていない限り「法律的にはセーフ」だったということらしいです。

まあ、しかし、個人的には、使徒ヨハネが「迫害を避けるため」に隠語を使用したとは思いません。一般的に知れ渡っている「呼び名」を隠語にするのは不自然だし、そもそも、ヨハネが迫害を避けるかしらと思うのです。

イエス様は、スミルナの教会に言われました。

黙示録2:10
あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

主は「死に至るまで忠実でありなさい」と言われたのです。

ゆえに「迫害をさけるため」に「七つの山」という言葉を御使いに授けられたとは考えにくいと私は思うのです。

まあ、もちろん「不必要な衝突を避けるため」にカモフラージュされたのかもしれませんが…。

いずれにせよ、私が言いたいのは「七つの山」を解読するために「知恵のある考え方」は必要ないだろうと言うことです。

知識さえあれば誰にでも理解できることに「知恵のある考え方」は不必要です。

それでは何のために「知恵のある考え方」が必要なのでしょう?

そもそも「知恵のある考え方」とは何のことでしょう?

「知恵のある考え方」とは「知恵を持った心」と言う意味です。

つまり「知恵」ではなく「心」が主体なのです。ただ「知恵」があるだけでは「謎解き」に終わってしまいます。ここで御使いは「謎を解け」と言っているのではありません。「知恵を持った心」が必要だと言っているのです。

黙示録は「知識」や「知恵」だけでは理解できません。人の理解を超えたことが記されているからです。そこには「見える世界」で求めるような「解答」はありません。つまり、いくら考えても「分かることはできない」と言うことです。

イエス様はニコデモに言われました。

ヨハネ3:10
イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。

ニコデモには「新しく生まれなければならない」というイエス様のことばの意味が分かりませんでした。

イスラエルの教師であっても、サンヘドリンのメンバーであっても「理解することができなかった」のです。

イエス様のことばを理解するためには「知恵」も「知識」も「経験」も役には立ちません。

地上で「最も賢い人」でも、イエス様のことばを理解することはできないのです。

ヨハネ3:12
わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

ニコデモは、イエス様がメシアなのかどうか「確認」しに来ていました。つまり「値踏み」していたわけです。だから「理解しよう」としました。彼は「分かりたかった」のです。

しかし、イエス様は「理解」させるために話されていたのではありません。イエス様は「信仰」について話しておられたのです。主は常に「あなたは、わたしを信じるか」と問うておられるのです。

私たちは、多くの場合、主の言われることを理解することができません。

私たちは、多くの場合、「神のことを思わないで、人のことを思っている」からです。

ヨハネ3:14
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

イスラエルの民が罪を犯し、主が「燃える蛇」を送られたとき、モーセは青銅のヘビを掲げました。それを「仰ぎ見た者」は癒されたのです。そして、仰ぎ見なかった者は滅びました。

それは決断です。「なぜ青銅なんだ?」「なぜヘビなんだ?」「なぜ仰ぎ見たら救われるのだ?」という疑問を追求する時間はありませんでした。「解答」を得る前に滅びてしまったでしょう。

「信じて仰ぎ見れば救われる」のです。まずは「信じること」です。そうすれば「分かる」のです。

私たちは「キリストの十字架」を仰ぎ見ます。十字架のキリストを信じます。そして、そうするならば「分かる」のです。

子羊とともにいなさい

イエス様のことばは「地上の賢者」にも理解できませんでした。

マタイ11:25
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵のある者や賢い者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。

「これらのこと」とは何でしょう。

イエス様は、その前の説において「悔い改めなかった町々」について語っておられます。イエス様が地上で「力あるわざ」を行なわれたのに、そして、彼らは直接それを見たのに「悔い改めなかった」のです。それから「さばきの日」について語られました。

「知恵のある者」「賢い者」たちには、この「さばき」が理解できないのです。彼らには「無理」でした。なぜなら、御父が「隠された」からです。

しかし「幼子」たちには現わしてくださいました。

愛する兄弟姉妹。

ここに「鍵」があります。私たちが黙示録を読み解く「鍵」です。また、人生における謎を解き明かす「鍵」です。

まず、啓示とは「現わされるもの」です。それは「自力で説き明かせるもの」ではありません。

そして、それは「知恵ある者や賢い者には隠され」ます。それは「幼子」たちに現わされるのです。

「賢者」たちは、コラジンやベツサイダは、ツロやシドンより「何が悪かったのだろう」と議論します。

しかし「幼子」たちは、「さばきの日」が来るのだということを、ただ信じるのです。そして恐れを抱きます。ゆえに神に身を避けるようになるのです。

黙示録17:10~11
五人はすでに倒れましたが、一人は今いて、もう一人はまだ来ていません。彼が来れば、しばらくとどまるはずです。また昔はいたが今はいないあの獣は八番目の王ですが、七人のうちの一人でもあり、滅びることになります。

この「七人の王たち」は、前回学んだ通り「ローマ皇帝たち」かもしれません。また「ダニエル書に出て来る世界帝国」かもしれません。八番目の獣は「反キリスト」のことなのでしょう。

いずれにせよ、最も注目すべきことは、反キリストたちは最後には「滅びる」と言うことです。

黙示録17:12
あなたが見た十本の角は十人の王たちです。彼らはまだ王権を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王としての権威を受けます。

この十人は「ネブカドネッアルの夢」に出て来た巨大な像の「足の指」の部分であると思われます。一部は強く一部は弱い集団です。彼らは、獣つまり反キリストとともに王権を受けます。

黙示録17:13
これらの王たちは一つ思いとなり、自分たちの力と権威をその獣に委ねます。

これらの王たちは「利害」が一致するのでしょう。彼らは「一つ思い」となり、獣にすべてを委ねます。しかし、ダニエル書によると「団結」しているわけでもないようです。それは、彼らが互いに「自分のことを一番」に考えているからです。彼らの「一つ思い」の中に「愛」は欠片もありません。

黙示録17:14
彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」

ここに「知恵のある考え方」が必要です。

勝利するのは「子羊」です。

「世の王たち」は、力と権威を獣に委ねます。獣は、すべての力・権威を用いて子羊と戦います。

しかし、まったく相手にならないのです。子羊はいとも簡単に、彼らに打ち勝ちます。

「世」は最後まで神の知恵を悟ることはできません。

Ⅰコリント2:8
この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

十字架の知恵は、滅びに至る人には「愚か」なのです。

この世の支配者たちは過ぎ去ります。

この世の権力者たちも過ぎ去ります。

権力を誇る人々も、名声を誇る人々も、富を誇る人々も、善行を誇る人々も、みな過ぎ去るのです。

イザヤ40:6b~8
人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。

すべての草がしおれ、花が散るように、人の一生も必ず終わります。それは、儚いものです。

世の人が、どれほどの権勢を誇ろうとも、それは一瞬で消え去る霧のようなものです。

しかし、主のみことばは永遠に立ちます。

そして、主のみことばによって生かされている者も永遠に生きるのです。

黙示録17:14
彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」

子羊とともにいなさい。

あなたは救われていますか?

主の十字架を見上げて救われましたか?

あなたのうちには「御国の希望と永遠のいのちの確信」がありますか?

あなたは「ことばに尽くせない栄えに満ちた喜び」にあふれていますか?

それならば、あなたには「キリストの心」があるのです。

あなたは「召された者」です。

あなたは「召されて選ばれた忠実な者」として、愛する子羊のそばに居続けなさい。

キリストの心があるのです

御使いが「知恵のある考え方が必要だ」と言ったことを覚えていてください。

私は、ともすると「知恵」や「知識」で「物事」を解き明かそうとしてしまいます。

しかし、そうするとペテロのように叱責されることになります。

マタイ16:23
しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。」

「神のことを思わないで、人のことを思う」ことは、簡単に言えば「高慢」なのです。

ペテロは、年上の弟子として「イエス様をいさめた」のです。彼には「その先」は見えていませんでした。

ペテロの心は「親切心」で満ちていましたし「良かれ」と思って助言したのです。

人の知恵は「浅はか」です。高慢は人の目を暗くし「見えなく」します。高慢は欺瞞を隠れ蓑にして働きます。高慢な人は「自分はよいことをしている」と思っているのです。

けれど、どれだけ巧妙に隠していても、どれだけ「良い事」のように見せかけても「高慢」の背後には必ず悪しき者がいるのです。

愛する兄弟姉妹。

「知恵のある考え方」をしましょう。「知恵を持った心」で生きましょう。

「知恵」とはもちろん「世の知恵」ではありません。聖徒にとって「知恵」とは、いつでも「キリスト」のことです。

Ⅰコリント1:30
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち義と聖と贖いになられました。

キリストこそ「神からの知恵」です。

つまり「知恵をもった心」とは「キリストをもった心」のことです。

あなたには「キリストの心」があるのです。

「キリストの心」ですべてを見るならば、物事の本質が明らかにされます。

「キリストの心」を持つ人は、キリストから学びます。

「キリストの心」を持つ人は、イエス様のように柔和で謙遜に生きます。

デレク・プリンスは、私の最も尊敬する聖書教師です。もと哲学者なので知的で論理的です。常に理性的な話し方をされます。

けれど、主からの導きを求めるときには、地面に這いつくばると言います。堅く冷たい床に「ひれ伏す」のではなく「這いつくばる」のだと彼は言います。

それは、テクニックではありません。そうすれば「答えを得られる」という経験でもありません。

そこには「恵みは低い所に流れる」という信仰があるだけです。自分でも「恰好が悪い」ことは承知しています。彼の理性は、這いつくばることに抵抗を覚えます。しかし、それでも「最も低い」と思える場所で、ただ「主のことば」が与えられるのを待っているのです。

主の啓示が明らかにされるために「世の知恵」は不必要です。自分の「思い」「経験」も必要ありません、

ただ「信仰」と「へりくだり」だけがあればよいのです。

黙示録を学ぶときに最も必要なことは「信仰」と「へりくだり」です。

神のことばを「まず信じること」です。理屈を考え、答えを明らかにしてやろうという態度はふさわしくありません。自分の思いや考え、世間の常識は置いて、まず「そのまま」を信じることです。

それから、キリストの心で「物と事」を見るのです。そこには、主の啓示を待ち望む「へりくだり」が必要です。

そうすれば、きっと、今は、分からないことも分かるようになると私は信じているのです。

そして、それは、人生における「謎」についても同じです。

今、目の前に起こっていることがどうであれ、ただ「主イエスを信じる」ことです。

サタンが「なぜ、こんな悪いことが起こったのだろうね」とささやく声は退けなさい。

主は、そこにおられます。主は、決してあなたを見放されません。

状況ではなく、感情ではなく、ただ「主イエスご自身」を信じなさい。

「キリストの心」ですべてを見ることができますように。

サタンは、決して「へりくだる」ことはありません。

ですから、私たちは「へりくだる」のです。

この世の君には、絶対に理解できないことがあるのです。

それは、ただ主に御前にひれ伏す者だけに開かれる啓示なのです。

シャロームを祈ります