2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録14章6節~7節】神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。

再臨を待つ

黙示録14:7
彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海の水の源を創造した方を礼拝せよ。」

御使いが永遠の福音を携えて

さて前回、14章6節まで進みました。けれど「永遠の福音」についての考察を残したままでした。

黙示録14:6
また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

使徒ヨハネは、中天を飛ぶ御使いを見ました。

そして、その御使いは「地に住む人々」に「永遠の福音」を宣べ伝えていました。

六節が大切です。~中略~
もう一人の御使いが奇跡的に福音宣教を完成させるのです。神の裁きも始まります。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション

私もこの「六節」が大切だと思います。

イエス様は言われました。

マタイ24:14
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証しされ、それから終わりが来ます。

私たちは、生かされている間、一生懸命に世界宣教に励む必要があります。

自分が宣教師となれなくても、世界中に遣わされている宣教師たちのために祈ることができます。

私たちは「全世界に福音が宣べ伝えられる」ために励みます。しかし、おそらく、再臨の日までに全世界をめぐり尽くすことはできないだろうと思うのです。

マタイ10:23
一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。

弟子たちが、イスラエルの町々を巡り尽くすことができないように、私たちも「全世界」を巡り尽くすことはできないのかもしれません。

けれど「御国の福音」は、必ず「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証し」されます。そうでなければ「世の終わり」は来ないのです。

大患難の時、何らかの「奇跡的なこと」が起こるのだろうと私は思います。そして、そのことに御使いが大きく関わっているのでしょう。

御使いが携えているのは「永遠の福音」です。

Ⅰペテロ1:20
キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりのときに、あなたがたのために現れてくださいました。

世界の基が据えられる前から「キリスト」は知られていたのです。

このことを考えるとき、私は、自分は「十字架の計画」について、まだまだ何も知らないのだなと思わされます。私たちの主イエスは「永遠にほふられた子羊」なのです。

御使いが携えている「永遠の福音」は、もちろん「御子イエス」に関することです。それは「世界の基が据えられる前」からの福音であり、永遠の先に及ぶ福音です。

そして、恐らく、その中心メッセージは「恵みの知らせ」の続きの部分なのではないかと思います。

イエス様は、ご自身の使命をイザヤ書から引用されました。

ルカ4:18~19
主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。

イエス様は、この地に「主の恵み」を告げるために来られました。

しかし、イザヤ書には、まだ続きがあるのです。

イザヤ61:2
主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

「永遠の福音」は「恵みの年と復讐の日」が告げ知らされることによって完成するのではないかと私は思います。おそらく、御使いの宣べ伝えるメッセージは「復讐の日」が来るというものでしょう。

黙示録14:7
彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海の水の源を創造した方を礼拝せよ。」

「彼」つまり「永遠の福音を携えた御使い」は大声で言います。

「神のさばきの時が来た」

全世界の人々は「神のさばきの時」が来たことを知ります。それが、どのような方法でかは定かではありません。しかし、確実に「あらゆる国民、部族、言語、民族」に宣べ伝えられるでしょう。

これは、あくまで個人的な意見ですが…

この大患難時代に「ニネベ」で起こった覚醒が再び起こるのではないかと私は思っているのです。(少し願望も入っていますが)

ヨナは、ニネベの人々に「さばきのメッセージ」を宣べ伝えました。

ヨナ3:4
ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」

この「さばきのメッセージ」を聞いて、ニネベの人々は悔い改めます。

同じように「復讐の日」のメッセージを聞いて、悔い改める人々が起こるであろうと私は信じます。

これは、おそらく地に住む人々に与えられる「最後のチャンス」ではないかと思います。この先、この地において「福音が宣べ伝えられる」ことはもうないでしょう。

御使いの宣べ伝える「永遠の福音」を聞いて信じる人々は幸いです。しかし、それは同時に「この地上でのいのちの終わり」を意味します。

黙示録14:13
また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」

想像を絶するような時代が来ることは確かです。

この地において「生きるか死ぬか」は、本当には大した問題ではないのだと聖書は言います。

大患難時代には、多くの人がこの地でのいのちを失います。

「永遠の福音」を信じた人々の多くは、獣たちに「この地におけるいのち」を奪われるでしょう。

しかし、信じなかった人々の多くも、何らかの形で命を落とすことになるのです。

いずれにせよ、本当に多くの人々が「この地でのいのち」を失います。みなが「死者」と呼ばれるのです。

大切なのは「主にある死者」と呼ばれるかどうかです。

幸いなのは「主にある死者」なのです。

「この地でのいのち」がすべてではないと確信している人は幸いです。

愛する兄弟姉妹。

私たちのイエス様は「恵みの年」を告げ知らせてくださいました。私たちは「恵みの年」に生かされています。

しかし、それでも、もちろん誰にでも「この地におけるいのち」を終える日が来ます。

あなたは「主にある者」ですか?

あなたが「主にある」ことを私は喜びます。

「主にある」ことが、どれほど重要なことか黙示録を学ぶと痛感しますね。

「主にある」ことを決して軽視してはなりません。決して決して「主にある」ことをやめてはなりません。ただそれだけを一心につかんで離さないでいましょう。

あなたが「主にある」ならば幸いです。あなたは永遠に生きます。

世界よ、御前にひれ伏せと言いたいのです

さて、もう一度、7節を読みましょう。

黙示録14:7
彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海の水の源を創造した方を礼拝せよ。」

「復讐の日」が告げ知らされます。「神のさばき」が告げられます。

人々は「どうするべき」なのでしょう?

「神のさばき」が告げられたとき、人々がするべきことはただ一つ「礼拝」です。神を恐れて、御前にひれ伏すことです。

結局のところ、人がなすべき「最善」なこととは「礼拝」なのです。

伝道者12:12
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

御使いは言います。

「天と地と海の水の源を創造した方を礼拝せよ」

すべての人は「創造主」の御前にひれ伏すべきなのです。

けれど、この地に住む人々は「創造主」の御前にひれ伏しませんでした。

それは、大患難時代の人々だけではなく、全時代の全世界の人々も同じです。

世界はずっと「創造主」を否定し、拒否し続けました。創世記を「おとぎ話」のように扱い、神の御業を鼻で笑いながら世界は回って来たのです。

ローマ1:22~23
彼らは自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

大患難時代の「苦難」を学ぶと、誰もが思うものです。

「神は愛なのになぜ…」と。

ある人は言います。

「サタンが暴れ回っているのだ。この苦難に神は関係ない」と。

ああ、そう思いたい気持ちは理解できます。しかし、御使いははっきりと言っています。

「神のさばきの時が来た」と。

これは、間違いなく「神のさばき」です。私たちの主なる神が「関与」しておられます。

覚えてください。

これは「全世界の偶像礼拝に対するさばき」です。

「神を神として認めない罪」に対するさばきです。「創造主の栄光」を造られたものに替えてしまったことへのさばきです。これは「偶像礼拝へのさばき」なのです。

神は侮られるような方ではありません。主は、恵み豊かで忍耐深くあられます。しかし、いつまでも見過ごしにしてはおかれません。全世界は、いつの日か「蒔いた種を刈り取る」ことになるのです。

エジプトにわざわいを下されたとき、主は言われました。

出エジプト12:12
その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。

エジプトに下されたわざわいは「エジプトのすべての神々に対するさばき」でした。つまり、エジプトの「偶像礼拝」に対するさばきです。

同じように、終わりの日の「大患難」は、これまで全世界が行ってきた「偶像礼拝」に対するさばきです。

この最後の「宣教」のときに、御使いは「永遠の福音」を人々に告げます。

それは実際には「創造主」にひれ伏すか「獣」にひれ伏すかという選択なのです。

私たちには何ができるでしょう

愛する兄弟姉妹。

私たちには何ができるでしょう。私たちはどうすればいいのでしょう。

私たちが、今、この時代にあってできることは「二つ」です。

一つは、まず「自分のうちにある偶像を手離すこと」です。

あなたは、完全に「偶像」と手を切る必要があります。形のあるものはもちろん、心の中で「神の座」を占めているすべてのものを引きずり降ろす必要があります。

今、必要なのは「神と心を一つ」にする聖徒です。

Ⅱ歴代誌16:9a
主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださるのです。

主は「御力を現したい」と願っておられます。ゆえに「その心がご自分と全く一つになっている人」を捜しておられるのです。

主の御力の現れを見たいと思いませんか。

主は、あなたを通して「御力を現わす」ことがお出来になります。あなたの心が「主と全く一つ」であるならば、今すぐにでも「御力」は現わされます。

私たちは、すべての偶像を忌み嫌いましょう。私たちは、自分の心から「偶像」を完全に追放し、主と「一つ心」となることを切に求めましょう。そうすれば、全世界に「神の御力」が現わされると私は信じます。

二つ目のことは「願い求めること」です。

私たちは、ダニエルのように祈る必要があります。(ダニエル書9章を参照してください)

ダニエル9:13
このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているとおりに、私たちの上に下りました。しかし私たちは、不義から立ち返って、あなたの真理によってさとくなれるように、自分たちの神、主に願うこともありませんでした。

イスラエルに下された「わざわい」は、モーセの律法に記されていたことでした。しかし、イスラエルの人々は、そのわざわいを経験しても「不義から立ち返って、さとくなれるように」と願い求めることをしませんでした。

私たちは黙示録を学びます。そこに「必ず起こること」が記されています。

私たちに「必ず起こること」として啓示が開かれているのは「あきらめるため」ではありません。

「いや、必ず起こるなら、どうしようもないし、やり過ごすしかない」と言うためではありません。

すべて啓示が開かれるときには「祈る」必要があるのです。

「不義から立ち返って、あなたの真理によってさとくなれるように」と私たちは祈り求めなければなりません。

私たちの神に願うために「啓示が開かれる」のです。

私たちは祈りましょう。

この国が「不義から立ち返るように」そして「真理によってさとくなれる」ように。

聖霊様は、まさにそのために来られたのです。

ヨハネ16:8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

聖霊様が「罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかに」してくださるように祈り求めましょう。

主は、今、ご自分の心を啓示してくださっています。

私たちは、黙示録の啓示を学ぶとき、その背後にある「主の心」を学んでいるのです。

聖霊様が、その「心」を明らかにしてくださいますように。

あなたの心の目がはっきりと見えるようになりますように。

私たちは「主の心」を求めましょう。

すべての偶像を忌み嫌い、ただ「主だけ」を慕い求めましょう。

あなたを通して「主の御力」が現わされますように。

私たちが「主の心」を祈り続けることができますように。

シャロームを祈ります。