黙示録13:8
地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書に名が記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。
竜は獣に自分の権威を与えます
海から一頭の獣が上って来るのを、使徒ヨハネは見ました。
「海から上ってきた獣」は、大きな赤い竜と同じような姿を持っています。
この獣に、竜の権威が与えられている証しでしょう。獣は、竜の思いを地上で成し遂げるのです。ある意味において竜と獣は「一体」であると言えます。
この十本の角と七つの頭については、黙示録17章で詳しく学びます。ですから、今回は先に進みましょう。
使徒ヨハネが見た「海から上ってくる獣」は、ダニエルが見た「恐ろしく不気味な第四の獣」のことです。
ダニエルは四頭の獣を見ました。
獅子のような獣、熊のような獣、豹のような獣、そして、恐ろしく不気味な獣です。
「第四の獣」について、ダニエルはその姿を描写していません。ただ「恐ろしく不気味な獣」と記しているだけです。恐らく、ダニエルの見たことのない獣で、どんな獣にも例えられないと思ったのでしょう。
使徒ヨハネも、同じ獣を見たのだと思います。そして、理解は出来ないけれど「見たまま」を記したのでしょう。
これは、今までかつて存在したことのない生き物です。
「豹に似ていて、足は熊のよう、口は獅子のよう」な獣を想像することは難しいですね。
終わりの時に現れる「世界帝国」は、今だかつて存在したことのない国なのです。
しかし、今まで存在した世界帝国を思わせる国でもあります。
豹(ギリシャ)の素早さと、熊(メド・ペルシャ)のどう猛さを持ち、獅子(バビロン)のような権力を持つ国なのだろうと考えられます。
この「恐ろしく不気味な獣」とは、ローマ帝国のことであるとダニエル書で学びましたね。
「海から上ってくる獣」は、ローマ帝国を継承した世界帝国であり、反キリストその人です。
竜は、この獣に「自分の力と自分の王座と大きな権威」を与えるのです。
獣と呼ばれる反キリストは、全世界を支配する王となります。「王」と呼ばれるかは分かりませんが、実際、世界は彼の支配下に置かれます。
すべての権威を与えられた獣
全世界が獣に従い、竜が拝まれるようになる過程が黙示録には記されています。竜は、どこまでもイエス様の真似をしたいようです。
さて、この頭のうちの一つとは何のことでしょう。
黙示録17章でまた学びますが、頭とは「王」のことを表します。
七つの頭とは、それぞれ「七人の王」であることが、この箇所から分かります。
この頭のうちの一つが「打たれて死んだと思われた」のです。しかし、死んではいません。「致命的な傷」を負いますが、それは治るのです。
その「致命的な傷」が何であるのかは分かりません。「打たれて死んだと思われた」のですから、病気ではなさそうです。もしかすると、暗殺されそうになるのかもしれませんね。何らかの戦いで負傷するのかもしれません。
とにかく、全世界の人々が「獣が致命傷を負った」ことを知るのです。このニュースは、瞬く間に全世界の人々の関心事になります。みなが、獣のことを考えるでしょう。みなが、獣に注目するのです。そして、それがサタンの狙いです。
獣は「瀕死」の状態から劇的に回復します。この回復の背後にサタンがいるのは確実でしょう。
サタンは、復活の主イエスの真似をします。しかし、サタンには「いのち」を与える力はありません。復活は「聖霊のみわざ」だからです。「劇的な回復」が精一杯なのです。
しかし、世の人々は、この「劇的な回復」に心を奪われます。
もう一度、黙示録13章3節を読みましょう。
「全地は驚いてその獣に従い」ます。そして「竜を拝む」のです。
全世界の人々が「竜」が獣に権威を与えたことを知っているようです。サタンは、どのような形でかは分かりませんが、隠れたところではなく「表舞台」に出て来るのです。
世界は、この獣を「絶賛」します。
「だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか」と言うのです。
これは、恐らく患難時代の後半の始めに起こるのではないかと思えます。
獣と呼ばれる「反キリスト」は、最初から「冒涜的」であったわけではありません。心のうちは分かりませんが、少なくとも表面上はそうです。
最後の「一週」つまり「七年間」のはじめに、反キリストは「多くの者と堅い契約」を結びます。これは、イスラエル人との間に結ぶ契約です。
しかし、その「半周の後」つまり「三年半」が過ぎたころ、彼は「豹変」します。その契約を一方的に破棄し、神の神殿を荒らし、冒涜のかぎりを尽くすのです。
「致命的な傷」からの回復が、その「豹変」のきっかけになるのだろうと考えられます。獣の回復は、確実にサタンの力によるものです。何が起こるのかは分かりませんが、このときから、獣すなわち「反キリスト」は、全く「竜と一つ」となるのではないでしょうか。
竜と反キリストそして、後で登場する偽預言者を合わせて「汚れた三位一体」と呼ぶ注解者もいます。確かに、彼らは「その心において一つ」であることは間違いありません。
竜は、獣である反キリストに「自分のすべて」を与えます。権威、力、王座を与えます。そして、反キリストによって「全世界から礼拝」を受けるようになります。
世界は「死んでよみがえられた主イエス」を受け入れませんでしたが、瀕死の状態から回復した反キリストは受け入れるのです。
子羊のいのちの書に名が記されている者は
竜であるサタンは、天にのぼって「いと高き方」のようになろうとしたのに、今は「地に落とされ」もはや決して「天にのぼる」ことはできません。
しかし、サタンの欲望は、地に落とされなお、燃えあがるようです。サタンは、この地において全世界からの「礼拝」を受けることを望むのです。
サタンと「その心を一つ」とする反キリストは「自分を高く上げ」「自分こそ神である」と宣言します。
獣である反キリストは、この地において冒涜のかぎりを尽くすようになります。
大患難時代の「四十二か月間」つまり「三年半」は、獣の時代です。その間、獣は「活動を許される」のです。
それは、聖徒にとっては辛い苦難の時代です。
獣が冒涜するのは「聖なる神に属するもの」です。
それは、サタンが「聖なる神に属するもの」を憎んでいるからです。サタンは、神に属する何もかもを憎んでいます。それは「地上に存在するもの」であっても「天に存在するもの」であっても同じです。天に召された聖徒のことも、サタンは憎んでいます。
反キリストは「天に住む者たち」をも冒涜するのです。
サタンの憎しみは「世界中」に蔓延していきます。地に住む人々で、獣の支配下に置かれる者は「聖なる神に属するもの」を嫌うようになるだろうと私は思います。
獣は「全世界を支配する者」として、公に「聖徒」を打ち叩きます。獣が、聖徒を追いつめることに、世の人々は賛同すると思われます。
地に住む者たちは、獣である反キリストを「一人の政治家」以上の者、つまり「拝む対象」として受け入れるようになります。獣は、地に住む人々を自分の「信奉者」にしてしまいます。
しかし、地に住む者たちの中には「獣を拝まない者」もいます。屠られた子羊のいのちの書に名が記されている者は、聖なる神以外にひれ伏すことは決してありません。
愛する兄弟姉妹。
あなたが「礼拝者」であることは、特別なことであると覚えてください。
あなたの名は「子羊のいのちの書」に記されているのです。そこに名が記されていない者は、聖なる神を礼拝することはできません。
確かに、今も、サタンは「聖なる神に属するもの」を憎んでいます。ですから、あなたを「真の礼拝」から遠ざけようとするのです。
あなたが、御前にひれ伏すことができるのは「世界の基が据えられたときから」の恵みです。
主は、あなたを「選んで」くださいました。あなたは「御前に」ひれ伏すために選ばれたのです。
「聖なる、傷のないもの」でなければ御前に出ることはできません。
主は、子羊の血によって、あなたを「聖なる、傷のないもの」にしてくださいました。
私たちは「御前に」ひれ伏すようにと「世界の基が据えられる前から選ばれた」のです。
もし、私たちが「聖なる神」を礼拝しないなら、他のものを礼拝することになります。サタンは、常に「神以外のもの」を礼拝させようとしています。あなたの目を「聖なる神」から離そうと画策しているのです。
神の恵みを受けた「特別な存在」である聖徒を、サタンは憎んでいます。あなたは、自分の「選びの特別性」を心に留めていなければなりません。
サタンにとって、主が選ばれた者が「礼拝しない」ことは喜びです。その特権を無駄にして、世の人々と同じように生きている姿を見て楽しんでいるのです。
サタンは、聖徒が「偶像礼拝」に陥ることを最も望んでいます。知らずに「偶像」を心に向かえるように仕向けるのです。サタンは、日曜日の「集会」が「礼拝のすべて」であると思わせておきたいのです。
誤解しないでください。私は、聖日礼拝を否定しているのではありません。聖徒がともに集うことは最大の喜びです。しかし、それは「礼拝のすべて」ではないと言いたいのです。私たちは、日々「礼拝者」であるべきなのです。
聖徒は、あからさまな「偶像礼拝」には陥らないでしょう。
あなたは「形あるもの」を拝むことはしないでしょう。
しかし「見えない偶像」はどうでしょう?
「経済」「仕事」ときには「自分自身」「家族」「友人」も偶像になり得ます。
また「教会」や「奉仕」が偶像になることもあるのです。
私たちは「聖なる神」だけを礼拝します。それは、特別なことです。それは、主の選びによるものです。
主は、あなたを「礼拝者」として選ばれました。御前にひれ伏す特権を与えてくださいました。御前で「喜び」に満ちるようにと望んでおられます。
反キリストの霊は「すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗する」ものです。
あなたが「霊とまことによって礼拝する」ことを最も嫌います。
ですから、兄弟姉妹。
私たちは、大いに「聖なる神」を礼拝しようではありませんか。
以前の新改訳では「私の敵の前に」と訳さていました。
主は、敵の前で「宴会」を催される方です。主は、敵がいることなど気にも留められず、そこに「食卓」を設けられます。
主が「敵をよそに食卓を整え」てくださるのです。
それならば「そこに敵がいるから」と怯える必要はありません。「戦いの最中に宴会なんて」と思う必要もありません。むしろ、敵がいるからこそ礼拝をささげようではありませんか。
心から喜んで「食卓」に集いましょう。主が注いでくださる「香油」を喜びましょう。
終わりの日、確かに「地に住む聖徒」は苦難にあいます。それは想像を絶するものでしょう。
しかし、それでも私は、その苦難の中にあっても「食卓」が整えられるだろうと信じます。
終わりの日の聖徒たちが、その苦難の中にあっても「わたしの杯はあふれています」と叫ぶだろうと信じたいのです。
私たちも叫びましょう。
たとえ、今、苦しみの中を歩いていても、不安や悲しみを感じていても…
それでも「礼拝者」でありましょう。絶えず「御前」にひれ伏す者でありましょう。
「子羊のいのちの書に名が記されている者」として、ただ主だけを礼拝しましょう。
シャロームを祈ります。

