黙示録12:9
こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。
天に戦いが起こって…
前回は、黙示録12章5節までを学びました。
男の子を産んだ女とは「イスラエル」のこと、そして御座に上げられた男の子は「イエス・キリスト」のことであると学びました。
サタンは、男の子を食い尽くそうと狙っていましたが、それは成りませんでした。
この「荒野のへの逃亡1260日」と「養われる場所」については、12章13節以降で学びます。ですから、今は触れずに、先に進みたいと思います。(つまり実質、今回の学びは12章7節からということです)
使徒ヨハネは「天の戦い」を見ました。
この戦いは、おそらく患難期に起こるものでしょう。(前半か後半かで意見が分かれるところです。個人的には、後半ではないかと思います)
預言者ダニエルは言いました。
大天使ミカエルが立ち上がるのは「かつてなかったほどの苦難の時」の前です。
このとき、天において「ミカエルとその御使いたち」と「竜とその使いたち」が戦いを繰り広げます。そして、もちろん「ミカエルとその御使いたち」が勝利するのです。
この戦いにおいて、竜とその使いたちは「完全に」天における居場所を失います。
さて、この「天」がどこまでを表すのかは難しいところですね。
少なくとも「第三の天」つまり、神の御座がある天からは確実に追放されたでしょう。
サタンは、堕落したとき「三分の一の御使い」を巻き添えにしました。その時点で、彼らには「神の御前に立つ資格」などないはずなのです。
しかし、ヨブ記を読みますと、サタンがある程度自由に「出入り」している様子が描かれています。
サタンは、さも当然のような顔をして、神様の御前に立っています。
ですから、ある時点までサタンは、あろうことか「第三の天」に出入りしていたと考えられます。
使徒ヨハネは、サタンが「地に投げ落とされた」ことを強調しています。サタンたちは「地」に投げ落とされたのです。
もしかすると、これは「空中の支配者」であったサタンが、その支配権を失ったということかもしれません。つまり「第二の天」からも落とされたのではないかと思うのです。
聖書には「第二の天」などという言葉は記されていません。ただ「第三の天」があるのだから「第二の天」もあるだろうと思うわけです。
そして、その「第二の天」は、おそらく「空中」と呼ばれるところで、サタンはそこを拠点としていたのだろうと考えることができます。
「第三の天」と私たちが置かれてる「第一の天(つまり地)」との間に「第二の天」があると思われます。
ダニエルに「祈りの答え」を運んでいた御使いは、悪霊に妨害されます。「第三の天」とダニエルの間に「悪霊たちの活動する場所」があったことは明白です。
サタンは「空中の権威を持つ支配者」です。今は、まだそうなのです。しかし、大天使ミカエルが立ち上がるその日、サタンとその使いたちは「空中」に居場所を失くすのだろうと私は考えます。
私は「第三の天」で戦いが起こるとは思いません。戦いは、常に「第二の天(空中)」で起こっていると思います。
いつも言いますが、主なる神は、サタンと直接対決されることはありません。サタンは確かに大きな力を持つ恐ろしい敵です。しかし、それは私たちから見てということです。サタンが、いくら巨大な力を持っていて、とんでもなく賢かったとしても、全能なる神には絶対に勝つことはできません。勝敗は、戦う前から決まっています。
ですから、サタンと戦うのは、御使いのかしらミカエルなのです。そして、その戦いは「空中」で行われるでしょう。ミカエルは「空中戦」を制するわけです。その結果、サタンとその使いは「地に投げ落とされる」のでしょう。
正体は、全世界を惑わす者です
もう一度、黙示録12章9節を読みましょう。
さて、ここには、悪魔とかサタンとか呼ばれる者の「呼び名」が記されています。
使徒ヨハネが見たのは「大きな竜」でした。そして、それは「古い蛇」でもあります。
「古い」と訳されている語は「原始の」とか「最初からの」と訳すこともできます。つまり創世記に登場する「あの蛇」のことです。
そして、それは「悪魔」と呼ばれています。「悪魔」とは、原語では「διάβολος(ディアボロス)」で、それは「中傷する者」という意味です。
また、それは「サタン」と呼ばれます。「サタン」とは、ギリシャ語では「Σατανάς(サタナス)」です。これはヘブライ語からの借用語で「敵・敵対する者」という意味です。
このように、悪魔とかサタンとか呼ばれる者は、様々な形態で現れます。サタンは「変装」します。
私たちは、悪魔とかサタンと聞くと、何か「不気味な存在」を思い浮かべてしまいます。
しかし、エバが簡単に心を開き、会話に応じたことを思い出してください。サタンは「不気味な姿」で近づいてくることはないでしょう。
黙示録は、サタンの正体を暴いています。ですから、サタンは黙示録を読むことから、私たち聖徒を遠ざけるのです。黙示録は「何か得体の知れない難解な書」だと思い込まされているのです。
サタンの正体は「全世界を惑わす者」です。
イエス様は、悪魔の本性は「偽り」だと言われました。彼のうちには「真理」がないのです。
「物と事」に惑わされてはなりません。「見えるもの」に惑わされてはなりません。
サタンは、あなたに有効だと思えば「大きな竜」として現れるでしょう。また「賢い蛇」としてささやくでしょう。あなたが欲するならば「美しい女性」にも「素敵な男性」にも変装するでしょう。害のない姿で近づきます。「耳に心地よいことば」を語りかけることもできるのです。
その正体が「全世界を惑わす者」であることを覚えてください。
いのちの木を選ぶことです
大患難のとき、この「全世界を惑わす者」は「地に投げ落とされ」ます。しかし、それは、今「惑わす者」が私たちの周囲で働いていないという意味ではありません。
サタンは、今も「空中の権威を持つ支配者」として「惑わす」獲物を求めて歩き回っています。
私たちは「惑わす霊」と「悪霊の教え」に注意していなければなりません。
サタンが、できるだけ多くの聖徒を「信仰から離れさせようと」しているからです。
「肉的で悪魔的な知恵」というものがあるのです。
エバを誘惑した蛇の知恵こそ「肉的で悪魔的なもの」です。
それは、明らかに「魔術」「偶像礼拝」のような形で現れはしません。もし、それが明らかに「呪術的なもの」であったり「偶像を拝め」という誘いであったなら、ほとんどの聖徒は避けることでしょう。
しかし、蛇はエバを「賢くなれる」「神のようになれる」と言って誘惑したのです。
覚えてください。
それは「好ましく見えた」のです。それは「良い感じに見えた」のです。
ですから、私たちは「見えるところ」で生きてはなりません。「見えるもの」をすべて信じてはなりません。「見た感じ良さそう」なものを受け入れてはなりません。
あなたが「惑わされたくない」と願うなら決心することです。
「私は、御父から出るものだけを受け入れます」と宣言することです。
言い換えるなら「いのちの木を選ぶ」と決めることです。
ここで注意することがあります。
どうか間違わないでください。私は「いのちの木を選ぶこと」と言っているのです。
ある人は「では、善悪の知識の実を選ばなければいいのね」と言います。
そうではありません。もし、あなたが「善悪の知識の実を選ばない」と決心するならば、それはすでに敵の罠にはまっているのです。
「善悪の知識の実を選ばないこと」と「いのちの木を選ぶこと」とは、同じことではありません。
「いや、結果は同じでしょう」と言う人がいるかもしれませんね。しかし、その結果は「全く違う」ことになります。
何が「肉の欲」で、何が「目の欲」なのでしょう。「暮らし向きの自慢」とは、どのようなことを指しているのでしょう。
私たちの周囲には「好ましく見えるもの」であふれています。あなたは、それらのうちの「どれを避けて、どれを受け入れる」のですか?
それを判断するためには、あなたは「世の中を注意深く見る」ことになるでしょう。つまり、主なる神よりも「世の中」の方をずっと長く見続けるということです。
もし、あなたが「世の中を見続ける」ならば、必ずいつか「惑わされ」ます。
惑わされないために必要なことは「何を選ばないか」を決めるのではなく「一つのことを選ぶ」と決めることです。
覚えてください。
「善悪の知識の実を選ばない」と決心してはなりません。
そうではなく「いのちの木を選び続ける」と決心するのです。
惑わされない生き方をしましょう
それは言い換えるなら「主イエスを見続ける」もしくは「十字架を選ぶ」と決心することです。
もう少し簡単に言えば「もはや、私ではなくキリストが生きておられる」と認めて生きるということです。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」とは、聖徒がいずれ達するであろう「聖人の領域」というものではありません。
これは、すべての聖徒が「生きるべき標準の姿」なのです。
パウロはここで、何か特別に高度なキリスト教を述べようとしているのではなく、むしろ、神がキリスト者に求めておられる基準を啓示していると信じます。すなわちそれは「生きているのはもはや私ではなく、キリストがご自身の命を私のうちに生かしめている」という言葉に要約できます。
キリスト者の標準 ウオッチマン・ニー著 いのちのことば社
私は、サタンの最も大きな惑わしは「それは特別な人だけに与えられている生き方で、普通の人には無理なのだ」と信じ込ませていることだと思います。
聖書に記されていることは「特別な人」だけのものではありません。聖歌で歌うように「エリヤもわれと同じ人なり」なのです。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と認めて生きることは、特別な人だけが達し得る「超人的なこと」などではありません。
あなたも私も、そのように「認めて」生きることができるのです。むしろ「そうでなくてはならない」のです。
惑わされないために必要なことは、聖書の「真理」に生きることです。
サタンのうちには「真理」がありません。彼のうちには「偽り」しかないのです。サタンは「正しいこと」を言うでしょうが、それは「真理」ではないのです。
しかし、私たちは「真理」を持つことができます。「真理」に生きることができるのです。
私たちのうちには「真理そのもの」である方が生きておられます。
イエス様を見ましょう。そして、イエス様が「私のうちに生きておられる」ことを認めましょう。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言しつつ歩みましょう。
それこそ「自分を捨て自分の十字架を負って従う」と言うことです。
そして、それこそ「惑わされない唯一の生き方」なのです。
シャロームを祈ります。

