2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録12章10節~11節】子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝ったのです

再臨を待つ

黙示録12:11
兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。

天において大きな声が宣言します

天に戦いが起こったのを、使徒ヨハネは見ました。

黙示録12:7~8
さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことはできず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

「ミカエルとその御使い」が勝利し、竜たちが地に投げ落とされとき、天において「大きな声」が言います。

黙示録12:10
私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。

この「大きな声」の持ち主が誰であるかは分かりません。ただ御使いではないだろうと思います。

この「大きな声」は単数形で記されていますから「一つの声」です。

「天にいる聖徒たちの代表の声」なのか、もしくは「一人の人のように聞こえた多くの聖徒の声」なのかもしれません。もしかすると、私たちの「長兄」であられる主イエスの御声かもしれません。これは、また御国に召されたときに確かめたいことの一つです。楽しみですね。私は本当に楽しみにしているのです。

さて、その「大きな声」は言います。

「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた」と。

私たちは救われています。聖徒は、みなキリストの権威のもと神の王国の一員です。それは、今すでにそうです。しかし、このとき「神のキリストの権威」が完全に現わされます。

サタンが「地に投げ落とされる」ことが、その現われなのです。

前回も言いましたが、サタンは「第三の天」に出入りしていました。

ヨブ1:6~7
ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。主はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

このとき、サタンは、「本当にヨブは主を恐れる者でしょうか」と訴えたのです。

黙示録12:10b
私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が投げ落とされたからである。

悪魔とは「中傷する者」「訴える者」という意味です。つまり「告発者」と言うことです。

しかし今、現在、サタンは、私たちを「責め立てる」ことはできないのです。サタンには、そのような権利はないのです。

コロサイ2:14
私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。

イエス様は、十字架で「私たちを責め立てている債務証書を無効に」してくださいました。

確かに私たちは罪人です。主の御前に「債務をかかえて」どうすることもできない惨めな存在です。しかし、それは「過ぎ去った過去のこと」です。

イエス様は、私たちの「債務証書」を無効にしてくださいました。

あなたの「債務」は帳消しとなりました。十字架に釘付けられた「債務証書」には、はっきりと「無効」の印が押されています。

もちろん、サタンもその事実を知っています。しかし、サタンは「偽りの父」ですから、なんやかんやと理由をつけて、主の御前にあなたを責め立てるのです。

ゼカリヤ3:1~2b
主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとして右手に立っていた。主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめている。

ゼカリヤ書を詳しく学ぶ時間は、今はありません。いつか機会があれば学びましょう。

サタンは、イスラエルの代表である「大祭司ヨシュア」を訴えようとしていました。それには「それなりの理由」があったのです。

サタンが、私を責めるとき、たいていの場合、私には「身に覚えがある」のです。つまり「責められても仕方がない」と思う理由があるのです。

サタンは「偽り者」ですが、「すべてを嘘で固めてくる」ことはしません。

特に「罪」「汚れ」に関して「見たくない真実」を用いて責め立てて来ます。サタンが私の罪を暴くとき、それは確かに「本当のこと」です。

しかし、覚えてください。

主は言われるのです。

「サタンよ、主がおまえをとがめている」と。

サタンが、どれほど、あなたの罪を責め立てても恐れることはありません。なぜなら主が、あなたを責め立てることはないからです。

主は、むしろサタンをとがめられます。

あなたの耳に、あなたを責め立てる声が聞こえて来ても、フッとしたときに、昔の罪がよみがえってきて罪悪感に襲われたとしても…

恐れることも、縮こまることもありません。

ローマ8:1
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません。

あなたが「キリスト・イエスにある」ならば、決して「罪に定められる」ことはないのです。

誰が何と言っても、自分の心が自分を責めたとしても、それでも「神が味方」であることを忘れてはなりません。

ローマ8:31
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。

もちろん、神が味方であるならば「誰も」あなたに敵対できないのです。

サタンは「見えるもの」「本当のこと」を用いて、あなたを「偽りの身分」に引きずり落そうとしているのです。それが、サタンのやり方です。

ですから、私たちは「見えるものではなく見えないもの」によって歩みます。「過ぎ去った過去」に生きるのではなく「日々新しい今」を生きるのです。

この先、サタンは「地に投げ落とされ」ます。もう二度と、主の御前に人々を訴えることができません。

今は、まだ、それを許されているけれど、それはサタンが「勝利者」だからではありません。

私たちこそ「すでに世に勝ったのです」と言われた方によって「勝利者」なのです。

子羊の血の証人なのです

すべての勝利の源は「子羊の血」にあります。

黙示録12:11
兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。

世の中には「勝利の秘訣」「すべてうまくいく方法」などの教えがあふれています。すべての人が「勝利」「成功」を求めているのです。

聖徒たちでさえ、常に「方法」を求めているように思えます。

覚えてください。

「勝利」とは、常に「子羊の血」によるのです。それ以外に「勝利」はありません。

私たちは「子羊の血」を「証」することによって打ち勝つのです。

「証しのことば」とは「証言のことば」という意味です。

つまり、あなたは「子羊の血」を「ことば」に出して「証言」せねばならないということです。

「証言」とは「事実であると請け負うこと」です。

つまり、私たちは「子羊の血」の「証人」になるのです。

そして「子羊の血」の「証人」こそが、竜に打ち勝つ者なのです。

使徒1:8
しかし、聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

聖霊様は、私たちが「証人」となるために降って来られました。

忘れないでください。私たちは「証人」となるための「力」を受けたのです。

「証人」とは、もともと「裁判で証言する人」「目撃したことを証言する人」「信念を曲げずに証言する人」という意味です。

古代ギリシャ語の 「マルティス(μάρτυς )」 に由来します。

多くの聖徒たちが「証人」として、主イエスの十字架を告白し殉教しました。初代キリスト者たちにとって「証人」であることは「殉教すること」と同じでした。

ですから、この「証人:マルティス(μάρτυς )」という語は、英語の「殉教者:martyr(マーター)」の語源となったのです。

黙示録12:11
兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。

「子羊の血の証人」である私たちの兄弟は「死に至るまで自分のいのちを惜しまなかった」人々です。

彼らは、確かに「聖霊の力」を受けていました。聖霊様は、この兄姉を満たしておられました。

患難時代、厳しい災いの日々の中、それでも救われる人々がいると私は信じます。

14万4千人の宣教によって「子羊の血の証人」になる人々は、確かに存在するでしょう。

彼らは「死に至るまでも自分のいのちを惜しまない人々」です。

そして、今もまた迫害の中、信仰を保ち続けている聖徒が大勢いるのです。

これは、ジェーン・ハモンド師による情報で正確な数字は分かりませんが、今、現在、イランでは多くの人が信仰の告白をし救われているということです。

以下は「ハート・フォー・イラン」という宣教団体の責任者の証しです。

イランは福音派の成長率が世界で最も高く、年間20パーセント近く成長している。現在でもこの傾向は続いており、多くの人々がイエスを救い主とし、イエスに従うことを選び続けている。この成長は、イスラム教に幻滅したイラン人によって促進されている。しかし、私たちは福音の力と、多くの人々に変化をもたらしているその影響力を忘れることはできない。私の母が夢を見たことから始まった私自身のキリスト教への旅は、その力を証明するものだ。

何年も前、世俗的なイスラム教徒であった私の母は、イエス・キリストの夢を見、神聖な出会いを経験した。このような神聖な体験は、イラン人にとっては珍しいことではない。この地域の人々はイエスについての情報にアクセスすることは難しいが、多くのイスラム教徒が夢や幻を通してイエスとのつながりを体験している。私の母が救い主に出会ったのは夢を通してで、それが私たち家族に変化をもたらした。

彼女が夢を見た後、教会を訪れたところ、1979年に製作された映画「ジーザス」のビデオテープを快く提供してくれた。映画は、キリストのメッセージをイランの人々に伝えるためにペルシャ語に訳されたものだった。映画を見た母の心は、イエスの愛と教えに引き寄せられ、心からイエスに人生をささげるようになった。それから数カ月後、私も自分の人生を主にささげる決心をした。

~中略~
映画「ジーザス」は、今でもイランの衛星テレビで放送され、人々はキリストに従うことを選択している。この映画が文化的、宗教的境界を超越する能力を備えていることが、そうした決断に極めて重要な役割を果たしている。中東で一般的な「名誉と恥」という文化的規範は、しばしば宗教的な議論を非生産的なものにする。しかし、人々が映像媒体を通して福音の物語を体験すれば、議論の必要性はなくなる。人々はただ、スクリーンに映し出されたイエスの生涯と、御子を通して発せられる神の御言葉の力を目撃することができる。このアプローチは理解の架け橋となり、知的な言説だけに頼るのではなく、より直感的で感情的なレベルでキリスト教信仰の真理とつながることを可能にする。

マイク・アンサリ(Mike Ansari)2026年3月12日13時43分 Christian Todayより

今も「聖霊の力」は注がれています。私たちの兄弟姉妹は増え広がっています。

「子羊の血の証人」は、今も存在するのです。

私は、自分の信仰を省みずにはいられません。

私は「死に至るまでも自分のいのちを惜しまない」本物の「子羊の血の証人」だろうかと思うのです。

愛する兄弟姉妹。

私たちは祈りましょう。

私には、恥ずかしながら難しい政治の話は分かりません。ガソリンが高くなったと不平不満を愚かにも口に出してしまいますが、それでも、彼らの苦しみの一部すらも味わってはいないのです。

何と祈ってよいやら分からないけれど、それでも、イランの聖徒の平安のために、自由のために微力ながら祈りたいと思うのです。

また、主の愛するイスラエルのために…

私たちは、主の御心が成るように、ただひたすら祈り続けましょう。

子羊の血の証人として歩みます

イエス様は、スミルナの教会に言われました。

黙示録2:10
あなたがたの受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難に遭う。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

2章はすでに学びましたから、もう一度、蒸し返すつもりはありません。

ただ、主イエス様が「苦難に遭う」と明言されたことを思いたいのです。

サタンは、あなたのことも私のことも試そうとするでしょう。私たちは牢に投げ込まれることはないでしょうが「苦難」と呼べるようなことには「遭遇」するだろうと思います。

予期せぬ出来事は「ある」ものです。「どうして、こんなことに」と思うような事態も起こるでしょう。私も、そのような出来事を経験しています。

けれど、それは「転換期」であることも、また事実なのです。

サタンは「試み」て、あわよくば「信仰を失わせよう」と目論みます。

しかし、主は「試み」の中で「育てる」ことがお出来になります。

愛する兄弟姉妹。

「子羊の血」が、あなたに何をもたらしたのかを考えなさい。

デレク・プリンス師は「子羊の血」について、このように言いました。私は、彼のこの言い方が好きです。

「神様は、やり過ぎだ!」

そして、こうも言います。

「御子イエスの血は一滴で世界を救える」と。

Ⅰペテロ1:18~19
ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです。

確かに、聖書は「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」と言っています。

イエス様は、罪のないお方です。傷もしみもありません。その「尊い神の御子の血」なれば、ただ「一滴」であっても十分であったとデレク師は言っているのです。

しかし、イエス様は「すべて」を流されました。おそらく、文字通り「すべての血」を流されたのではないかと思います。

主イエスは、十字架に架かられる前から、血を流しておられました。打たれた背中の傷口から「血」が流れ出ていたことは明らかです。茨の冠をかぶせられた額からも、血が流れ出ていたでしょう。

御父に霊をお委ねになった後、兵士が刺したわき腹から「血と水」が出て来たと使徒ヨハネが証言しています。

なぜ、そんなにまでされたのかと思うのです。イエス様は「限界以上」に苦しみを受けられました。血を流しつくしてくださいました。

何のために?

それは、あなたと私のためにです。

あなたは「子羊の血」によって贖われましたか?

あなたは「子羊の血」によって救われましたか?

そうであるならば「子羊の血」が、あなたにもたらしたものを今一度、よく考え思い巡らせなさい。

あなたは「子羊の血の証人」なのです。

サタンは「試み」によって、あなたから「子羊の血の証言」を奪い去ろうとするでしょう。その「証言」が自分を敗北に落とすことを知っているからです。

愛する兄弟姉妹。

私たちは「子羊の血」の証人でありましょう。

「子羊の血」を証言することをやめてはなりません。

それでも、苦難によって元気を失い疲れ果ててしまうことがあるかもしれません。

ヘブル12:」3
あなたがたは、罪人たちの、ご自身に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

元気を失わないために必要な事もまた「十字架」なのです。

私たちは、主イエスが忍ばれたことを考えましょう。

イエス様の耐え忍ばれたこと、その流された血について思い巡らせましょう。

そうすれば、また歩き出すことができるのです。

私たちは「子羊の血の証人」です。

「子羊の血と証しのことばのゆえに打ち勝つ者」です。

シャロームを祈ります。