黙示録11:11
しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
二人の証人は1260日の間は守られます
患難時代に入ると、主に油注がれた「二人の証人」が現れます。
彼らは、エリヤのようなモーセのような人です。
彼らは「二人の油注がれた者」たちで、1260日の間、預言をするのです。
あらゆる災害を喜んで受け入れる人などいないでしょう。地に住む人々は、災害によって被害を受けます。
そして、この災害の元凶である「二人の証人」を憎むようになるのです。
おそらく、この時、すでに反キリストはイスラエルと堅い契約を結んでいると思います。
「二人の証人」が預言する期間が「患難期の前半の三年半」であるとするなら、そろそろ「反キリスト」が本性を現わし、契約を破棄するころでしょう。
ダニエルの70週の預言を思い出してください。
「あなたの民とあなたの聖なる都」とは、イスラエルの民とエルサレムのことでしたね。
彼らについて「70週」が定められています。そして、すでに「69週」は歴史となりました。残されているのは「1週」です。つまり「7年」ですね。
ここで言う「彼」こそ「反キリスト」であると私は思っています。
「反キリスト」は、残りの「1週」つまり「7年」が始まる時、イスラエルの多くの人々と契約を結びます。その契約には「神殿礼拝の再開」が含まれているのでしょう。
1週つまり「七年」の前半の三年半の間、エルサレムでは「神殿礼拝」が再開されています。そこで「動物の犠牲」がささげられるという意味です。
そして、それと同時期に「二人の証人」が預言活動を始めるのだろうと思います。
偽の平和を満喫しようとしている「世界」と、その平和を推進しようとしている「反キリスト」にとって「二人の証人」は邪魔ものです。
しかし、三年半(1260日)の間は、誰も彼らを排除することはできません。権力を握っているであろう「反キリスト」であっても、彼らに害を加えることはできないのです。
「二人の証人」の活動期間「1260日」は絶対です。
彼らは「1260日」の間は、どんなことからも守られます。主が「そう決められた」ので、必ず守られるのです。
私たちは、このことに励ましを感じますね。
イエス様は「いのちのことで心配するな」と言われました。
それは、どのような時代であっても同じです。
あなたは、あなたの使命を果たすまでは守られます。主は、私たちのうちに始められた良い働きを完成させてくださいます。主は、あなたのための計画を諦めたりはされません。
ですから、私たちもあきらめずに走りましょう。恐れることなく進み続けましょう。
世界中から敵として扱われる「二人の証人」でも、使命を果たすまでは決して害を受けないのです。
「二人の証人」のことを読むたびに、私はもっと大胆に生きたいと思うのです。
何を恐れ、何に戸惑っているのか…
主が、私に与えて下さったのは「臆病の霊」ではないはずです。
私は「力と愛と慎みの霊」にもっと満たされたいのです。
聖霊の測り知れない御力が現れるようにと切に願います。
初代教会の人々が必死で祈り求めたように、私も祈り求めたいのです。
私たちも祈り求めましょう。
集まる場所が揺れ動き、一同が聖霊に満たされ、大胆にみことばを語りだすように…
愛する兄弟姉妹。
私たちのいのちは「主の御手」の中にあります。いのちは「キリストのうち」に隠されています。
臆病の霊を打ち砕き、今、大胆に語る聖霊の力を切に求めましょう。
「二人の証人」を無敵にする神の力は、今も変わりません。
エリヤも「二人の証人」も、私たちと同じ「人間」なのです。
ちょっと受け入れがたい超人のように思えますが、聖書が「同じ人間だ」と言うのだからそうなのです。
エリヤの神は、今も生きておられます。
患難時代に「二人の証人」に油注がれる方は、今も「油」を注がれます。
私たちは、恐れ退かず、使命を果たすまでは「必ず守られる」と信じ、大胆にみことばを語り、御業を現わす者とされましょう。
世は喜びます
1260日が終わると同時に、二人の証人の使命も終わります。
「1260日」の間は、何があっても害を受けなかった「二人の証人」ですが、証言の期間が終わった瞬間に殺されることとなります。
「底知れぬ所から上って来る獣」とは、実体としては「反キリスト」のことです。
しかし、ここからは個人的な意見ですが…
私は「前半」の反キリストと「後半」の反キリストは、実体としては「同じ」ですが、その「中身」は違うのではないかと思います。もちろん、言葉のあやであって、まったく違う人物だと言っているわけではありません。
「後半」の反キリストは、サタンと一体となった「反キリスト」であると思います。つまり、サタンの権威を完全に帯びた獣となったということです。
反キリストが、何によって死にかけるのかは分かりません。
確かなことは、彼は「死んだと思われた」ほどの傷を負うけれど治り、その後「竜」から権威を与えられるということです。
つまり、反キリストは「死んだと思われる前」には、竜の権威を完全には持っていなかったということです。
「二人の証人」を殺す「底知れぬ所から上って来た獣」とは、底知れぬ所の力を帯びた獣という意味ではないでしょうか。そういう意味においては、サタンであるとも反キリストであるとも言えます。
一度死にかけて、回復し、竜の権威を帯びた「反キリスト」は、今までとは別人のようになります。ついに正体を現したと言うよりも、完全に「サタン」の権威を帯びた、もしくは一体となったと言う方がよいのかもしれません。
「反キリスト」は、後半の三年半(四十二か月)の間、神を冒涜し、聖徒に戦いを挑み打ち勝つこととなります。
そのスタートが「二人の証人」を殺すことなのだろうと私は思います。
「二人の証人」の死は、全世界が知ることになります。彼らの扱いは、あまりにもひどいものです。
その死体は「都の大通り」にさらされます。
そこは「霊的な意味ではソドムやエジプト」と呼ばれる都です。しかし、実際には「ソドム」でも「エジプト」でもありません。
そこで「主イエス」が十字架につけられたのです。
とても悲しいけれど、それは「エルサレム」のことです。
患難時代のエルサレムは「霊的な理解ではソドムやゴモラ」と呼ばれるのです。
その昔、預言者イザヤもエルサレムの人々のことを「ソドムの首領」「ゴモラの民」と呼びました。
イザヤの時代のイスラエルは、主なる神と偶像の神の両方に仕えるという罪を犯していました。
彼らの礼拝は「形式だけ」の心を伴わないものでした。異国の神々を輸入し、都は占い師であふれていました。
患難時代、イスラエルには「本当の礼拝者」はいないのかもしれません。神殿を測れと言われたヨハネが「測った結果」を記していないのは、そのせいかもしれません。
主の御目には「ソドムのようなエジプトのような都」なのです。
「二人の証人」の死体は「三日半」の間、その「都」にさらされます。彼らの「主」が十字架にかけられた都エルサレムに、その大通りに彼らの死体は投げ捨てておかれるのです。
「二人の証人」が殺されたというニュースは、瞬く間に世界中が知れ渡ります。
世界中の人々が、彼らの死体を見ることになります。それも、好んで見るようです。
ある人は「二人の証人は生前、自分たちが生き返ることを宣言していたのではないか」と言います。
それは、もちろん分かりませんが、そうかもしれないなと思います。
人々は「皮肉な思い」で二人を眺めるのかもしれません。
「よみがえるって言っていただろう。よみがえって見せろよ」
そういう思いで「眺めて」いるのなら、死体に世界中が注目するのも理解できるような気がします。
イエス様も人々に「眺められ」ました。
イエス様は、まだ死を迎えていないときに「眺められ」ました。
十字架の上で、イエス様は人々のあざける声を聞いたのです。
イエス様は、通りすがりの人々に「見える」ところで十字架に架けられました。
人々は、イエス様をののしりながら通り過ぎて行ったのです。もちろん、立ち止まって見物していた人もいたでしょう。
なんという辱めでしょう。神である方が屈辱を忍ばれたのです。
なんという痛みでしょう。御手と御足のみか心も裂けて…
サタンは、この時、心の底から勝ち誇ったでしょう。神の御子を追いつめて「殺した」ことを大いに喜んだことでしょう。
サタンの支配下にある「世」は、再び、同じような「喜び」を味わいます。
「二人の証人」が、地に住む人たちに、どれほど「憎まれて」いたのかが分かります。
地に住む者たちは「二人の証人の死」を心から喜びます。それは、互いに贈り物を贈り合うほどです。地に住む人々は、この日、祝宴を催すのです。
反キリストは、英雄となります。その祝宴で称えられるのは「獣」なのです。人々は「獣」の勝利を祝うのです。
すべての人が「二人の証人」の死体を眺めながら、彼らは「終わった」と思います。
しかし、それは「終わり」ではありません。
「三日半の後」いのちの息が「二人の証人」のうちに入るのを使徒ヨハネは見ました。
「終わった」と思って喜びに湧き上がっていた人々は「恐怖」に襲われます。
突然、眺めていた死体が、むくりと起き上がるのです。
「世」が、もう終わりだと思うときこそ、神の勝利が現れるときです。
あなたは、それを信じますか?
「二人の証人」に起こる出来事は、エゼキエルの預言を思い起こさせます。
主はエゼキエルに言われました。
主は、エゼキエルに「すっかり干からびた骨」を見せて言われたのです。
「これらの骨は生き返るだろうか」
普通であれば、答えは「不可能です」となります。
すっかり干からびてしまった骨が生き返るなんて、まずあり得ないでしょう。
しかし、主は言われます。
愛する兄弟姉妹。
あなたは、そのことを信じますか。
主の「いのちの息」が吹き入れられるなら「死んでいた者」が生き返ることを信じるでしょうか。
エゼキエルの時代、人々は言っていたのです。
人々は「絶望」に満ちていました。「望み」は欠片もありませんでした。彼ら自身が「干からびた骨」のような状態だったのです。
私たちは、自分が「肉」ではなく「霊」であることを信じているでしょうか。
私たちは、自分が「神の口から出ることば」によって生かされていると信じているでしょうか。
私たちは、神には「不可能なことはない」と心から信じているでしょうか。
「息が入る」なら「死んだ証人」も「干からびた骨」も、自分の足で立つことができるようになるのです。
「いのちの息」が入るなら「生きる」のです。
「あなたは、このことを信じますか」
私たちは信じているでしょうか?
「あいつは、もう終わりだな」と人々が、あなたに言う時、それは「神の勝利の始まり」です。
「私はもうだめだ。望みは断たれた」とあなたが思う時、それは「神の恵みが現れるとき」です。
「私は年を取った。もう身体が動かない。気力も乏しい」と感じるならば、それは「神の御力によって生かされる始まり」なのです。
「死」は、聖徒にとって「終わり」を意味するものではありません。
「いのちの息」が入る限り、私たちは「生きる」ことができます。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。」
私たちは、イエス様の言われたことを信じます。
敵が、あなたに「もう終わりだ」とささやくとき、それに同意してはなりません。
敵は、あなたに「あきらめろ。もう無理だ」と言うでしょう。しかし、それに耳を貸してはなりません。
主は、言われます。
「息に預言せよ」
あなたが「預言する」のです。あなたが、主の言われたことを「声に出して」言い表す必要があります。
その「望みのない状態」に預言して言いなさい。
自分の身体に預言して言いなさい。
あなたの家庭に、職場に、すべての状況に預言して言うのです。
「息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」
創造主の「いのちの息」の力を信じなさい。聖霊の偉大な御力を信じるのです。
主に「不可能なことは何一つない」と、声を合わせて宣言しようではありませんか。
「世」と反キリストは、短い勝利に酔いしれていました。
主のしもべは「敗北」したかのように見えました。
しかし、すべてが「終わり」に見えたその時、神のしもべは「立ち上がり」ます。
勝利を確信していたであろう「反キリスト」も、立ち上がった二人をみて恐怖におののくはずです。
その昔、よみがえられたイエス様を見て、サタンも震えおののいたのです。それ以来、サタンは「自分の敗北」を本当は知っているのです。
しかし、偽りの父は「その事実」を私たちに隠しているのです。
愛する兄弟姉妹
私たちは、立ち上がりましょう。
息に預言して言いましょう。私たちには「いのちの息」である「聖霊」がおられるのです。
私たちは死にません。使命を果たすまで、この地の「生」は守られます。そして、この地を去っても「霊」は永遠に生きます。
私たちの「望み」は死にません。私たちは「決して失望に終わることはない」のです。
倒されても起き上がります。活力に満ちます。
信じてください。
あなたは、あなたが思っているよりも「大切な使命を帯びて」います。
行く先々に「いのちの息」をもたらす者として召されているのです。
「息に預言する」のは、あなた自身です。あなたが声を上げるのです。
私たちは、必ず「逆転」を見るでしょう。私たちは、必ずリバイバルを見ます。
雄々しく立ち上がりましょう。
あなたが立ち上がるなら、敵は震えあがります。
あなたの背後におられる「いのちの君」も同時に立ち上がられるからです。
あなたが、主の勇士として立ち上がることを、切に願っています。
シャロームを祈ります。

