黙示録12:5
女は、男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。
契約の箱が神殿の中に見えました
さて、二十四人の長老たちの「礼拝と宣言」が終わりました。
それから、使徒ヨハネの視点が「天の神殿」に移ります。
天にも「神殿」があります。むしろ、こちらが「本体」です。地上の神殿は「天にあるものの写しと影」です。
このことについて話したい誘惑にかられますが、あまりにも黙示録の進みが遅いので我慢したいと思います(笑)
さて、ヨハネは「神殿が開かれ」るのを見ました。つまり、この時点までは「閉じられていた」ということになります。
そして、使徒ヨハネは「神の契約の箱」が見えたと言っていますから、このときに開かれたのは「至聖所」です。つまり「金の香壇」のその先が開かれたのです。
これが「何を意味するのか」ということについて、ずっと考えています。けれど、いまだによく分かりません。
「契約の箱」は、神の臨在を意味します。しかし、天において「臨在」は満ちあふれています。ですから「契約の箱」をわざわざ見せられたのには、それ以上の意味があるのだと思えます。
使徒ヨハネが「契約の箱」を見たとき「稲妻がひらめき」「雷鳴がとどろき」「大粒の雹」が降りました。実際に、地上に雷が鳴り、雹が降るのだろうと思います。
個人的には、この箇所を読むと、出エジプトの際、主がシナイ山の頂に降りて来られたときのことを思い起こします。
主が、シナイ山の頂に降りて来られるとき、雷鳴と稲妻がありました。山全体が激しく震えたのです。そして、主は、シナイ山でイスラエルと契約を結ばれました。
第七のラッパによる宣言の後、神殿が開き「契約の箱」が見えたのは。もしかすると「主が立ち上がられ降りて来られる」という意味なのかもしれません。それは「新しい契約」をもたらされるということなのかもしれません。また、主の聖であることを現わされたということかもしれません。その聖と義に基づくさばきを行われるということなのかもしれません。
でも、やっぱり、まだよく分かりませんね。これからも学び続けていきましょう。
一つ、なるほどなと思わせられる解釈がありますので紹介させてください。少し長めの引用になります。
黙示録には「見よ。天に一つの開いた門があった」「天にあるあかしの幕屋の聖所が開いた」「私は開かれた天を見た」のように、11:19のほかに三箇所、「開かれた天の描写」があります。
この段落に記されている「それから、天にある、神の神殿が開かれた」は、そのうちの二番目のもので、意義深くも、天が、門から神殿、聖所へと、神のご臨在の場所に向かって開かれていき、最後には全天が開かれ、キリストのご支配が完全に顕されることが順を追って描かれています。~中略~
全天が開かれたとき、神がイスラエルの族長アブラハム・イサク・ヤコブに約束された神の国(ヘブル語では来たるべき国)が完全に地上に具現するのです。
一人で学べるキリストの啓示 K・フルダ・伊藤著 文芸社
天にも「啓示の段階」があるのかもしれませんね。どんどんと明らかにされていく「啓示の段階」を思うと、心が躍ります。私たちは、永遠に「啓示」され続けるのでしょう。
それは、さておき…
「契約の箱」が、この時点で顕されたのは、神が「約束」を大切にしておられることへの表れだとフルダ師は言っています。
この時点で「契約の箱」が見えた理由は、私には定かではありませんが、そうかもしれないなとは思います。
確かなことは、主は「契約の神」であるということです。そして、常に、ご自身の契約に「真実」であられ「誠実」であられます。
私たちは、この方にあって「決して失望させられることがない」のです。それだけは、間違いありません。
天に現れた大きなしるし
使徒ヨハネは「大きなしるし」を見ました。天はヨハネのための大劇場となったみたいです。
使徒ヨハネは、不思議な女性を見ます。太陽を着て、月を足の下にし、十二の冠をかぶっている女です。
そして、その女性は「身ごもって」いました。
この女性は、男の子を産みます。
後に、鉄の杖をもって牧すことになっていて、御座に引き上げられた「男の子」となると、一人しか考えつきません。
女が産んだ「男の子」とは、私たちの主イエスであると考えられます。となると、この女性は「イスラエル」だということになりますね。
この女性を「教会」であるとする解釈もありますが、「教会」はイエス様を産んでいません。イエス様は、ユダ族の獅子であり、ダビデの子としてイスラエルにお生まれになりました。ですから、ここは「イスラエル」という解釈でよいと思います。
さて、この女性は「太陽を着て、月を足の下にし、十二の冠をかぶっている」という姿をしています。
これは「ヨセフの夢」を思い出させます。多くの注解者が「太陽をヤコブ」「月をラケル」そして「12の星はイスラエルの12部族」を表すと言っています。
そうかもしれません。しかし、そうすると「ラケルを足の下に」することの意味はなんだろうと私は思ってしまうのです。
この女性が「イスラエル」であることは、ほぼ間違いないと思います。けれど「ヨセフの夢」を根拠とするのは少し説得力に欠けるかなと思います。
個人的には、この女性の装いは「大淫婦とか大バビロン」と呼ばれる都との対比ではないだろうかと思います。このことは、また黙示録17章で学びましょう。今は、先に進みます。
もう一度、12章2節を読みましょう。
イスラエルは「産みの苦しみ」にうめいています。これが「いつ」のことなのか、なかなか難解ですね。
通常ならば「産みの苦しみ」は、出産の直前に経験するものです。しかし、このイスラエルの苦しみが「患難時代」に起こるものだとすれば、イエス様がお生まれになってから「産みの苦しみ」を味わうということになります。
イザヤ書66章7節には「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」と記されています。イスラエルの場合は、まず男の子を産み、そのずっとあとに、産みの苦しみが起こりました。自然なかたちの分娩では、そのようなことはあり得ません。ところが、この女は患難時代になってようやく、その産みの苦しみのために大声で叫んでいるのです。患難時代の痛みは、イスラエルという「女」にとって、産みの苦しみのようなものだからです。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版
もしかすると「男の子」の誕生つまり、主イエスの降臨は「再臨」があってこそ「完成」するということなのかもしれません。
さて、すこぶるややこしいですが、この「女」について、もう一つ、面白い解釈があるので紹介したいと思います。とても長い引用ですから、頑張ってください(笑)
一般に、女とはイスラエルのこと、赤い竜とはサタンのこと、女が身ごもっているのは、主イエスのこと、と考えられています。しかし、「黙示録」に詳しい小石豊先生は、さすがに読みが深く、女を「今日の『イスラエル』という国家」、そして女が身ごもっているのは「イスラエルという国家の中からイエスをメシアと信じているクリスチャン」と見ています。そうすると、十一章の流れとピタリと一致するのです。つまりユダヤ人の救霊と繋がります。女が身ごもっているのを主イエスとすると、昔々のこととなりますが、終末期のユダヤ人クリスチャンと見るならば、患難期のこととなるのです。そして、「この女は、身ごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために叫び声をあげた」は、十一章の二人の証人によって、心動かされたユダヤ人たちがいて、ユダヤ人クリスチャンになろうとしていることで、イスラエル全体にとっては産みの苦しみとなります。~中略~
その子は「神のみもと、その御座に引き上げられた」とは、どういう意味でしょうか。「イスラエルという国家の中で生まれた相当数のユダヤ人レムナントが、携挙や二人の証人にように突然、天に上げられるものと思われます。」(ヨハネの黙示録がわかりますか 小石豊著)
つまり、ユダヤ人クリスチャンの中にも携挙される者と、地上で戦うものがあることが示唆されているのです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
さてさて、なかなか興味深い解釈ですね。
イスラエルが産む「男の子」が、単数形で記されていることと「すべての国々を牧する」ことは、どのように解釈するのかなぁという疑問が少し残りますが…
しかし、これは、これで「なるほどな」と思うのです。
私は個人的にですが…
すべてのことを「過去」「現在」「未来」に当てはめる必要はないのではと思います。
イエス様を「産む」ということは、その「再臨」までのすべてのことを「産み出す」ということなのかなぁと考えています。ですから世の終わりには「産みの苦しみ」の激しさが増すのだろうと思うのです。
別のしるしも現れました
使徒ヨハネは、また別のしるしを見ました。
使徒ヨハネは「炎のように赤い大きな竜」を見ました。その竜には「七つの頭」と「十本の角」そして「七つの冠」がありました。
恐らく、この世の君としてのサタンを表す姿なのだと思われます。反キリストと呼ばれる獣は、この竜の姿を受け継ぐのでしょう。
竜が引き寄せた「星」とは「御使い」のことでしょう。原語では「星」は複数形です。直訳すると「星々」ですね。
「複数の御使い」つまり「御使いの三分の一」をサタンは自分の配下に置いたということです。それが、どれほどの数なのかは分かりませんが、想像をはるかに超える御使いたちが、サタンと行動を共にしているのです。
さて、ここには「竜は、子を産もうとしている女の前に立ち」と記されています。すなわち、竜は「子が産まれる」ことを知っていたということです。
サタンは、約束の子孫を憎んでいます。神の子が産まれることを阻止することに全力を傾けていました。サタンは「産まれたら」すぐに「食い尽くそう」と狙っていたのです。
サタンの憎悪は激しいものです。マタイの福音書には、ヘロデ大王が「ベツレヘムの二歳以下の男の子」をすべて殺したと記されています。ヘロデ王の背後にサタンがいたことは明白です。
しかし、イスラエルは「男の子」を産みます。主の守りの中で、イエス様はこの地に産まれてくださいます。
サタンは、産まれた「男の子」を食べてしまうことはできませんでした。それでもイエス様を執拗に狙って「十字架」に追い込みます。しかし、それらすべては神の御手の中で行われたことでした。
イスラエルが産んだ男の子は、神の御座に引き上げられます。主イエスは、十字架につけれら、葬られ、よみにくだり、御霊によってよみがえり、天に昇られました。
イスラエルが産んだ「男の子」こそ、鉄の杖をもって牧する方です。これこそ詩篇の預言の成就です。
十字架に架ける前に、人々はイエス様をさんざん愚弄しました。兵士たちは、イエス様に茨の冠をかぶせ、手に「葦の棒」を持たせたのです。
彼らは、王笏の代わりに「葦の棒」を持たせて、イエス様をからかったのです。
ここにサタンの性質が、現れているように思います。サタンは、誰よりも何よりも「権威」に執着しているのです。ゆえに「王笏」を取り上げたことに快感を覚え「葦の棒」を代わりに握らせるという嫌がらせをするのです。
しかし、イエス様は「ののしられても、罵り返さず、苦しめられても、脅すことをせず」すべてを御父にゆだねられました。
イエス様の苦しみは「模範」であるとペテロは言っています。
確かに、イエス様は「十字架」に架けられました。サタンは、主イエスを追い込んだように見えました。誰の目からみても「もう終わり」に見えました。いつもそばにいた12弟子さえも、イエス様をおいて逃げ出したのです。
同じように、聖徒の人生においても「追い込まれた」ように見える時期が必ずあります。「もう終わりだ」と思うことがあります。私にも、何度もありました。実際、今も、他の人から見れば、私は「もう終わり」に見えるでしょう。
しかし、私たちは知っています。
「終わり」は「始まり」です。
「死ぬ」ことがなければ「復活」はありません。
「低くされる」ことで「高く上げられる」のです。
主イエスは、私たちの模範です。イエス様の御足の跡を、私たちも行くのです。
私たちは見ます。
かつては「茨の冠」をかぶられた主が、栄光の「多くの冠」をかぶられる姿を。
かつては「葦の棒」を握られた右の手に、諸国の民を打ち砕く「鉄の杖」が握られるのを。
ですから、あなたは低くされることを恐れてはなりません。今、追いつめらていることは「敗北の証」ではありません。
イエス様が、天の父に完全に従われたのなら、私たちも完全に従うのです。
イエス様が、仕えるために来られたと言われるのなら、私たちも仕えるのです。
私たちは、主の力強い御手を信頼しましょう。主の御手の下こそ「安全」で「快適」な場所なのです。私たちは、主の御手の下に喜んでへりくだりましょう。
イエス様は、私たちの模範です。
低くされた方が「高く上げられた」のなら、私たちも「低い」ままで終わることはありません。
イエス様が「よみがえられた」なら、私たちも「よみがえる」のです。すべて、イエス様と同じようにされるのです。
イエス様が「引き上げられた」のですから、私たちも「引き上げられ」ます。
この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は 現われたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
私たちは、ただイエス様だけを仰いで歩み続けましょう。
シャロームを祈ります

