黙示録11:18
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも 報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。
偉大な力とは…
前回は、二十四人の長老たちの礼拝に注目しました。
今回は、長老たちが「言っていること」に注目したいと思います。
第七の御使いがラッパを吹いたとき、天では大声が湧き上がりました。
さて、何度も言いますが「第七のラッパ」は、ただ単に「第三のわざわい」の合図ではありません。
「第七のラッパ」は、この世の王国が「キリストのもの」となったことを宣言するものです。主イエスは、ここから「世々限りなく支配される」のです。
「第三のわざわい」つまり、神の御怒りの現れは「統治」の結果であると言えるかもしれません。
二十四人の長老は、大きな声の宣言を聞いて、御前にひれ伏し「統治者」である方を礼拝するのです。
二十四人の長老たちは、神である主が「王となられた」ことに感謝しています。主は「偉大な力」を働かせて「王となられ」ました。
永遠の支配(神の人に対する新しい主権の施行)が始まった。この神の主権が人間史において放棄されたことは一度もなかったが、神の知恵、奥義のゆえに、自発的に制限されてきた。しかし今や、主の永遠に向けての支配が始まった。「王となられた」:「支配を始められた」がより正確な訳。
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神の主権は、この天地において一度も放棄されたことはありません。主なる神は、永遠の昔から永遠の先まで「唯一の統治者」です。
しかし、私たちは一時の間、ご自身を低くされた方を知っています。
イエス様は、一時の間「御使いよりも低くされ」ました。
神の御姿であられるのに、そのあり方を捨てて「人」として地上を歩いてくださったのです。
イエス様は、自ら「人間と同じように」なられました。イエス様は「天上で持っておられた輝き」を捨てて「空しく」なられました。
イエス様は、御座を捨てて「十字架」を選ばれました。それは、御父への従順の現れでした。イエス様は、死を味わわれ、墓に葬られ、よみにまで下ってくださったのです。
ゆえに、御父はこの方を高く上げられます。
第七のラッパが鳴り響くとき「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった」と宣言されます。
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白します。すべてのものが、イエス様の御前に膝をかがめる日が来たのです。
主は「偉大な力を働かせて、王となられ」ました。
「偉大な力」とは何でしょう。イエス様は、どのような力を働かせて「王」となられたのでしょう。
神の力とは「十字架」です。
神の「偉大な力」は、十字架によって現わされました。
イエス様は、低くされることによって高く上げられました。死ぬことによっていのちを得られました。弱くされましたが、そこに「偉大な力」が現わされたのです。
十字架こそ「偉大な神の力の現れ」です。
主は「王」となられました。「支配」を始められました。
それは、権力によってではありません。威圧的な力によってでもありません。狡猾な策略によってでもありません。世の中の知恵によるものでもありません。それは、人の目には「愚か」に見える方法でした。
私たちは、永遠に「偉大な力」を褒めたたえて生きるのです。
時が来ました
イエス様は言われました。
私たちは、旧約の預言者たちの書に、イエス様についての預言が記されていることを知っています。聖徒なら、みな「イザヤ53章」を読んだことがあるでしょう。
しかし、イエス様について記されているのは「預言書」だけではないと、イエス様ご自身が言われたのです。
「モーセ五書」にも「詩篇」にも預言が記されているのです。そして、それらのすべてが必ず成就します。
ダビデは預言して言いました。
私たちは、この預言が成就することを黙示録によって知ります。
第七のラッパが吹かれたとき、ダビデの預言が成就します。
キリストは「偉大な力を働かせて、王となられた」のです。つまり、すべての敵が「足台」とされたということです。
しかし、地に住む人々は、もちろんそのようなことを認めはしません。ここから、悲しいことですが「光と闇」「神の聖徒と敵」が完全にはっきりと分けられるように思えます。
諸国の民は怒ります。彼らは何に怒りをぶつけているのかを完全には理解していないかもしれません。しかし、二人の証人が巻き起こした災害に怒っているのは間違いないでしょう。地に住む人々は、地に注がれた「わざわい」に対して怒っているのです。
エルサレムにおいては「天の神に栄光を帰す」人々が存在し、少し覚醒が起こるでしょう。しかし、地に住む人々は「彼らの偶像」から離れることはありません。
本当の「終わりの日」がいつなのかは分かりません。しかし、一つ言えることは、その日まで人々の生活は、今とさほど変わらないと言うことです。今、報道されているような事件は相変わらず起こっているでしょう。人々は「悔い改めなかった」と記されているとおりです。
詩篇は、国々の民が「騒ぎ立つ」ことを預言しています。地の人々は「主と油注がれた者」に敵対して立ち上がるのです。
主は、諸国の民を笑われます。これは、もちろん楽しい「笑い」ではありません。嘲りの笑いです。怒りの笑いです。主は激しく怒りを表されます。
「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました」
主は、王となられ「御怒り」を表されるのです。
イエス様は、王となられるために「十字架」を取られました。そして、王となられたあとは「鉄の杖」を取られるのです。
「牧し」とは、別訳では「打ち砕き」です。イエス様は「打ち砕く」ために「鉄の杖」を手にされるのです。「第三のわざわい」の激しさがどれほどであるのか、主の怒りの激しさを思うと本当に恐ろしくなります。
主の「御怒りのとき」は、同時に「死者がさばかれる時」だと長老たちは言っています。
もう一度、黙示録11:18を見ましょう
ここでは、わざわざ「時」という漢字が使われています。分かりやすいようにという配慮ですね。有難いです。
原語では「カイロス」と言うギリシャ語が使われています。これは「時間」を意味する「時」ではなく、神の「定められた時」「ちょうど良い時」を意味する言葉です。
すべてのものが膝をかがめて「イエス・キリストは主です」と告白する日が必ず来ます。
「そんな未来の話をしている時間はない。今、目の前の時で精一杯だ」と思うでしょうか。
確かに、私たちは目の前の出来事に翻弄されてしまいます。私も「未来の話より、今、現実の問題をどうにかしてくれ」と思うことがあります。
けれど、覚えてください。
「天の下には定まった時期がある」のです。そして、その「時」は常に「神の御手の中にある」のです。
「いつまで待てばいいのか」
「いつまで続ければいいのか」
「もう間に合わない」
「もう終わりだ」
私たちは常に「時」と争っているようです。アブラハムが「もう時間がない」と焦ったように、私たちも「自分の時間」を数えて動揺します。
しかし、私たちは知っています。アブラハムの「時」は終わってしまっても「神の時」は、まだ終わっていなかったことを。神の「定められた時」は、まだ到来していませんでした。
「人の時」と「神の時」は違うのです。私たちは「時間」を見ますが、神は「時間」に縛られてはおられません。私は、時々、主が「時間」をも創造されたのだということを忘れてしまうようです。そして、一人で勝手に焦ったり絶望したりしてしまうのです。
主は言われます。
私たちは、主を信頼します。主の「定めの時」は完全であることを信じます。
御父は、私たちの主イエスが「王」となられる時を定めておられます。死者がさばかれる時は定められています。
雀の一羽でも、御父の許しなしに地に落ちることはありません。私たちのほんのささいな「時」すらも、主は御手に中で定めてくださっています。あなたの「時」が御手の中にあることを信じなさい。
私たちも告白しましょう。主は、私たちの神です。そして「わたしの時は御手の中に」あるのです。
報いが与えられる時が来ます
さて、少し脱線しましたので話しをもとに戻しましょう(笑)
この「死者がさばかれる時」と言うのは具体的には何を表わすのか、少し難解ですね。
文脈から察するに、これは黙示録21章の「白い御座の裁き」ではないでしょう。
この「死者たち」は、主にある「死者」であると思えます。
彼らは「預言者たちと聖徒たち」であり「御名を恐れる者たち」です。そして、この「死者がさばかれる時」に、彼らには「報いが与えられる」と記されています。
そして、地においては「地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時」なのです。
ある人は、これを「第一の復活のことだ」と言います。(第一の復活については、また20章で学びます)
そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。ただ私には、今のところ、他に納得のいく聖書箇所を見つけることができません。
ただ、これはダニエルの預言したことの成就であろうとは思います。
ダニエルの言っている「目を覚ます多くの者」は、おそらく旧約時代の「預言者たちと聖徒たち」のことだと思います。
「死者のさばかれる時」とは、一般の人々、一般の死者たちがさばかれる日ではありません。「あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの皆を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時」と続くように、これは旧約時代の聖徒たち、預言者たちのよみがえる日です。ダニエル書二章二節に「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます」と記されている、あのことです。主イエスが栄光のうちに地上まで来られると、イスラエルの敬虔な者たちはみなよみがえります。
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二十四人の長老たちが言う「預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者」には、旧約時代の人々が含まれているのは確かだと思います。アブラハムもダビデも、その中に含まれているでしょう。しかし、それだけではなく、すべての神のしもべたちが含まれていると私は思います。
イエス様の統治が始まる時は、すべての聖徒に「報い」が与えられる時です。
そして、同時に「地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時」なのです。
これは、イエス様の「ミナのたとえ話」を思い起こさせます。
私たちは「商売をするように」と命じられたしもべです。この地に生かされている間、主のために「商売」をする必要があります。「どんな商売をするのか」は自由です。
王位を授かって戻って来た主人は、しもべたちが「どんな商売をしたのか」を尋ねます。そして、彼らの働きに応じて「報い」を与えるのです。
一方で「この人が王になるのを、私たちは望んでいません」と言った人々がいました。それらの人々を、主は「敵」と呼ばれます。
「身分の高い人」は「王位を授かって戻って来た後」で、自分が王になることを望まなかった「敵」を打ち殺します。
終わりの日には、これと同じことが起こります。
「統治者」として、イエス様は「しもべ」に報いを与えます。あなたは、イエス様に「どのような商売をしたのか」と尋ねられます。私たちは、いつの日か「統治者である方」の御前に出るのです。嬉しいような、恐ろしいような気がします。
私たちは「永遠のいのち」か「永遠の滅び」かという裁きを受けることはありません。イエス様を信じる者はみな、永遠に生きます。
私たちは「どんな商売をしたのか」という裁きを受けます。「しもべ」である者は「小さい者も大きい者も」みな「報い」を受けます。それは、各自の働きに応じた「報い」です。
一方、しもべでない者は「敵」と呼ばれます。イエス様が「統治者」であることを望まなかった人々は「滅ぼされる」のです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、神の恵みの「良き管理者」でしょうか。主は、あなたに与えられたものの「権利」を放棄されたわけではありません。それは、あなたに委ねられたものです。あなたは「管理者」ですが「所有者」ではありません。
私たちに与えられた賜物は「互いのために」用いるべきです。私たちは「互いに仕え合うために」賜物を受けたのです。
私たちは、一生懸命に「仕え合い」ましょう。それが、私たちの「商売」です。
それは「キリストを通して神があがめられる」ためです。そして、それこそ私たちの「儲け」です。
あなたが賜物を用いることによって、主に栄光が帰されるならば、あなたの商売は成功です。
あなたが語ることによって、キリストが高められますように。
あなたの奉仕によって、主が褒めたたえられますように。
私は預言者ではないけれど、大きい者でもないけれど「御名を恐れる者」でありたいと思います。
「御名を恐れる者」たち、「小さい者たち」にも報いが与えられます。
私たちは「主が王となられるのを望む者」です。イエス様は「王」となられます。
私たちは、この地で精一杯「商売」に励みましょう。ただ主の栄光のために賜物を用いましょう。
イエス様が仕えるために来てくださったように、私たちも「互いに仕え合い」ましょう。
偉大な神の力とは「十字架」です。私たちは、ただイエス様を見上げます。この世の知恵ではなく、この世のことばではなく「十字架のことば」によって生かされる者でありましょう。
シャロームを祈ります。

