2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録11章16節~17節】天の礼拝から学びます

再臨を待つ

黙示録11:16
すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。

前回の復習をかねて…

二人の証人が復活し、天に昇った後、エルサレムに大きな地震が起こります。

黙示録11:13
そのとき大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。

「七千人」とは、直訳すると「七千人の人々の名」です。

バーノン・マギー神学博士は、この人々はみな「著名人」であったと言います。これらの人々が、地震に巻き込まれたことは、翌日の新聞の見出しを飾るだろうと言っています。(マギー師の時代にはネットニュースはなかったのです)

彼らの全員が「著名人」であるのかどうかは分かりません。そうなのかもしれません。そうでないかもしれません。しかし、確かなことは、その「一人ひとり」は、その人に身近な誰かにとっては「著名人」以上であるということです。

「いのち」と「名前」が結びつけられていることを改めて思わされます。「七千人」の一人ひとりに「名前」があります。世界的に有名な人でなくても、その家族や友人には大切な「名前」があったのです。

患難時代には、数えきれないほどの人々が失われます。

しかし、覚えてください。イエス様のために「いのちを失う人」の名前は、永遠に失われません。「いのちの書」に名前が記されている人々は、たとえ「この地でいのちを失っても」永遠のいのちを得るのです。

この差は、非常に大きいものです。そして、深刻な差です。

この「七千人の人々の名」が失われたのかどうか、私には分かりません。

この地震は「携挙」であると解釈する学者さんもいますから、もしかすると全員「いのちの書」に記されていたのかもしれません。そして、もちろん、そうでないかもしれません。

私たちは「先のこと」を学んでいます。黙示録を学ぶ上で、最も大事なことは「学んだこと」を「今」に結びつけることです。「先のこと」は「関係ないこと」とするならば、この学びには何の価値もありません。

私たちは「自分の名」について確信を持っているでしょうか。

「私の名前は、いのちの書に記されている」と日々、感謝の中を歩んでいるでしょうか。

ルカ10:20
しかし、霊どもがあなたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

何よりも「天に名前が書き記されていること」を喜びましょう。

世の中の苦難は、確かに厳しく辛いかもしれません。それでも、あなたの名前は「天に書き記されて」います。御父も御使いたちも、あなたの名をが天に書き記されていることを喜んでいます。あなたも、一緒に喜びなさい。

そして、また、同時に覚えておかなければならないことがあります。

私たちの周囲には「天に名が記されていない人々」が、まだ大勢いるということです。

イエス様は「99匹」の羊を置いてでも、迷子の「1匹」を捜しに行かれる方です。主は「わたしには、まだ、囲いの外に他の羊がいる」と言われます。

患難期は、激しい御怒りの日、さばきの日です。主は、激しく怒られます。しかし、同時に多くの人の苦しみを見て、心を痛められるだろうとも思います。

私たちの神は、ヨナの時代にニネベの人々を惜しまれた優しい方です。今も、人々が滅びることを願ってはおられません。むしろ、悔い改めて生きることを望まれます。

私たちは祈りましょう。福音を宣べ伝えましょう。収穫の主に働き手を求めましょう。多くの人と「天に名が記されていること」を喜び合えるように、切に切に願い求めましょう。

私たちの祈りや種まきは、空しく地に落ちはしないと私は信じます。聖徒の祈りは積み上げられ、それが患難時代の聖徒の祝福になると私は信じているのです。

二十四人の長老たちの礼拝(4章と5章の補足)

さて、エルサレムに起こる大地震の後、天において使徒ヨハネはラッパの音を聞きます。

黙示録11:15
第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。
「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」

「この世の王国」は「キリストのもの」となりました。「もろもろの王国」ではなく「一つの王国」です。

原語でも、この世の「王国」は単数形の語が使用されています。

この世にはもろもろの言語、民族、国民がいます。「もろもろの王国」に見えますが、主は「一つの王国」とみなしておられるようです。

つまり、この世界は「この世の君」と呼ばれるサタンの国であったということです。

実際に、霊的な世界においては「サタンの支配」か「神の支配」しかないのです。多くの人は、自分は「中立」であると思っています。「神は信じていないが、サタンに支配されてもいない。自分は自分だ」と考えています。

しかし、中立などないのです。すべての人が「どちらか」に属しています。光の中にいないならば、闇の中にいるのです。神に立ち返っていないのなら、サタンの支配下にいるのです。(もちろん、それは「取り憑かれている」という意味ではありません)

「闇から光へ移される」「サタンの支配から神に立ち返る」ことが救いの本質です。救いとは「立ち位置」の問題なのです。世の人々に「中立」が存在しないように、聖徒にも「中立」などあり得ません。

第七のラッパが鳴り響いたとき、もろもろの声が叫びます。(この「大きな声」は複数形です)

「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される」

地上においては、まだ「闇」が支配しているように見えます。そして、その「闇」は、ますます濃くなるようにも思えます。しかし、天では「すでに成った」と宣言されるのです。

「二十四人の長老」たちは、それを聞いてひれ伏します。

黙示録11:16
すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。

黙示録は「啓示の書」ですが「礼拝の書」でもあると私は思います。

「二十四人の長老」たちは、今までにも登場しています。彼らは、神の御前に「自分の座」があるようです。しかし、たびたび、そこから降りて、ひれ伏し、礼拝をささげます。

「ひれ伏す」という行為は「礼拝」と必ず結びつけられています。「ひれ伏す」ことがなければ「礼拝」ではないと言えます。

黙示録には、天における礼拝が描かれています。それは、私たちが地上において「天の栄光」を垣間見ることができるようにと、主が恵みを与えてくださったのだと信じます。

天における礼拝は、ある意味において私たちの模範です。二十四人の長老は、神の御座の前で礼拝をささげているのです。それは、想像できないほど栄光に満ちた礼拝です。恐ろしくもあり、素晴らしくもあり、言葉では言い表せないような光景ですね。

私たちは、彼らの礼拝から学ぶことができるのです。

4章と5章を学んだときには、長老たちの礼拝について詳しくは話しませんでした。ここで少し「礼拝」について簡単に学びたいと思います。

使徒ヨハネが、初めて「二十四人の長老」を見たとき、彼らは白い衣をまとい、金の冠をかぶっていました。そして、その冠を投げ出して言ったのです。

黙示録4:11
主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

この時、長老たちは「創造主なる方」を礼拝していました。

私たちも「創造主」を称えましょう。すべてを「創られた方」をあがめましょう。創造主を礼拝することは「そのみこころ」がすべてであると認めることです。

主が「万物」を創造され、私をも造ってくださいました。そして、それは「私の人生」のすべてが御手の中に存在するということです。そのすべてを主が創造されたということです。

「創造主」である方を礼拝するとき、私たちは「自分の人生」は、すべて「みこころのゆえに存在し、創造されたのだ」と認めざるを得ません。それは、もはや「自分の人生」ではなく「主のご計画」なのです。

あなたは「主のみこころ」のゆえに存在します。主は、あなたを「望んで」創造されました。

「自分のもの」「当然の権利」と思っているすべてを御前に投げ出しましょう。何が「自分のもの」なのかにこだわるよりも、あなたが「誰のもの」であるのかにこだわりなさい。そのほうが重要だからです。

私たちは、創造主である方の御前にひれ伏し、礼拝をささげましょう。

次に、長老たちの礼拝が記されているのは5章です。このとき彼らは「新しい歌」を歌いました。

黙示録5:9~10
あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。

「巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方」とは、屠られた子羊であるイエス様だけです。

彼らは「贖い主」を礼拝しました。イエス様の血潮の贖いについて賛美したのです。私たちは「贖い主」であるイエス様を褒めたたえます。「贖い主」の前にひれ伏します。

イエス様を「贖い主」として礼拝するということは、イエス様が「すべてのことを完了してくださった」と認めることです。巻物を受け取られた方が「天においても地においても、一切の権威を持っておられる」と認めることです。

私たちは「イエス様の血」によって、贖われました。私たちは「イエス様の血」によって「王国」であり「祭司」です。イエス様の血によって、私たちは「地を治める者」とされているのです。

「贖い主」を礼拝するとき、私たちは、今一度「自分が何者であるのか」を確認します。あなたは、キリストの血によって「王国であり祭司」です。そして「地を治める者」なのです。イエス様の権威とともに歩む者です。

「贖い主」を思いましょう。御前にひれ伏し、その「贖い」が意味することを深く知りましょう。天においても地においても「贖い主」こそ永遠に称えられるべき方です。

「贖い」については、黙想すればするほど良いと私は思います。「贖い」について深く考えることは信仰を強くします。

「贖い主」への賛美は「新しい歌」です。「贖い」を受けた私たちは心の底から「贖いの歌」を歌える者です。私たちは「贖いの歌」を歌いましょう。繰り返し繰り返し「贖いの歌」を賛美しましょう。それは、私たちが天に行ったあとも歌われる賛美です。

屠られた子羊は、今も、天において褒めたたえられています。私たちも礼拝しましょう。天に声を合わせてほめたたえましょう。

黙示録5:12
彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」

第七のラッパのあとの長老たちの礼拝

さて、第七のラッパが響き渡った後の長老たちの礼拝を見てみましょう。

黙示録11:17
私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。

二十四人の長老たちは「感謝」をささげています。厳密に言うと「感謝」と「礼拝」は違うものです。

「感謝」とは、主が「してくださったこと」に対してささげるものです。

このとき長老たちは、主が「成し遂げられたこと」に対して感謝をささげているのです。

主は「今おられ」る方です。そして「昔おられた全能者」です。

ここで「後に来られる方」という称号が省かれていることに気がつきますね。

黙示録1:8
神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

主は「今おられ、昔おられ、後に来られる方」でした。この時点までは、主はそのような方だったのです。

しかし、第七のラッパが鳴り響いたとき、主はもはや「後に来られる方」ではありませんでした。それは、天において「成し遂げられたこと」となったからです。

主は「王」となられたのです。

「王となられた」は「統治を始められた」「支配を始められた」と訳すこともできます。むしろ、そちらの方が正確な訳であるという学者さんもいます。

今まで、主は、あえてサタンの自由にさせておられましたが、今から完全に支配権を取り戻されるのです。

二十四人の長老たちは「創造主」「贖い主」である方に礼拝をささげてきましたが、ここでは「統治者なる方」を礼拝しているのです。これは非常に重要なことです。

私たちは「全能なる神」を礼拝します。創造の偉大な御力を賛美します。贖い主を心から褒めたたえます。

しかし「統治者である主」を礼拝しているでしょうか。

いつも言いますが、私たちは「今だに」と「すでに」の間に生かされています。

確かに、イエス様はまだ「後に来られる方」です。しかし、この地において「すでに」御国の支配は拡大しているのです。

私たちは、今、生かされているこの地に「統治者」である方をお迎えしましょう。この場所は「すでに」主の支配の下にあると宣言するのです。

偉大な力を働かせて「王となられた方」「統治を始められた方」に感謝をささげましょう。そして「統治者」である主の御前にひれ伏し礼拝をささげましょう。

天において「創造主」「贖い主」「統治者である主」があがめられているのなら、地においてもそうあるべきです。

黙示録には「苦難」だけが記されているのではありません。黙示録には「天のこと」が多く記されているのです。私たちは、黙示録によって、ほんの少しだけ「天の光景」を見ることができます。それは、まるで雲の隙間から光が漏れだすようです。

天では絶え間なく礼拝がささげられています。そこには、主のご臨在があふれているのです。主の臨在を感じることができないことがないのです。常に「臨在」の中にいることができるのです。

それは、私の憧れです。この地において「御国の心地す」と歌いながら歩いて行きたいと切に望みます。

愛する兄弟姉妹。

天の故郷に憧れて生きましょう。御座に座す方を恐れつつ、慕い求めて生きましょう。

天を見上げて歩みましょう。「創造主」をあがめ「贖い主」を愛して、すべてを「統治」される方の御前にひれ伏しましょう。

私たちは、何よりもまず「礼拝者」であることを忘れずに生きましょう。

シャロームを祈ります。