黙示録10:8
それから、前に天から聞こえた声が、再び私に語りかけた。「行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」
開かれた巻物を受け取りなさいと言われます
前回は、黙示録10章7節までを学びました。
10章の時点では、まだ「第七の御使い」はラッパを吹いてはいません。
第七のラッパが吹かれるとき、神の奥義が実現します。
主は、その奥義を「ご自分のしもべである預言者たち」に知らせておられました。
預言者たちは「神の奥義」すなわち「キリスト」についての福音を告げ知らせて来たのです。
イエス様は、一度、この地に来られました。十字架に架かり、罪を背負われ、葬られ、そして、よみがえられました。イエス様に関する預言は、ことごとく成就しています。
後、残された預言は「主が再び来られ統治される」ということです。
残された「神の奥義」は、七つ目のラッパの音が響く「その日」に実現するのです。
正確には「その日々」です。七つ目のラッパが響く「その日々」に、奥義が実現していくのです。
一日ですべてが終わるわけではないようです。それが「三年半」を表わすのかどうかは定かではありません。
しかし、イエス様は言われました。
ですから、長く続くということはないと思われます。
主は、憐れみをもって、その「日数」を定めておられます。
神の奥義は、告げられたとおりに実現します。私たちは、神の奥義を告げ知らせた預言者たちの声に耳を傾けましょう。
旧約の預言書は、なかなか難しく感じるかもしれませんが、そこには「イエス様」が描かれているのです。「イエス様」を探しながら読むと、理解が深まるでしょう。
神の奥義の実現は迫っています。
けれど、その前にまだ「預言」があるのです。七つ目のラッパが吹き鳴らされる前に、使徒ヨハネは「多くの民族、国民、原語、王たちについて」預言しなければなりません。
「前に天から聞こえた声」とは、黙示録4章で「ここに上れ」と語りかけた声のことでしょう。
この4章の「ラッパのような声」は「あの最初の声」と呼ばれていますから、イエス様の御声です。
ですから、おそらく10章の「前に天から聞こえた声」も、主イエスの御声であると考えてよいでしょう。
イエス様が、使徒ヨハネに命じられたのです。
イエス様は「この後、必ず起こること」を示される方です。
イエス様が「開かれた巻物」を受け取るようにと、ヨハネに命じられるのです。この「開かれた巻物」には「この後、起こること」が記されていることは間違いないでしょう。
そして、それは恐らく、この後に続く「黙示録11章以降」の出来事が記されているのだと思います。
それを取って食べよと言われます
「開かれた小さな巻物」を使徒ヨハネは受け取ります。
「巻物を食べよ」とは、また不思議な命令です。
しかし、その昔、預言者エゼキエルも巻物を食べて、その後、預言しました。
「巻物」には、主のみことばが記されています。
「食べる」とは、それが「血肉」になることを示唆しているように思います。
主は、ヨハネに「みことば」を取り込んで欲しいと望まれました。それは、つまり、ご自身の思いと一つになって欲しいという願いでしょう。
預言者は、ただ「知ったことを告げる者」ではありません。主は、預言者と「知識」だけではなく「心」を共有されるのです。本物の預言者とは、神の心を共有する人です。
主のみことばは、私たちの口には「甘い」ものです。どんな時でも、みことばを知ることは楽しみです。喜びです。
エレミヤは、辛い状況にあっても「みことば」を楽しみとし、心の喜びとしました。
どんな状況にあっても、主のみことばは「蜜」のように私たちを元気にします。
しかし、また「それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」とヨハネは言っています。
預言者エゼキエルは「巻物」を食べた後、ヨハネと同じ経験をしています。
エゼキエルも巻物を食べました。そして、それはやはり「甘かった」のです。
その後、主は、エゼキエルに「わたしのことばを持って彼らに語れ」と命じられます。
エゼキエルは「苦々しい思い」に満ちて出て行きます。
「巻物」に何が記されていたのかはわかりません。ただ、確かなことは、巻物を食べたエゼキエルは「苦々しい思い」をうちに抱いたということです。
そして、おそらく使徒ヨハネに起こったことも同じようなことなのでしょう。
「苦くなった」ことと「苦々しい思い」とは違いますが、何か消化しきれないような思いが残ったということなのかもしれません。
エゼキエルと同じように、使徒ヨハネも巻物を与えられ、そして「預言せよ」と命じられます。
巻物を食べたヨハネに「あなたはもう一度、預言しなければならない」と告げられます。
使徒ヨハネは、今までも預言をしてきました。そして、「もう一度」預言するのです。
「巻物」を食べて、主のみことばと「一つ」になって預言するのです。
おそらく、巻物に記されていた内容を、ヨハネは理解することができなかったのではないかと思います。それが「苦くなった」理由でしょう。
理解はできないけれど「巻物」に記された「神の心」をヨハネは体感することになりました。そこに記されている「さばきの内容」とその奥にある「御思い」をヨハネは自分の中に取り込んだということです。
主は、私たちが「被造物」であることを理解しておられます。
私たちは、地のちりで造られた被造物です。主は、そのことを心に留めておられます。
しかし、それでも、なお、主は「人」にご自身の心を分かち合ってくださるのです。
ゆえに、主は、アブラハムにソドムとゴモラのさばきを告げられたのです。また、イサクを献げるようにと命じられたのです。主は、ご自身の痛み、悲しみをアブラハムと分かち合いたいと望まれました。
アブラハムは、すべてを理解したわけではありません。しかし、彼は、主と同じ痛みを自分のものとして経験しました。主は、アブラハムをご自身の痛みを経験する器として選ばれたのです。ゆえに、アブラハムは「神の友」と呼ばれるのです。
アブラハムは、ただ一人呼び出され、信仰によって歩むように召しだされました。それは、すべての人々の祝福となるためでした。それは「神の心」を分かち与えるための選びでもありました。
神の友として選ばれたアブラハムは、神の心の近くに引き寄せられるという特権にあずかりました。
アブラハムは、主とともに歩みました。それは「楽しく」「甘い」人生であったと言えます。しかし、同時に「苦み」も伴いました。彼は理解できないことを「信じて」歩むことを知らなければならなかったのです。
使徒ヨハネが経験したことは、アブラハムの人生に似ているのではないかと思います。
ヨハネは「理解できないこと」を信じて預言する必要がありました。主が、そのことを行われる理由を理解できなくても「主の心」を抱えて預言しなければならないのです。
黙示録の預言は、ここからまた雰囲気が変わります。私たちは、これを「知的好奇心」だけで読み進めてはなりません。頭で理解しようと謎解きに集中してはなりません。
理解は出来なくても信じて読み進めることです。そして、そこに「主の心」が見出せるように祈り求めましょう。黙示録を読むために必要なのは「信仰」なのです。
見えないものを見るために必要なのは「信仰」です。黙示録の奥に隠されている「神のこころ」を知るために必要なのは、アブラハムと同じ「信仰」なのです。
私たちは、みことばを「学ぶ」のではなく「食べる」のです。それは、みことばを「生きる」ということなのです。
ヨハネは登場人物となります
使徒ヨハネは、今まで「記録者」の立場でした。彼はただ「見ていること」しかできませんでした。
しかし、ここからヨハネは、ただ記録するだけではなくなります。彼は、黙示録の登場人物になります。
11章の内容については、次回から学びます。
今は、使徒ヨハネに「役割」が与えられたことに注目してください。
「巻物」を食べて、その内容を取り込んだヨハネに「するべきこと」が与えられるのです。
「巻物」を食べなければならなかった理由が、ここにあります。
あなたは「主のために何かしたい」「用いられたい」と思うかもしれません。
もし、そのように思うならば「巻物」を食べなければなりません。「巻物」を食べて、主の御思いを内に宿す者に「役割」が与えられるのです。
前回も言いましたが、この「告げられたとおりに」とは、直訳すると「福音が宣べられた」です。
「神が預言者たちに告げられたとおりに」は、脚注にあるように「神が預言者たちに福音を宣べられたように」と訳すのが正しいのです。~中略~
ここでは「福音」ということばが大事です。イエス様は福音を宣べ伝えるために来られました。エヴァンゲリゾマイというギリシャ語動詞は、「福音を宣べ伝える」と訳されますが、「哲学する」や「神学する」と言うように、もっと縮めて「福音する」と訳してもよいのではないでしょうか。
ヨハネの黙示録講解 村瀬俊夫著 いのちのことば社
「福音」とは「する」ものなのです。
イエス様は、私たちに「福音」してくださったのです。
「良い知らせ」は、外側で響き渡るだけでは救われません。「福音」は、信じなければならないのです。
そして「福音」を信じたならば、私たちは「福音」されます。その「良い知らせ」は、私たちの中で「いのち」となります。
神の国は「ことば」によってもたらされますが、その現われは「力」です。「福音」されたならば、必ず「力」に満ちあふれます。
私たちは、ただ「聞くだけ」で満足してはなりません。「みことば」を楽しむだけではなく「みことば」を生きる者とされましょう。
「みことば」を「食べる」ならば、その現われは必ず「力」となります。
イエス様は、みことばを教えられました。そして、そのみことばを生きられました。イエス様の人生は、まさに「福音」された人生です。
イエス様は癒しを行い、奇跡を行われました。目の見えない人が見えるようになりました。悪霊を追い出してもらった人もいました。
そして、弟子たちにも同じようにするようにと権威を与えられたのです。
みことばには「それに伴うしるし」があるのです。
私のうちにみことばが燃えている証拠は「しるし」をもって確かなものとされるのです。
愛する兄弟姉妹。
使徒ヨハネは、巻物を食べることによって「役割」を持った「登場人物」になりました。ヨハネは「黙示録」を記述する者から、その預言に「関わる者」となったのです。
主は、あなたにも「傍観者」ではなく「登場人物」になって欲しいと望んでおられます。
「うわさ」で素晴らしいことが起こったと聞くだけの者ではなく、実際に「神のわざ」を現す者になって欲しいと望んでおられるのです。
癒しや奇跡は、キリスト者の人生の「標準」なのです。ある預言者は「奇跡は、オプションではなく、標準装備だ」と言っています。
私たちが「弟子」であるならば、そうなのです。
私たちが「みことば」を食べて、一体となっているならば「しるし」が伴います。
私たちは、使徒行伝の「続き」を生きていると言われます。
私たちには、聖霊様が注がれています。ペンテコステの出来事の中心におられた方が、今、私のうちにおられるのです。
私たちは、聖書の物語を外から見る者ではなく、その「登場人物」となりましょう。
私たちは「預言」を聞いて学ぶだけではなく、「預言」の中を歩む者です。
実際に「主は近い」のです。世界情勢は、どんどん変化していくでしょう。ヨハネが預言したことは「実現」するのです。神の奥義は、必ず実現します。
私たちは、どこから「黙示録」を見るでしょう。外側から見ているだけならば、主の「こころ」は分かりません。
主が、預言者たちを通して「お告げ」を語られるのは、ただ警告するためだけではありません。
それは、ご自身の「こころ」を知らせるためです。
「人」が、ご自身のすべてを理解できるわけがないことを、主は承知しておられます。
それでも、その「こころ」を分け与えたい、知って欲しいと望まれるのです。
そのために「御霊」を与えてくださったのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちには「御霊」がおられます、キリストの「こころ」が与えられています。
御霊とともに歩みましょう。聖霊様は、私たちに「神のこころ」を教えてくださいます。
あなたが「神の友」であるならば、主は「こころ」を分かち合ってくださいます。
主に愛された弟子である「ヨハネ」が、黙示録を記すために選ばれたのは偶然ではないと、私は信じているのです。
黙示録10章は、とても大切な章であると個人的には思っています。この箇所が好きすぎるあまり、少し脱線してしまいましたが、本当にこの箇所は重要です。
私は、今一度、自分の中に「みことば」が燃えているかを確認しなければなりません。
「神のこころ」を切に知りたいと望む気持ちがあるだろうかと自問したいと思います。
次回も、ますます御霊に依り頼みながら学びを進めていきましょう。
シャロームを祈ります。

