黙示録1:5~6
また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。
恵みと平安があなたがたにあるように
三位一体の聖なる神から恵みと平安があなたがたにあるようにと、使徒ヨハネは記しています。
「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」と「御座の前におられる七つの御霊」からの恵みと平安を前回学びました。
今回は、最後に紹介されている方、私たちの主イエスについて学びます。
使徒ヨハネは、イエス様を「三つの肩書き」で呼んでいます。
まず、主イエスは「確かな証人」と呼ばれます。以前の新改訳では「忠実な証人」と訳されています。
「確かな」とは、「腹心の」「信用できる」などとも訳せます。
イエス様は、地上において「神を説き明かされ」ました。
主は、地上で「預言者の働き」をされました。
父なる神様は、御子イエスについて言われました。
御父は、イエス様について「彼の言うことを聞け」と言われたのです。
私たちは、イエス様の言われることを聞かなければなりません。
この方は「確かな証人」だからです。
私たちは、自分を信じることは出来なくても、イエス様を信じることはできます。
私は、自分のうちに真実がないことを知っています。しかし、イエス様は真実です。この世のどこにも真実が見つからない時でも、この方だけは真実です。
イエス様は「御父の愛」の証人です。神は「愛」であることを、その身をもって明らかにしてくださいました。
ただ言葉をもって「愛しているよ」と言われただけでなく、事実、死んでくださったことにより明らかにしてくださったのです。
十字架の死は、神の愛の証です。これ以上、確かな証拠はありません。
私たちは、誰も「神は私を見捨てた」「神は私を愛しておられない」と言うことはできません。
覚えてください。
黙示録は、この方、つまり「死によって神の愛を明らかにしてくださった方」からの啓示です。
私たちは、この方が「恵みと平安があなたがたにあるように」と言われるとき、その御思いを疑うことはできません。
イエス様は、心から「恵みと平安」を与えたいと望んでくださっています。
死者の中から最初に生まれた方に続く者
「ぶどう畑」とは、イスラエルのことです。
主は、ぶどう畑であるイスラエルのために「ありとあらゆること」をされました。
石を除き、やぐらを立て、ぶどうの踏み場を造り、ぶどうがなるのを心待ちにしておられました。
「特選のぶどう」を植えたのです。甘い良い香りのする実を楽しみにしておられました。
しかし、待ったあげく実ったのは「酸いぶどう」であったのです。
「酸いぶどう」とは、酸っぱいぶどうというより「腐ったぶどう」のことのようです。
「腐った」とは「異臭を放つ」ということです。
イスラエルは「異臭を放つ国」になったのです。
この箇所を読むと、心が痛くなります。
もちろん、これはイスラエルに言われていることです。しかし、私にまったく関係がないとは言えません。
イエス様は「死者の中から最初に生まれた方」であると使徒ヨハネは紹介しています。
イエス様は、死んでよみがえられました。
それは、いったい何のためにでしょう?
イエス様がよみがえられたのは、私たちが「義と認められるため」です。
すべての罪を情欲や欲望とともに、十字架につけ葬り去ってくださいました。
イエス様は、罪を葬られ、ご自身は「死者の中から最初に生まれた方」となってくださいました。
それは、私たちが「義と認められ」「新しいいのちに歩むため」です。
御父が「キリストの死によって愛を明らかにされた理由」がお分かりになるでしょう?
義と認められ、新しいいのちに歩む者に、御父が期待しておられるのは「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ことです。
「新しいいのちに歩む」とは「キリストのうちにある」ということです。
もはや、私は私自身のためには生きません。古いものは過ぎ去ったのです。
もし、私が「自分のために生きている」のなら、私は「新しいいのちを歩んではいない」のです。
「自分のために生きている」なら「古いものは過ぎ去って」いないのです。
いつの時代も、御父が期待しておられるのは「実」です。それは、良い香りを放つ実です。
御父が期待しておられるのは、私たちが「死者の中から最初に生まれた方」に続く者とされることです。
イエス様は、黙示録を「しもべたち」に啓示されたのです。
私たちは「「死者の中から最初に生まれた方」に続く者でしょうか?
イエス様は、来臨の時のよみがえりに至るまで、すべてのことにおいて、ご自身の後に続くようにと、私たちを招いておられるのです。
地上の王たちの支配者として
イエス様は「地の王たちの支配者」です。
その日、イエス様は栄光の雲とともに来られます。
地上に残されていた人々は、みな、それを見ることになります。
イエス様は、今、すでに「天においても地においても、すべての権威を持って」おられます。
しかし「地上の王たちの支配者」として、完全に明らかにされるのは「再臨後」のことです。
それは「千年王国」において実現します。
ヨハネは、おそらく「過去」「現在」「未来」の主イエスについて言及しているのではないかと思います。
「確かな証人」として地上を歩かれた方は、十字架で死なれ「死者の中から最初に生まれた方」として、今、おられます。そして、「地上の王たちの支配者」として後に来られる方なのです。
そして、これらすべてのこと、私たちの目から見て「後に起こること」もすべて、すでに成し遂げられたことであるということです。
私たちは、今、終りの時代を生きています。
「今引き留めている者」が何であるか気になるところでしょうが、私たちが、まず注目しなければならないのは「不法の秘密はすでに働いている」ということです。
敵は、2000年以上前から画策しているのです。いえ、もっと前から、ずっと画策し続けているのです。
「不法の人」が現れるお膳立ては着々と進んでいます。
世の中が、何やらおかしなことになっていることは、もう誰の目にも明らかです。
「不法の秘密」が、徐々に姿を現し始めているのではと思えます。
この先「疫病」は絶えることはないだろうと思います。一つ収束したら、また別の疫病が必ず流行るでしょう。
それが、人為的なものかどうか、私には分かりません。ただ「不法の人」が現れるために必要なものは整えられるだろうと思うのです。もちろん、これは個人的な意見です。
人々の愛は冷えます。その代わり、偽りの愛が横行するでしょう。そして、聖徒もそれに騙されます。
反キリストの霊は働いています。人々の背後で動いています。世界の人々は、反キリストの霊に導かれて、多くのことを画策することになります。すでに画策されていると思います。
それが、最終的にはハルマゲドンに導かれていくことになるのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは目を覚ましていましょう。
ある人は言います。
「どうせ携挙されるのだ。大患難の時には教会は地上にはいない。黙示録を真剣に学ぶ必要はない」と。
もし、あなたがそのように考えているのならば、「反キリストの霊」に惑わされることになるでしょう。
「不法の秘密」は、もうすでに働いています。それは大患難の時だけ働いているのではないのです。
今、すでに「選ばれた者たちを惑わそうと」働いているのです。
覚えてください。
偽預言者は、さも「偽者です」というふうには現れません。人々は、イエス様を「悪霊につかれている」と言ったのです。
しるしや不思議を、すべて信じてはいけません。しかし、また逆も同じなのです。しるしや不思議のすべてが「怪しい」わけではありません。
「預言」をすべて受け入れてはいけません。しかし、また「本当の預言」があることも事実です。
「では、どうすればいいのですか?」と、あなたは思うでしょう。思って欲しいのです。
どうか「自分で」御言葉を読んでください。
常にしつこいぐらい言っていますが、自分で「調べる」ことが重要なのです。
反キリストは「巧言をもって」つまり「いい感じのことを言って」、人々を堕落させるのです。
しかし「契約」つまり「神のことば」に誠実であれば騙されません。
神を「自分の神」として知る人は堅く立てます。
国々は騒ぎ立ちます。国民は空しいことを企みます。地の王たちは、主に立ち向かうために集まります。
しかし「天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られ」ます。
目を上にあげ、主の御座を仰ぎます。
私たちは揺り動かされません。
地上で反キリストの霊が何を画策しようと、私たちは怯えて立ち止まる必要はありません。
「不法の秘密」は働いています。
しかし、主はその企みをすべて知っておられます。そして「嘲笑って」おられます。
私たちの主は、なんと大きく恐れ多く、そして頼もしい方でしょうか。
この主を、自分の神と呼べる幸いに感謝します。
私たちは、堅く立てます。主が私たちの神であられるので、私たちは決して倒れることはありません。
全能者がこう言われます
黙示録の初めに、主がこのように宣言してくださることを覚えましょう。
これから起こる、すべてのことは「全能者」である方の御手にあるのです。
「アルファでありオメガである」とはヘブル語だと「アレフからタウまで」です。英語だと「AからZまで」で、日本語だと「アからンまで」ということです。
つまり歴史における「筋書き」のすべてを、主が把握しておられるということです。
「初めに天と地を造られた」ときから「新しい天と新しい地」に至るまでのストーリーは、すでに定められているのです。
イエス様は言われました。
旧約聖書に記されている「イエス様についてのこと」は、すべて成就するのです。
さあ、聖書を調べましょう。
そこに記されている「イエス様についてのこと」を調べてみてください。
それらのすべてが「成就」します。
イエス様は、私たちを愛してくださいました。その血によって罪から解き放ってくださいました。
それは、もうすでに成就したことです。
私たちは、主の愛を疑うことはできません。その血潮を無駄にすることはできません。罪から解き放たれたのです。解き放たれた者として歩まねばなりません。
私たちは「祭司の王国」の一員です。
天の御国では、みなが「祭司」なのです。そうでなければならないのです。
新しい都では「全能の神である主と子羊が、都の神殿」です。
祭司でなければ「神殿」「神の聖所」で仕えることはできません。ゆえに、新しい都においては、すべての人が「祭司」なのです。
私たちは、すでに「祭司の王国」の一員です。王である祭司です。
この地においても「御顔を仰ぎ見る」ことができるのです。主を礼拝し、主に仕えることができるのです。
この素晴らしいことのいっさいを、イエス様は成し遂げてくださいました。
そのことを思うとき、使徒ヨハネと同じように主の栄光を賛美せずにはいられません。
私は、私を献げて生きます
一つの証を紹介します。
今日、私たちは皆、リバイバルの必要性を意識しているのではないでしょうか。
リバイバルについて研究したことがあるなら、すべてのリバイバルの中で「フォン・ツィン・ツィンツェンドルフ伯爵」に導かれたモラビア兄弟団で起きたことが、最も純粋だったことを知るでしょう。
祝されたディボーションのために ジョセフ・S・キャロル著 いのちのことば社
このモラビア兄弟団を導いた「フォン・ツィン・ツィンツェンドルフ伯爵」の話です。
ある日、伯爵はドイツで画廊を訪れました。
多くの素晴らしい絵画がありましたが、伯爵の目は一枚の絵に釘付けになりました。
彼は、何時間も何時間も、その絵の前に立っていました。
閉館の時間が来ても、まだその場を動かないので、とうとう管理人が彼に近づき、もう閉館の時間であることを告げようとしました。
管理人は彼の肩に手をかけました。しかし、言葉は飲み込んでしまいました。なぜなら、その時、若い伯爵の頬に涙が伝っているのが見えたからです。
伯爵の前には、ほふられた小羊の素晴らしい絵があり、その下には次の言葉が書かれていました。
「この一切をわたしはあなたのためにした。あなたはわたしのために何をしたか」
この、十字架にかけられたキリストの絵の前で、聖霊が語ったのです。
そして「ニコラス・フォン・ツィン・ツィンツェンドルフ」は、その日、心砕かれたのです。
祝されたディボーションのために ジョセフ・S・キャロル著 いのちのことば社
イエス様は、あなたのために一切を成してくださいました。
これら一切を、あなたのために成してくださった方が、今、招いておられます。
「この一切をわたしはあなたのためにした。あなたはわたしのために何をしたか」
私は、砕かれた心を持って御前に行きます。
そして「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きます」と言います。
主に栄光と力が世々限りなくありますように。
祝福を祈ります。