【黙示録1章4節~5節】恵みと平安があなたがたにあるように

再臨を待つ

黙示録1:4~5
ヨハネからアジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られれる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

ヨハネからアジアにある七つの教会へ

ヨハネは黙示録を七つの教会に宛てて送りました。

それは「ヨハネから」送られましたが「宛先」を決められたのは主イエスです。

黙示録1:11
その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」

黙示録は、これらの「七つの教会」へ送られました。

イエス様が、なぜ「七つの教会」をお選びになったのかは分かりません。当時、他にも教会は存在していました。ラオディキアの近くにはコロサイもあったのです。

イエス様が、何らかの意図をもって「七つの教会」をお選びになったことは確かだと思います。

「七つの教会」がある地域は、郵便物を集配する拠点であったと言われています。多くの郵便物が「七つの地区」に集められて、そこから、各町々、村々へと配送されていたようです。

「黙示録」も、おそらく「七つの教会」から「諸教会」へも送られていったのではないかと思います。

イエス様は、一石二鳥どころか三鳥も四鳥もの方ですから、そのような物理的な理由もあったかもしれません。

また「七つの教会への手紙」は、当時の迫害下にある聖徒たちを励ますものであるとも言われます。

もちろん、そうであろうと思います。彼らには、本当に励ましが必要でした。使徒ヨハネからの手紙というだけで、彼らは大いに励ましを受けたことでしょう。

しかし、黙示録は、当時の教会のためだけのものではありません。

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」と言われている通り「全時代」の「諸教会」に宛てられたものであると私は信じています。

「七」は「完全数」と呼ばれます。「七つの教会」は「完全な教会」と解釈することもできますね。

教会は「全時代」を通して「完全」となるのです。

私たちの時代には、今までのどの時代よりも「神のことば」が明らかにされていると思います。これから、ますます明らかにされると信じます。

しかし、それは、過ぎ去った時代の聖徒たちがつないできた過去があってのことです。

多くの聖徒たちが「神のことばとキリストの証」のために命をかけて戦ってきました。

命がけで聖書を翻訳し守ってきた聖徒たちがいます。

命がけで海を渡り福音を携えて来た宣教師たちがいます。

終わりの時「教会は完全になる」のです。それは、現在の私たちだけでなく、過去からずっと信仰の歩みをつないできたすべての聖徒が合わさって「完全」となるのです。

「七つの教会」はそのことを意味しているのだと個人的には信じています。

ですから、これらの「七つの教会」は、当時の迫害下にあった教会のことだけでなく「全時代の教会」を現わしていると考えます。

地図を見れば分かりますが「エペソ」からスタートして「ラオディキア」をゴールとすると、所謂「馬蹄形」が浮かび上がります。「半円周」とも「U字型」とも「円形」とも言われます。

そして七つの教会について読むとおわかりのように、後で書かれている教会に主の再臨の約束が出てきます。いよいよ教会が世の終わりに向かっていくことが明らかになります。つまりクロノロジーは見えてくるのです。
世の終わりが来る 奧山実著 マルコーシュ・パブリケーション

クロノロジーとは、時間的順序、年代順のような意味と思ってください。

詳しいことは、また黙示録の2章と3章において学びますが、七つの教会を学ぶと「教会史」もなんとなく分かるようになるということです。

私たちは「御霊が諸教会に告げること」を聞きましょう。それを聞いて、そこに書かれていることを守る者とされましょう。

黙示録は、主から「あなた」への手紙なのです。

恵みと平安があなたがたにあるように

ヨハネは「恵みと平安」があるようにと記しています。

そして、その「恵みと平安」を与えてくださる方について紹介しています。

黙示録1:4
ヨハネからアジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られれる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、

黙示録1:5
また確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

パウロも手紙の最初に「恵みと平安がありますように」とよく記しています。

ここでは「三位一体の神」が私たちに「恵みと平安があるように」と言ってくださっているのです。

これは順序が大切ですね。

「恵み」が先にあっての「平安」です。恵みが先行するのです。

何事においてもそうです。

黙示録を理解したいならば、私たちは「神の恵み」のうちにいる必要があります。

終わりの時代には「平安」を失うような出来事が多く起こります。心を揺さぶられるようなことが起こるのです。

世の終わりだけが「終わり」ではありません。

私たちは、人生の中で様々な終わりを迎えます。

学校を卒業したり、仕事を退職したり、失恋したり、夢を失ったりするでしょう。

そして、すべての人が人生の終わりをいつか迎えます。

どのような人にも、何がしかの終わりの日はあります。どのような人にも終わりは来ます。

力尽きることもあります。

無力を感じることもあります。

失望することも、動揺することもあるでしょう。

私たちの心は、いとも簡単に平安を失ってしまうものです。

しかし、どのような終わりの日でも「恵み」を見出すことはできるのです。

大洪水を生き抜いたノアは、終りの時代の聖徒の型です。

創世記6:8
しかし、ノアは主の心にかなっていた。

「心にかなっていた」を直訳すると「主の目の中に恵みをみつけた」となります。

御心にかなう歩みとは「主の目の中に恵みを見つけ」ながら歩むことです。

それが「終わりの時代の聖徒」の歩み方なのです。

愛する兄弟姉妹。

あなたの心が「平安」を失ってしまったときには、どうか「神の御目」を見つめてください。

主の目には「恵み」があるのです。

そして「恵み」があるならば、必ずそこに「平安」が伴います。

三位一体の聖なる神は、あなたに今日も言われます。

「恵みと平安があるように」と。

黙示録は「恵みと平安」の書であることを覚えてください。

黙示録を学ぶことは、主の恵みを知ることです。そして、恵みに伴う平安を得ることなのです。

今おられ、昔おられ、やがて来られる方から

「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」から恵みと平安があなたがたにあるように。

「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」とは、御父のことを表していると言われます。この意見には、ほぼ異論は見られません。

ただ、黙示録には「御父」ということばは使われていませんから「神である主」とお呼びした方がいいのかもしれません。

この方は、その昔、ご自身のことを「わたしはあるという者である」と言われた方です。

出エジプト3:14a
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある」という者である。」

「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」とは、この「わたしはあるという者である」を暗示していると言われます。または、意訳しているとも言われます。

「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」:イスラエルの神 ‘ヤーウェ’に対して、新約聖書のどこにも用いられていない表現。出エジプト3:14からの神の名を意訳した表現で神の永遠性と不変性を表示。
一人で学べるキリストの啓示 フルダ・K・伊藤著 文芸社

神は永遠にして不変です。神は全能者です。

この方は、ダニエル書の「年を経た方」と同じ方です。

ダニエル7:13
私がまた、夜の幻を見ていると、
見よ、人の子のような方が
天の雲とともに来られた。
その方は「年を経た方」のもとに進み、
その前に導かれた。

この方は「初めにことばとともにおられた神」です。私たちは、自分の知恵でこの方を知ることは決してできません。

ヨハネ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられたひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

私たちは御子イエスによって「御父」を知ります。そして、イエス様を見続けることによって「初めからおられる方」を知るのです。

Ⅰヨハネ2:14a
幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。
父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。

使徒ヨハネが言う「幼子」や「父」とは、ただ年齢のことだけを指してしるのではないと私は思います。

「幼子たち」とは、御父の愛を知るようになったばかりの聖徒のことでしょう。

そして「父たち」とは、主イエスとともに歩き続けている聖徒のことを言っているのだと思います。

「父たち」は、もちろん「御父」を知っています。そして、今は、御父が「初めからおられる方」であることを知るようになった人たちのことです。

黙示録には「初めからおられる方」が表されています。

私たちは「初めからおられる方」を思いましょう。この方を知ることができるように求めましょう。

「愛する天の父」が「初めからおられる方」であると知ることができるのは恵みの御業です。それは、信仰から信仰へと進むことです。

パウロは言います。

ローマ11:33
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

御霊とともに歩む聖徒は、このように感嘆するようになります。

神の知恵、知識の富が測り知れないことを実感するからです。神のご計画の全貌を見極めることなど、人には不可能であると悟るようになるからです。

しかし、すべてが分からなくても、この先に何が起こるのか理解できなくても、今、何が起こっているのかと動揺したとしても、それでも「この方の計画は完全である」と信じることができる、それが「父たち」と呼ばれる聖徒なのだと私は思います。

彼らは「初めからおられる方」こそ「今もおられ」「後に来られる」ということを知っているのです。そして、この方こそ「すべてを御手に治めておられる」ということを知っているのです。

ローマ11:36
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

私たちが黙示録を学んだ後で、このように告白できるのなら幸いです。この学びは益となりました。

「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」がすべてを発せられ、すべてを成し遂げられます。そして、すべては、この方に至るのです。

「やがて来られる方」とは、直訳すると「来られつつある方」です。

すべてのことが成り、そして、すべてのことが神に至る日が「来つつ」あります。

すべては「発せられた方」に至ります。

私たちは「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」を誉めたたえます。

この方のご計画をすべて理解できなくても、信じて誉めたたえます。

なぜなら「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」は、こう言われるからです。

「恵みと平安があなたがたにあるように」

神である主が、黙示録を通して、あなたに与えたいと望まれるのは「恵みと平安」なのです。

御座の前におられる七つの御霊から

「御座の前におられる七つの御霊」から恵みと平安があなたがたにあるように。

「七つの御霊」とは、もちろん聖霊様のことです。

「七つの」とは、完全である聖霊を表しているのでしょう。

もちろん、この方は「完全」です。

様々な働きにおいて、賜物において、力、愛、慰め、聖さ、すべてにおいて完全です。

聖霊様は「神の目」です。

黙示録5:6
また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。

屠られた子羊、すなわち主イエスは「七つの目」を持っておられます。

ゼカリヤは、このことを預言して言っています。

ゼカリヤ3:9a
見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。
一つの石の上には、七つの目がある。

神殿を建てるための礎石とは、主イエスの予型です。この石の上に「七つの目」があるのです。

またゼカリヤは言います。

ゼカリヤ4:10
だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。人々はゼルバベルの手にある重りの縄を見て喜ぶ。これら七つは、全地を行き巡る主の目である。

これら「七つ」とは、ゼカリヤの見た「七つのともしび皿のある燭台」のことでしょう。

御霊は「全地を行き巡る主の目」です。

ゼカリヤ書は、たいへん興味深い預言書です。けれど、今回は詳しく学ぶ時間はありません。また機会が与えられたなら一緒に学びたいと願います。

今は、御霊が「主イエス」とともにおられたこと、そして、全地をあまねく見渡しておられることが分かれば十分です。

世界中を駆け巡り、すべてのことを見ておられるのは聖霊様です。

その昔、主イエスの上に鳩のように降られたのは聖霊様です。

主イエスが、地上を歩かれたとき、片時も離れず導かれたのは聖霊様です。

そして、今、私を満たし、ともに歩いてくださるのは聖霊様です。

私たちとともにおられるのは「全地を行き巡る主の目」と呼ばれる方です。この方こそ「全知全能の神」であられるお方です。

万軍の主は「権力によらず、能力によらず、わが霊によって」と言われます。

イエス様は「人間と同じように」なられました。地上において「神のあり方を捨て」られました。

ただ聖霊に満たされて歩まれたのです。

それは「権力によらず、能力によらず、わが霊によって」と言われる方の御力によって歩まれたということです。

イエス様は、天に上げられる前に言われました。

使徒1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

聖霊が臨まれるとき、私たちは「力」を受けます。私たちは、みな、力を受けます。

しかし、私たちは「聖霊の力」をまだ十分に現してはいません。

私たちは、聖霊によって「もっと大きなわざ」を行うことができます。

私たちは、聖霊によって「もっと愛すること」ができます。

私たちは、聖霊によって「もっと赦すこと」ができます。

私たちは、聖霊によって「もっと大胆に語る」ことができます。

使徒4:29~30
主よ、今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせてください。

終わりの時代を生かされている私たちは、ますます「聖霊の力」が現わされるように祈りましょう。

初代教会の聖徒たちが「脅かし」を経験して、なお大胆に求めたように、私たちも祈り求めましょう。

聖霊様は、主イエスと地上を歩かれたように、私たちとも歩いてくださいます。

私たちは「全地を行き巡る主の目」である方とともに「地の果てまで神の証人」となれるのです。

たとえ宣教師になって、世界の国々に遣わされることができなくても「祈りの宣教師」になることはできます。

「全地を行き巡る主の目」がともにおられるのです。

私たちは祈りましょう。私たちには見えないすべてのことを聖霊様が見てくださいます。

私たちが行くことのできない場所に、聖霊様が行ってくださいます。

私たちには理解できない、あの人の心を、聖霊様は理解してくださいます。

聖霊様は「全地を行き巡る主の目」です。「全知全能の神」です。「完全な御霊」です。

「恵みと平安があなたがたにあるように」

完全な御霊が、あなたに「恵みと平安」を与えてくださいます。

黙示録は「七つの御霊」と呼ばれる方からの「恵みと平安」にあふれている書です。

最後に紹介されているのは主イエス様ですが…

「神である主」と「完全なる御霊」を紹介した使徒ヨハネは、最後に「愛する主イエス」を紹介しています。

しかし、残念ですが、今回は「主イエス」について学ぶ時間がありません。

主イエスについては、次回、学びたいと思います。

使徒ヨハネは、主イエスについては、特別に長く紹介しています。

それは、もちろん黙示録が「イエス・キリストの黙示」であるからでしょう。

そしてまた、使徒ヨハネにとって「特別に慕わしい方」であったからだと思います。

もちろん、それは「三位一体」を否定しているわけではありません。

「三位一体」という教理は、私には難しすぎて上手く説明することはできません。

私が一番分かりやすいと思った説明を一つ紹介しておきたいと思います。少しは理解の助けになるのではと思います。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

クリスチャンになったユダヤ学者によると「ただひとり」にあたるヘブル語は「エハッド」で、複合体の唯一を表しているのです。単体の唯一は「ヤヒッド」という言葉によって表されます。「エハッド」は、ぶどうの「ひと房」や「民はみな、ひとりの人のように…(ネヘミヤ8:1)」のごとく使われます。したがって、この聖句の中にも、神が「父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神」の三者にしてひとつとなっておられることを啓示しているのです。

なるほど申命記 小山大三著 岐阜純福音出版会

私は「三位一体」を理解はできません。

しかし、私は「それが真理である」ことを心で知っています。

説明はできないけれど、その麗しい聖なる交わりを思い巡らすとき、私の心は喜びに満たされます。

私のうちにおられる御霊により、私もその交わりの中に入れられたのだと思うと、感謝でいっぱいになります。

聖なる三位一体の神から「恵みと平安があなたがたにあるように」

黙示録は、ただの預言書ではありません。

それを朗読し、聞いて守る者に「幸い」が約束されている書です。

黙示録は、後に必ず起こる事が記されていますが、それは「恐れ」や「混乱」を招くために記されたのではありません。

主にある者に「恵みと平安があるように」と願って記されたものです。

黙示録1:4~5
ヨハネからアジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られれる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

これを読む、あなたの上に、主からの恵みと平安がありますように。

祝福を祈ります。