黙示録1:13
また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。
その声は背後から響きます
私は、使徒ヨハネが「主の日」と呼ばれる日に、礼拝をささげていたのだと信じています。
礼拝をささげることは、主のご臨在のうちに入る鍵であると私は信じています。
主が、私たちを捕らえてくださったならば、すべてのことは変えられると信じています。
使徒ヨハネは「パトモス島」から解放されたわけではありません。しかし、御霊に捕らえられたとき、彼の視点は完全に変えられました。
その声は、ヨハネの背後から聞こえたようです。
ヨハネは背後からの声に反応し振り返りました。
ヨハネは「声を見ようとして」振り向いたのです。
つまり、主はヨハネの背後におられたということになります。
愛する兄弟姉妹。
主イエスが背後におられることを覚えてください。
私たちは、自分の進む方向を見て「落胆」したり「失望」したりします。
どう見ても、そこに「何も見出せない」からです。
使徒ヨハネもそうだったでしょう。
この先、自分が解放される見込みはあるのか?
このまま、ここで朽ち果てるのか?
残されている教会の兄姉は無事だろうか?
そのような思いの中、礼拝をささげていたのではないかと想像します。
しかし、主の御声は「背後」から響きました。
あなたの前に「光が見いだせない」そのような時は「背後」に主がおられることを覚えてください。
あなたの目は、時々、涙で曇ってしまうでしょう。その昔、マグダラのマリアがそうであったように。
イエス様を失ってマリアは「絶望」していました。あの時も、イエス様は「背後」におられたのです。
この後、背後に立っておられたのが主イエスであったとマリアが気がつく場面は「聖書の中で最も美しい絵画」などと呼ばれます。
確かに、人が「主イエスに出会うとき」は、いつでも「最も美しい」瞬間です。
私たちは「背後」におられる方を一瞬見失って、おろおろすることがあるのです。しかし、主は私たちを決して見捨てられることはありません。
「振り向かせる」のは、ご自身だけを見て欲しいと望まれるからです。そして、そこから「視点」を変えさせるためです。
「わたしを見なさい」と主は言われます。
マリアもヨハネも「振り返って」主イエスを見出し、そして「新しい使命」を与えられています。
涙はぬぐわれ、目は開かれました。
どうすればいいのか分からないならば、ひざまづいて礼拝すればよいのです。
前に進めないと嘆いているなら、その場で礼拝するのです。
主は、おそらく「背後」におられます。
そして「振り返って欲しい」と望んでおられるでしょう。
「どうすれば?」
「何をすれば?」
そのような思いで私たちは、目を凝らして前方を必死で見ようとしています。そこから目を離すのです。
「物」と「事」から目を離し、振り返って、主だけを見上げるのです。
そうすれば「視点」が変えられます。
そうすれば「見える」ようになります。
そして、そうすれば、私たちが及びもつかないような「使命」を主が与えてくださいます。
ヨハネに与えられた使命は「見たことを記して七つの教会へ巻き物を送ること」でした。
金の燭台の真ん中に立っておられます
ヨハネが振り返ってみると、まず「七つの金の燭台」が目に入りました。
そして、その真ん中に「人の子のような方」が立っておられるのが見えました。
恐らくですが、ヨハネは「人の子のような方」が主イエスであると分かっていただろうと思います。
しかし、ヨハネが親しく語り合った「あの方」とは、かなり様子が違ったので戸惑ったのではないでしょうか。
ゆえに「人の子のような方」という表現になったのではないかと思います。
確かに、ヨハネに現れてくださった主イエスは、理解し難いお姿をしておられます。想像するのも難しいですね。
「人の子のような方」は「足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めて」おられました。
「足まで垂れた衣」とは「長服」のことでしょう。
「長服」と「胸の帯」は、祭司の装束です。
また「長服」は「高貴な方」の衣装でもあります。
「金の帯」の「金」は、神性もしくは王族であることを表すと言われます。
つまり「人の子のような方」は「王である祭司」ということです。
そして、ダニエルに現れた「亜麻布の衣をまとい、ウファズの帯を締めた人」と同じ方であろうと思われます。
ダニエルに「終わりの日のこと」が告げられた時にも、この方はおられました。
主は「この後、起ころうとしていること」を啓示される時には、いつも「長服と金の帯」を身に着けた姿で現れてくださっているのかもしれません。
それは、啓示を受ける私たちに励ましを与えるためではないかと思います。
主は、その姿で「七つの金の燭台」の真ん中に立っておられます。
七つの金の燭台とは「七つの教会である」とイエス様ご自身が教えてくださいました。
「七つの燭台」すなわち「七つの教会」の真ん中に「王である祭司」が立っておられます。
「七つの教会」とは、もちろん実在した「エペソ」「スミルナ」などの七つの教会のことです。しかし、それだけではありません。
完全数の「七」は、全世界の全時代のキリストの教会、すなわち「すべての主にある教会」を表していると私は信じます。
黙示録が「私たちにも啓示されている」と信じるならば、当然そうであるはずです。
主は「七つの教会」に「すぐに起こるべきこと」を示されます。
大祭司の衣を着ておられるのは「教会」をとりなすためです。
金の帯を締めておられるのは「教会」を治めておられることを示すためです。
そして、言われます。
「教会よ、聞きなさい。この後必ず起こることを告げよう。しかし恐れることはない。わたしが執り成し、わたしが守る。あなたがたは、わたしがすべてを支配していることを信じていればよい」
「王である祭司」として、教会に「終わりの日」のことを示されるのは、主が「すべてを支配しておられる」ことを示すためでしょう。「初め」と「終わり」は、この方が握っておられるのです。
そしてまた、永遠に「とりなしてくださる方」であることを示されるためだと信じます。
ですから、愛する兄弟姉妹。
この先、私たちにどのようなことが待っているとしても恐れることはありません。
私たちの真ん中には「人の子のような方」が立っておられるのです。
すべてを支配し治める王として、力強く立っておられます。
ご自身の血潮を流された永遠の大祭司が、愛をもって立っておられます。
私たちも見ましょう。使徒ヨハネが見た方を。
黙示録は、そこから始まるのです。
終わりの日の啓示は「王である祭司」を知ることから始まるのです。
私たちは、黙示録を学ぶとき、主が支配者であることを覚えておかなければなりません。
そして、主が「とりなし」てくださる方、愛をもってご自身をささげてくださった方であることを忘れてはなりません。
そこから目を離してしまうならば、決して黙示録を理解することはできないでしょう。
使徒ヨハネは恐れたのです
さて、ヨハネが見た「人の子のような方」は、私たちの主イエスであることに間違いありません。
「死んだが、世々限りなく生きている」と言われる方は、私たちのために十字架に架けられ、死んで葬られ、そして、よみがえられたお方でしかありえません。
主イエスが「愛された弟子」であるヨハネに現れてくださったのです。
イエス様の12弟子の一人として、一緒にガリラヤ湖畔を歩いていたとき、ヨハネは、まだ若者でした。
主イエスがよみがえられ天に上られてから、何十年と過ぎました。若かったヨハネは「老使徒」と呼ばれる年齢になっています。
「なつかし我が君、主よ、お会いしとうございました」
涙ながらに、お慕いする主イエスにすがりついてもいいはずですが、そのような感動的なことは一切ありません(笑)
使徒ヨハネは、愛する主イエスを見て「死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ」のです。
つまり、気を失いかけたということでしょう。力が入らなくなって、崩れ落ちたと思われます。
主は、そのようなヨハネに言われました。
「恐れることはない」
ということは、使徒ヨハネは「恐れた」ということです。あまりに「恐ろしくて」力が抜けたのです。
使徒ヨハネは「熟練した働き人」です。様々な戦いを経験し、勝利し、何十年も、主とともに生き抜いてきたのです。主イエスのことを「誰よりも知っている人」と言っても過言ではありません。
そのようなヨハネが「死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ」ほど恐ろしく感じたのです。
この箇所を読むたび、私は、主イエスのほんの一面しか知らないのだと痛感します。
少し昔のことを話します…
30年ほど前の話です。
当時、私は浮かれておりました(笑)
毎週どこかで「リバイバル集会」が開催されていて、大声で賛美し、熱く祈り、今すぐにでもリバイバルが来るように思っていました。
仲間と一緒に奉仕するのはとても楽しいことでした。働きに携われることが嬉しくて仕方ありませんでした。
リバイバルが起これば、ずっと毎日、こんなに楽しいことができるのかと思っていました。
そのような時、有賀喜一師が言われたのです。私は、それ以来、そのことを忘れたことはありません。
「君たちは、リバイバルが来れば、毎日楽しい、問題はなくなる、平安に満ちると思っているのだろう。しかし、それはあり得ない。リバイバルが来るということは、アナニヤとサッピラの事件もまた起こるということだ。リバイバルが本当に来たならば、聖霊の臨在は強くなる。君たちは、聖霊の臨在に耐えられるのか。」
心臓がヒューっとなったことを覚えています。
「アナニヤとサッピラの事件」が起こる…、恐ろしさに凍りつきました。
それは初代教会の時の出来事です。
ペンテコステの日以来、教会には「聖霊の臨在」が強く満ちていました。神への賛美が満ち、人々は癒され、救われました。
主は「毎日、救われる人を加えてくださった」と書いてあります。
しかし、同時にそこには「恐れが生じ」ていたのです。
聖霊の臨在のもとでは「恐れが生じる」のです。
「聖なる恐れ」がないリバイバルは偽物です。
アナニヤとサッピラ夫妻は「聖霊を欺き」ました。
彼らは「熱心な聖徒」であったと思います。積極的に「献金」をしようとするほどには熱心であったのです。
そして、その熱心を認めてもらいたい、自分たちは「献身的な聖徒」だとアピールしたいと思ったのです。
そして「全てを献げたふり」をしたのです。
ああ、このようなことは「罪」なのでしょうか?
確かに「偽りの申告」は罪でしょう。
けれど、私たちの教会で「似たようなこと」は行われていないと断言できるでしょうか?
私は、自分が「聖霊の臨在」に耐えられるのかと考えたとき、とても「恐ろしい」のです。
さも「愛の人」のようなふりで「憎しみを抱えている」ことがあります。
さも「きよい人」のようなふりで「汚れを抱えている」ことがあります。
「すべて主のものです」と気持ちよく賛美の歌を歌っているけれど「一部を自分のもの」としています。
聖霊の臨在が「初代教会のときのように」今、この場所に臨まれたなら「アナニヤとサッピラ」のような事件が起こるのです。
「聖霊を欺くことはできない」ということを、すべての聖徒が知るために。
私たちは「主を恐れる」ことを学ばなければなりません。
私たちは「主を恐れる」ことを求めましょう。
神は愛です。イエス様は柔和で優しいお方です。
しかし、使徒ヨハネは「この方を見たとき、死んだ者のように足もとに倒れ込んだ」のです。
ダニエルは「顔を伏せて地に倒れ」ました。
イザヤは「ああ、私はもうだめだ」と叫びました。
ペテロは「主よ、私から離れてください」と言いました。
聖なる神への「畏怖の念」がなければ、本当の意味で神を愛することはできません。
神を喜ぶことと、神を恐れることは共存します。
イエス様は、地上におられたとき「主を恐れることを喜びとし」て歩まれました。
終わりの日、私たちは「主を恐れること」が「喜び」であることを知る必要があります。
リバイバルの備えは「主を恐れること」から始まるからです。
終わりの日が近いと誰もが肌で感じている時代が来ています。
であるならば、リバイバルも必ず訪れます。
私は「恵まれた聖会」を待ち望んでいるのではありません。私は「初代教会のような聖霊の臨在」を待ち望みます。
あなたはどうですか?
もし、あなたも同じであるならば、私たちは「覚悟」しましょう。
黙示録は、私たちが「覚悟」するために啓示されているのです。
黙示録は「主への恐れ」と「喜び」を学ぶ書です
使徒ヨハネは、教会の真ん中に立っておられる方を見ました。そして、詳しく描写してくれています。
それは「七つの教会への手紙」に啓示されたお姿です。
ペルガモンの教会には「鋭い両刃の剣を持つ方」として、手紙を送られました。
ティアティラの教会には「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」として、手紙を送られました。
それぞれの教会に「必要なことを知らせるため」に特徴的なお姿でご自身を啓示されました。
その一つ一つの特徴については、2章と3章で学びます。
今はただ、私たちの真ん中に「想像を超えた方」が立っておられるのだということを覚えていてください。
私たちは、この方の「一部分」しか知りません。
どんな人であっても、この地上においては「一部分」しか知ることはできません。
誰も「完全」には知ってはいないのです。
誰も「完全」に知ることはできないのです。
しかし、かの日には、私たちの誰もが「完全」に知ることができるのです。
そして、今、この地において、私たちの誰もが「完全」に知られているのだということを忘れないでください。
主は、私たちの真ん中に立っておられます。
その姿が「イメージのとおり」でなかったからといって逃げ出さないでください。
あなたは「一部分」しか知らないのですから。
主は「燃える炎のような目」で、あなたを見つめられるかもしれません。
それを、あなたは「恐ろしい」と感じるでしょうか?
確かに、主は「焼き尽くす炎」です。
あなたを滅びに導く罪を憎まれます。あなたを主から離すものを焼き尽くそうとされるでしょう。
その炎は「ねたみ」です。主は、ねたむほどに「あなたのうちにおられる御霊」を慕っておられます。
私たちの心は「焼き尽くされる」でしょう。
その炎のような目を、もっとずっと見つめてください。
その先に「燃える炎のような愛」が必ず見えるはずです。
愛する兄弟姉妹。
主を恐れましょう。御前にひれ伏して、聖なる方を恐れるのです。
その右手があなたに触れるまで、ひれ伏していなさい。
しかし、主の御手があなたに触れ「恐れることはない」という御声が聞こえたなら、目をあげて御顔を仰ぎなさい。
あなたは、主の目の中に恵みを見つけることができるでしょう。
そして、主への恐れが喜びに導くことを知るでしょう。
「主への恐れ」と「喜び」は共存します。
そして「主への恐れ」に満たされるなら、その他のものへの「恐怖」は砕かれます。
黙示録を学べば、そのことが分かります。
私たちは、主への恐れを学びます。また、黙示録にあふれる希望を学びます。
主が、私たちの学びを祝福してくださいますように。
次回から「七つの教会への手紙」を学びます。やっと2章に突入しましたね。ここからは少しスピードを上げられると思います(笑)
祝福を祈ります。