ダニエル2:47
王はダニエルに答えた。「あなたがこの秘密を明らかにすることができたからには、あなたの神こそ、神々の中の神、王たちの主、また秘密を明らかにする方であるに違いない。」
王は何度も夢を見ました
ネブカドネツァルの治世の第二年とは、BC603年のことです。ネブカドネツァルのバビロンは、世界で最も強い国でした。
しかし、そのような国の王が「心が騒ぎ、彼は眠れなかった」という状態にあったのです。
ネブカドネツァルは、何度か夢を見ます。おそらく同じ内容の夢であったでしょう。それは、王の心を騒がせるような夢でした。
彼は、その夢には何か意味があると確信しました。バビロニアという国は、他のどの国よりも、魔術、占いなどを重んじていたと言われます。
バビロンでは、宮廷の先見者たちは、王の夢を解き明かす責任を担っていました。古代バビロニア人ほど、魔術、口寄せ、星占い、その他の占いを重んじた民族は他にはなく、彼らの科学は「体系化された迷信」でした。
福音に生きる ダニエル書講解説教 油井義昭著 一粒社
「体系化された迷信」とは面白い表現ですね。まさにその通りです。
何度も同じ夢を見たネブカドネツァルは、どうしても夢の意味を知りたくなりました。そこで、国中の知者たちが呼び集められるのです。
カルデア人とは欄外注によると、あるいは「占星術師」と書いてあります。これらの人々が「知者」と呼ばれているのです。確かに「体系化された迷信」と言えます。
さて、王はバビロンの知者たちに無理難題を命じます。
通常、夢の解き明かしは「見た夢の内容を話す」ことが前提でなされます。ヨセフが、ファラオの夢を解き明かした時も、そうでした。ファラオは「牛の夢」と「穂の夢」をヨセフに話しています。
しかし、ネブカドネツァルは「見た夢」と「その意味」の両方を告げよと命じるのです。
さて、なぜ「見た夢」を告げなかったのかという理由には二つの解釈があります。
一つは「見た夢を忘れてしまったから」という解釈です。つまり、忘れてしまったので、話したくても話せなかったということです。
もう一つは「絶対に本当の意味を知りたいと思ったから」という解釈です。「見た夢」を話してしまったら、それらしいことを言って適当に誤魔化されてしまうかもしれないので話さなかったということです。
個人的に私は、ネブカドネツァルは夢を覚えていたと思います。この夢の解き明かしだけは誤魔化されたくないという強い意志の表れであると考えます。しかし、絶対とは言い切れませんね。あなたは、どちらだと思いますか。
偽者には限界があります
まあ、それはさておき、知者たちに、この問題は難しすぎました。
王が「見た夢」を話してくれさえすれば、何とでも言いくるめる自信が彼らにはあったのでしょう。しかし「見た夢」を示せと言われれば「お手上げです」と言わざるを得ません。
私たちは偽物の限界をここに見ます。肉なる者の限界を見ます。
これから先、私たちの時代には、ますます多くの偽預言者が現れます。彼らのことばは巧みです。彼らは巧言をもって人々を虜にしていきます。
しかし、偽物は「本当のこと」を決して知ることができません。彼らには限界があるのです。
人の知恵には限界があります。バビロンの知者たちは、様々なものを駆使して、自分たちは、どんなことでも明らかにできると思っていたかもしれません。しかし、それは、所詮、悪霊のまやかしです。
ネブカドネツァルの夢を明らかにされないのは主の知恵です。主ご自身が、ネブカドネツァルに夢を見せられました。その意味を隠しておられるのもまた、主ご自身なのです。
主は、当時の世界帝国の王であるネブカドネツァルに「これから起こること」をお示しになったのです。それは、ネブカドネツァル個人についてだけのことではなく、全世界の全時代に関することでした。
この時から「異邦人の時」が始まったと私は思います。つまりネブカドネツァルの時代から「異邦人の時」が始まって、今に至っていると考えます。
とても大切なことを示されたのです。偽者たちには、決して理解できない夢なのです。
終わりの時代に現れる多くの偽預言者たちも「知っている」かのように解き明かすでしょう。しかし、本当に大切なことには決してたどり着くことはできません。
主が秘密を明らかにされるのは、主の御前に「あわれみを乞う」人々にだけです。
あなたのいのちを握るのは誰ですか?
バビロンの知者たちは、誰一人、王の難題に答えることができませんでした。
ネブカドネツァル王は、かなり精神的に追い詰められていたのでしょうか。それとも、元々、このように気性の激しい人だったのでしょうか。
ネブカドネツァル王が生殺与奪の権を握っているのです。王の一言で奪われもするし、与えられもします。生かすも殺すも王の心次第なのです。
終わりの時、「獣」と呼ばれる一人の人が現れます。彼は、世界中の人の「生殺与奪の権」を握ります。
獣の名によらなければ「売ることも」「買うことも」できない世の中が来ます。人々の「生きる糧」を獣は支配します。彼に逆らうことは「いのちを失う」こととなります。
もちろん、今はまだ、獣は出現していません。まだ最終的な終わりは来ていません。しかし、確実に近づいています。
使徒ヨハネの時代から、今に至るまで、私たちは終わりの時代を生きています。「多くの反キリスト」が現れていることが「終わりの時」である証拠です。
弟子たちは「世が終わるときのしるしは、どのようなものですか」と尋ねたのです。
イエス様はお答えくださいました。そして、まず最初に言われたことは「人に惑わされないようにしなさい」でした。終わりの時に、まず気をつけなければならないのは「人に惑わされない」ことなのです。
最終的に獣と呼ばれる反キリストが出現するまで、この世界には「多くの反キリスト」が現れます。
私たちは、ともすれば「誰が反キリスト」なのかを知ろうとしてしまいます。「666」とは誰の名前なのか知りたいを思ってしまいます。しかし、終わりの時代を生きるにあたって、まず最初に心に留めるべきことは「人に惑わされない」ということなのです。
覚えてください。
教会の中には、最後まで「麦」と「毒麦」が混在します。悲しいけれど「偽預言者」は教会の中にいることになるでしょう。
しかし、誰が「麦」で誰が「毒麦」かを特定する必要はありません。「預言」は吟味されるべきですが、「偽預言者」を捜し出す必要はないと、私は思います。
私たちがすべきことは「誰かの言葉」ではなく「主のみことば」に堅く立つことです。
「あの人が語った言葉だから信じよう」
「あのグループの人は怪しいから信じない」
そのように判断しているなら、私たちは、必ず「惑わされる」ことになります。
偽札を見分ける一番の方法は「本物」を完全に覚えることだそうです。
誰が「偽者」で、何が「偽の教え」かを見分けたいなら、まず「真理そのもの」である方を知ることです。誰かや何かに目を向けるのではなく、一心に「いのちのことば」である方を見つめることです。
惑わされない唯一の方法は「真理から目を離さない」ことです。そして、真理とは常に「イエス・キリスト」ご自身なのです。
生殺与奪の権を与えてはなりません
ネブカドネツァル王を見るならば「恐怖」しかありません。なんとか王のご機嫌をとらなければならないと思うでしょう。
バビロンの知者たちは、全力で「王の耳に良いこと」を言うつもりだったと思います。そうでなければ「身に危険が及ぶ」からです。彼らの「いのち」は王の手の中にあるのです。
私たちは「生殺与奪の権」を人に与えてはなりません。
誰かが、あなたの「いのち」を奪うかもしれないと恐れるので「惑わされ」「揺るがされ」るのです。
確かに、誰かの一存で、あなたの立場は「上がったり」「下がったり」するでしょう。誰かの機嫌を損ねたら、仕事や商売、生活に支障をきたすこともあるでしょう。世の中は、理不尽なものです。人々は「耳に良いこと」を求めています。あなたが「義」を貫こうとすれば攻撃されるかもしれません。
しかし、私たちを支えておられるのは誰でしょう。誰が私の「主」ですか。私たちの「いのち」を握っておられるのは誰ですか。
私たちのいのちは「神のうちにかくされている」のです。つまり、誰からも、どんな被造物からも攻撃されないのです。完全に守られているのです。
あなたから「いのちを奪う」ことのできるものはいません。
世の終わりの戦いは「刻印を受けなければいい」のではありません。「何が刻印か」を見極めようとするなら惑わされるでしょう。「何をしなければいいのか」と聞く人は、おそらく刻印を受けることになるでしょう。
「物」と「事」から目を離してください。
「何か」ではなく「誰か」なのです。
そして、選択肢は常に二つしかないことを覚えてください。
「キリスト」でなければ「反キリスト」なのです。あなたが「光」でないなら「闇」です。「イエスを主と告白しない霊は、神からのものではありません」と書いてあるとおりです。
あなたはイエス様を「主」と告白していますか。「主」と告白することは「イエス様を主として生きること」です。
終わりの時代に、大切なことは「誰が主であるのか」を明確にすることです。
イエス様が「主」であるならば、何も恐れることはありません。私たちは「神のうちに隠されて」います。
この世の王たちを恐れる必要はありません。ご機嫌を伺う必要もありません。「何をしたら危険なのか」と悩みながら生きる必要もありません。
私の「いのち」は神のうちにあると告白しましょう。
恐ろしい知らせを聞いたとしても
ダニエルは、王の恐ろしい命令が出されたことを知りました。
しかし、ダニエルは「恐ろしい知らせ」に惑わされませんでした。彼は「知恵と思慮深さをもって応対」しました。ダニエルは落ちついて、まず、状況をしっかりと理解しようとしました。
ダニエルは、問題は「王の夢」であることを知ります。そして、それが難問であることも知ります。同時に、王がどれほど怒り狂っているのかも知るのです。
ダニエルは、この世の王であるネブカドネツァルを恐れませんでした。直接、王に「しばらくの時」を与えてくれるように願うのです。
バビロンの知者たちは、ネブカドネツァルに「夢を知らせること」を求めました。そうでなければ、この秘密は解き明かせないと言いました。それが彼らの限界です。彼らはネブカドネツァルを恐れて、怖じ惑うしかありませんでした。
しかし、ダニエルたちは、ネブカドネツァルに何も求めませんでした。ただ時間をくれるように言っただけです。
ダニエルたちは、怯えて立ちすくむのではなく「天の神」にあわれみを求めてひざまずきました。
私たちは、これからますます「恐ろしい知らせ」を聞くことになります。この世の君であるサタンは、多くの反キリストを用いて、私たちを脅かしてくるでしょう。
私たちは、驚いて立ちすくんでしまうかもしれません。どうすれば良いのか分からないことが多々起こるでしょう。
しかし、怯えてはいけません。慌てふためいてはなりません。
落ち着いて、しっかり状況を見るのです。そうすれば、まだ「終わりが来たのではない」ことが分かるでしょう。
私たちには、黙示録やダニエル書、その他の預言書が与えられています。聖書の言うことを聞きましょう。御言葉に立って状況を見る必要があります。
イエス様は、前もって教えてくださいました。「そういうことは必ず起こる」と。しかし「まだ終わりではない」のです。「気をつけて、うろたえないように」しなければなりません。
世の終わりが近づくにつれ闇は濃く深くなります。しかし、光が失われるわけではないのです。
私たちには「天の神」がおられるのです。「天」におられる方は、一切のものを見下ろしておられるということを忘れないでください。
ダニエルたちは、おそらく、彼ら以外のすべての人が諦めてしまったであろうとき、膝をかがめて「天の神」にあわれみを乞うたのです。
確かに「恐ろしい知らせ」を発したのは、この世の王であるネブカドネツァルです。しかし、その王に夢を送られ、そのすべてを治めておられる方が「天」におられるのです。
私たちは、どんなときでも、誰しもが希望を失うときであっても、それでも「すべてを見下ろしておられる天の神」に乞い願うことができるのです。
天に秘密を明らかにするひとりの神がおられます
主は、ダニエルに「夢の内容と解き明かし」を示してくださいました。
もちろん、主は、もとよりそうされるおつもりでした。ネブカドネツァルに夢を送られる前から、ダニエルに「幻と夢を解く」賜物を与えておられました。
主は「終わりの日に起こること」をダニエルを通して明らかにするおつもりだったのです。もちろん、ダニエル自身は、そのような主の御旨を把握してはいなかったでしょう。
私は、ここに希望を見ます。
「恐ろしい知らせ」が「恐ろしい結果」になるとは限りません。終末の時代において、むしろ、それは「聖徒の輝くとき」とされるのではないかと思います。
ネブカドネツァルの無理難題は、誰にも解くことができません。どんな知者にも無理なのです。
しかし「天の神にあわれみを乞う」ダニエルには解き明かせるのです。
終わりの時、主にある聖徒の輝きは増すと私は信じます。主にある聖徒は、暗闇の中に燦然と輝きます。
確かに偽預言者は多く現れるでしょう。しかし、聖霊の賜物による真の預言も響き渡ります。私たちに与えられた聖霊の賜物は、大いに用いられることになります。
私たちは「天の神にあわれみを乞う」者でありましょう。
ダニエルは、自分の賜物を誇ることはしませんでした。自分の知恵を誇りませんでした。
「賜物」は、すがったり、頼ったり、誇ったりするものではありません。私たちは、常に「天の神にあわれみを乞う」者でなければなりません。
主がなさるのです。主が明らかにされるのです。主が癒され、主がみことばを賜ってくださるのです。
ダニエルが、完全に「王の夢」を悟ったことは、ダニエルの美しい祈りを読めば分かります。(ダニエル2章20節~23節を開いて読んでみてください)
ネブカドネツァル王はダニエルの解き明かしが正しいことを認めました。
ネブカドネツァル王は、ダニエルの解き明かしを聞いて「ダニエルの神」の素晴らしさを認めました。
聖霊の賜物が、主の御心のとおりに用いられるなら、そこには「神の栄光」が現れるのです。逆に「神の栄光」が現れないなら、そこには何かしらの問題があるということです。
「恐ろしい知らせ」は「高く上げられる」という結末となりました。もはや「滅びるしかない」という状況が、一夜にして変わったのです。
「知恵と力」は神のものです。主のご計画は測り知ることができません。
確かに「恐ろしい知らせ」を私たちは聞くでしょう。戦争や戦争のうわさは絶えないでしょう。理解できないことを見たり聞いたりするでしょう。苦難にも遭うでしょう。
しかし、それらの「恐ろしい知らせ」が「恐ろしい結末」に至るわけではないことを信じてください。
私たちには「秘密を明らかにするひとりの神」がおられるのです。「天の神」がすべてを支配しておられることを忘れないでください。目の前の出来事がすべてを決定するわけではないのです。
私たちは、ただ、天の神に信頼します。そして「あわれみを乞う」ためにひれ伏すだけです。
祝福を祈ります。