エペソ3:17
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
パウロは、キリストを「住まわせて」と祈っています
「住む」とは、ちょっと「寄っただけ」ではないということです。
パウロは「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と祈っています。
パウロは、イエス様のことを「お客様」ではなく「所有者」としてお迎えできますようにと祈っているのです。
ラオデキヤの教会は、イエス様を「外に閉め出して」しまった教会です。
イエス様は「戸をたたいて」立っておられます。
「開けて欲しい。中に入れて欲しい。一緒に食事をしよう」と呼びかけておられます。
なぜイエス様が、ご自分の教会の戸を叩かなければならないのでしょう。
なぜイエス様が、ご自分のものである人々の心から閉め出されてしまうのでしょう。
それは、私たちがイエス様を「お客様」扱いしているからです。
私たちがお客様を家に招くのは「都合の良い日」だけです。予定があったり、体調が悪かったりすれば、他人を招くことはありません。
しかし「家族」であればどうでしょう。その「家の住人」であれば「入って来ないで」と拒んでも、鍵を持っているでしょうから、勝手に入って来るでしょう。それに、まず拒むことがないでしょう。
その家の「住人」であれば、あなたの「都合」に関わらず、そこで食事をしたり、くつろいだり、遊んだりします。あなたの体調が悪ければ助けてくれたりするでしょう。
なぜ、イエス様に「鍵」をお渡ししないのですか?
見られては困るものがあるからですか?
中を荒らされるのが嫌なのですか?
「今、一人で調子よく生きているし、好きな時間に好きなことをしているし、時々、来るのはいいけれど、ずっと一緒は困るな」と思いますか?
覚えてください。
私たちは「管理者」であって「所有者」ではありません。
主は「横暴な所有者」ではないので、私たちは「自分のもの」のようにして好き勝手に暮らしていますが、本当は、すべてイエス様のものなのです。
私たちのすべては、主のものです。私たちの心も、主のものです。
もし、戸の外で呼ばれるイエス様の声が聞こえたなら、今すぐ、戸を開けるのです。
そして、部屋の鍵を明け渡し「どうか、ここに住んでください。二度と外には行かないでください。ここはあなたのものですから」と懇願するのです。
そうすれば、イエス様は「ともに食事をして」くださいます。
イエス様を「ちょっと立ち寄る方」「一日、30分だけ来られる方」として扱ってはなりません。
イエス様は「お客様」ではありません。イエス様は「住んで」おられるのです。
イエス様こそ「わが心の主人」「私の所有者」です。
私たちも、パウロとともに祈りましょう。
どうか「信仰によって、私の心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」
主よ、私はあなたのものです
どうか私のうちに住んでください
あなたこそ、私の主です