ダニエル4:27
それゆえ、王よ、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、また貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。
ネブカドネツァルは再び夢を見ました
ネブカドネツァル王のバビロンは、この時が全盛期だったと思われます。
当時のバビロンは、有史以来最大の国家で、その広さは、東インド、西は小アジア及び欧州の東南部、南はエジプト及びエチオピアの北部、その他シリア、エドム、ペルシャなどの国は全てバビロンの属国でした。
福音に生きる 油井義昭著 一粒社
私は、地理に疎いので、こう言われてもあまりピンとはきませんが、とにかく、とてつもなく広い領土であったことだけは理解できます。
王自身も言っています。
ネブカドネツァル王は「繁栄を極めて」いました。地上には、彼に逆らえる者はいないのです。欲しいものは何でも手に入れられます。邪魔者は、即、排除できます。何も恐れるものはありませんでした。
向かうところ敵なしという状態であったネブカドネツァル王も、「寝床での幻想と幻」に一人で怯えたのです。偉大な権力者とういうものは、往々にして臆病で孤独なものです。
バビロンでは、夢占いなどが盛んに行わていました。そもそも、バビロンは呪術や魔術が盛んな国で、日本に負けないぐらい数多くの偶像の神がいました。
ネブカドネツァル王は、自分の未来に対して、心の底では不安を感じていたのでしょう。自分の見た夢は「どんな未来を占う」ものなのか知りたいと思ったのです。
今回は、意外とあっさり、王は夢の内容を皆に話しています。2章の夢は、本当に忘れていたとする説もあながち間違ってはいないのかなと思わされますね。
それは、さて置き…
夢の内容は分かっても、それを王に解き明かせる人は誰もいませんでした。出まかせの説明さえできなかったのです。
なぜなら、これは、主なる神からの夢だったからです。
世の中には多くの学者さんがいます。イエス様を「主」としていない聖書学者もたくさんいるのです。彼らは、私たち聖徒より、聖書に関して詳しいのです。
原語でスラスラと聖書を読める人も多くいます。歴史的な背景もよく知っているでしょう。私も、彼らの歴史研究から多くのことを学びます。
しかし、彼らには、本当の意味で聖書を解き明かすことはできません。彼らにとって、聖書の学びは「学問」であり「研究」であって「神のことば」ではないからです。
聖書は「神のことば」です。神の意志、神の御思いが啓示されている尊い書物です。それは「いのちのことば」です。その「神のことば」は「神の人」にしか解き明かせないのです。
私たちは、バビロンの知者たちのようではあってはなりません。
聖書を読むとき、特に終末預言を学ぶときに陥りやすい罠があります。
それは「その意味を告げよう」とすることです。
私たちはみな、聖書に何が書いてあるのかを知りたいと思っています。特に終わりの日のことは、不思議な記述がいっぱいあって興味をひくものです。
しかし、それらは私たちの「好奇心」を満たすために書かれたのではありません。私たちは、聖書を学びます。私は、聖書を学ぶことが大好きです。しかし、それが「知って満足する」ためだけの学びなら、なんと虚しいことでしょう。
バビロンの知者たちの目的は「意味を告げる」ことでした。ネブカドネツァル王は「意味を知りたい」だけでした。
しかし、私たちは「なぜ、その夢が与えられたのか」を知らねばなりません。主は、「その夢によって何を知らせようとしておられるのか」を知らねばなりません。
みことばは、私たちが「聞いて従う」ために語られたのです。そこには、必ず「神の意図」があるのです。
終末預言の不思議な幻も、その背後には必ず「神の意図」があるはずです。私たちは、現象を解き明かすのではなく「神のみこころ」を知ることを求めなければなりません。
主イエスにある先生方の教えは、まことに有益です。素晴らしい書籍やメッセージがたくさんあります。
しかし、どうか覚えてください。
あなたがイエス様のうちにあるならば、御霊によって「すべてについて」教えていただけるのです。御霊は、必ず「真理のみことば」をあなた自身に教えてくださいます。
ですから、主にある人々から教えを受けるのは素晴らしいことだけれども、あなた自身が「神のことば」を、御霊から直接、学べるのだという事を忘れないでください。つまり、どうか、日々、聖書を読んでくださいとお願いしたいのです。
バビロンの知者たちは、優秀な人々だったでしょう。しかし「神のことば」を解き明かすことはできません。
終わりの日には、優秀な「偽預言者」が多く現れます。おそらく、現代の「偽預言者」は、さも「偽預言者です」というようには現れないと私は思います。
その人々は「有名人」であったり「経営者」であったり「ユーチューバー」みたいな人であるかもしれません。また残念ですが「教会」の中にも存在します。彼らは、賢い人たちです。物事に詳しく、分析力もあります。世の中は、ある程度、彼らの予測通りに進んで行くでしょう。
しかし、本当の「終末」を彼らが解き明かすことはできません。
ネブカドネツァル王の夢は、終末を生きる私たちへのメッセージです。
最後にダニエルが登場しました。聖なる神の霊に満たされた人、ダニエルが夢を解き明かすのです。
この宣言は見張りの者たちの決定によるもの
王の夢を聞いたダニエルの顔色が変わりました。彼は驚きすくんで、動揺を隠せませんでした。その夢の解き明かしは、告げることをためらってしまうほどの恐ろしい内容だったからです。
その夢は、いと高き方がネブカドネツァル王に下した決定でした。
「天まで届く非常に大きな木の幻」をネブカドネツァルは見たのです。その木は、すべての肉なるものを養うほどに大きく生長しました。
ネブカドネツァルは「金の頭」や「天まで届く木」に象徴されるように、非常に強大な権力を持っていました。しかし、その木は自分で大きくなったのではないということをネブカドネツァルは、知らなければなりません。
これは、恐ろしい幻です。ネブカドネツァルも何か自分の身に、もしくは、国の存亡に関わることに違いないと薄々感じていたのだと思います。ゆえに怯えていたのでしょう。
その解き明かしは、ネブカドネツァル王の身に関わることでした。
人間の中から追い出されるとは、どのようなことなのでしょう。おそらく、この解き明かしを聞いても、ネブカドネツァルには、その意味がはっきりと掴めなかったのではないかと思います。
とてつもなく怯えていたけれど、それほどのことはなかったなと感じたかもしれません。
国が滅亡するとか、誰かに暗殺されるとか、そのような解き明かしであれば、もう少し切羽詰まった思いを持ったのかもしれません。
しかし、人間の中から追い出され、野の獣とともに住むと言われても、それがどのような状態であるのか理解できなかったでしょう。
もしかすると、クーデターが起って、一時的に自分は宮殿を追い出されるが、また復帰するのかもしれない、というようなことを考えたかもしれません。
まさか、文字通り「獣のようになる」とは思いもよらなかったでしょう。
これは「見張りの者たち」による決定です。
ネブカドネツァル王は、ずっと見張られていたのです。王の考え、行動は、常に見張りの者によって観察されていました。
そして、とうとう決定がくだったのです。
しかし、まだ猶予が残されていました。
ゆえにダニエルは、思い切ってネブカドネツァル王に勧告したのです。悔い改めれば、切り倒されずにすむ余地はあったのです。
この夢は警告です。ネブカドネツァル王に「怯えるこころ」を与えられたのは、いと高き神です。それは、主なる神のあわれみでした。
しかし、主なる神のあわれみをネブカドネツァル王は拒否したのです。
ネブカドネツァル王は理性を失いました
主は、ネブカドネツァル王に1年間の猶予を与えられました。イチジクの木のたとえを思い起こしますね。(ルカ13:8)
この言葉が「まだ王の口にあるうちに」天から宣告の声が聞こえました。国は、ネブカドネツァル王から取り去られたのです。
これは何かの「たとえ」や「象徴」ではありません。
彼は、牛のように草を「本当に」食べたのです。家の中ではなく野に住みました。おそらく、髪の毛は伸び放題に伸びて、固まってしまったのでしょう。爪も伸びて、かぎ爪のようになったのでしょう。
ネブカドネツァルの外見も、獣のようになったことは確かです。しかし、最も注目すべきことは、その心も「獣の心」となったということです。
ネブカドネツァル王の心は「人間の心」から「獣の心」に変えられたのです。
「獣の心」とはどのような心でしょうか。詩篇は言います。
「獣の心」とは「愚か」で「考えがない」心です。以前の新改訳では「わきまえがない」と訳されていました。
「考えがない」とは、浅はかで軽率なことです。「わきまえがない」とは、物事の道理が分からない、善悪の区別ができないことです。
つまり獣の心とは「理性がない心」と言い換えることができます。
「理性」とは、辞書によると「物事の道理を考える能力」「道理に従って物事を判断したり行動したする能力」のことです。
ネブカドネツァル王も、我に返ったとき言っています。
野の獣と同じように過ごしていた時、ネブカドネツァル王は「理性」を失っていたのです。つまり「理性を失う」と人は「獣化」するのです。
さて、この「獣化」することについて、もう少し掘り下げたい思いはあります。けれど、それだけで、もう一つメッセージができるぐらい長くなってしまうので、また別の機会に学びましょう。
勧告を快く受け入れること
ネブカドネツァル王には「勧告」が与えられていました。
ダニエルは、王に対して親身な進言をしています。
ネブカドネツァル王は「見張りの者」がいることを真剣に受け留めなければなりませんでした。そして、自分の権威は、上から与えられたものであること、自分の思いのままに用いてはならないことを認めなければならなかったのです。
しかし、王は言いました。
「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか」
ネブカドネツァル王は勧告を受け入れるどころか、自分の力を自画自賛しました。そこには、まったく「いと高き神」を認める心はありませんでした。
ダニエルの解き明かしも勧告も、王の心には届かなかったということです。
「夢」を見せて下さったのは、いと高き神のあわれみなのです。そのあわれみをネブカドネツァル王は軽んじました。
私たちの主は、あわれみ深い神です。慈しみと慈愛に満ちておられます。
なぜ、聖書の三分の二が預言であるのかを考えてみてください。なぜ、これから起こることを啓示してくださるのでしょう。これから恐ろしいことが起ると、なぜ詳しく記しておられるのでしょう。
そして、なぜ、使徒たちの時代から、ずっと「終わりの時代」と言い続けられているのでしょう。
それは、すべて主なる神の慈しみのゆえなのです。
主はいつくしみ深く、恵み豊かで、忍耐と寛容に満ちておられます。
ネブカドネツァルに悔い改めの機会を与えてくださいました。そして、今、この世に生きているすべての人に対しても忍耐深く、その悔い改めを望んで待ってくださっているのです。
ネブカドネツァル王の不思議で恐ろしい体験は、ただの出来事の記録ではありません。
ネブカドネツァル王に夢が与えられたのは「いのちある者たち」が、主なる神の主権を知るためです。
預言は、ただ「そうなることを示す」ためだけに与えられているのではありません。
私たちは、聖書の預言によって「いと高き方が人間の国を支配」しておられることを知ります。いと高き神が、すべてのことを支配し、ご計画のとおりに進めておられることを知ります。
私たちは、主が支配しておられることを信じます。主の主権を認めてへりくだります。
預言書とは、主の主権、主のあわれみ、主の義、主のご計画を啓示しているものです。それは、なんだか難しくて敬遠したくなるような書ではありますが、とても大切なものです。
預言者たちは「主の計画」を記したのです。
私たちは、預言書によって「主の計画」を知ることができるのです。それは、言い換えると「主のこころ」を知るということです。
主は、私たちに、その胸の内を教えてくださっているのです。
何がしたいのか、なぜそうしたいのか、最終的にどのようにしようと思っておられるのか、その計画の背後にある思いを私たちは知ることができるのです。
不思議なこと、恐ろしいことの背後に、そして、その先に、私たちは希望と愛を見ることができます。
預言書を注意深く学ぶなら、主のあふれるばかりの愛に圧倒されるでしょう。
私たちは、預言のことばを「快く受け入れて」歩みましょう。
主は、あわれみのゆえに「これから起こること」を啓示しておられるのですから。
預言のみことばを心に留めて生きます
この箇所は、少なくとも二つのことを教えていると思います。
一つは「獣」の時代は「定められた期間」で終わるということ。
反キリスト、つまり「獣」の時代は、必ず訪れます。いわゆる大患難と呼ばれる時代です。それは、恐ろしい時です。しかし「定められた期間」があることを覚えていてください。
苦しい時には、上を見上げて思います。「全能なる神が時を定めておられる」ということを。それは、決していつまでもは続かないのです。
二つ目は、時が来たなら「すべてのものが主を賛美する」ということです。
ネブカドネツァルという人は不思議な人です。終わりの日の「獣」の予型でもあり、低くされる被造物の予型でもあるのです。
高慢なネブカドネツァルは、ポッキリと折られます。しかし、根株は残されたのです。主は、ネブカドネツァルを救ってくださいました。
根株が残されたネブカドネツァルは、時が来て理性を取り戻しました。そして、いと高き方をほめたたえるのです。
獣の時が終わった後、すべてのものは低くされます。
すべてのおごり高ぶるものは低くされます。獣も偽預言者も滅びます。
そして、ただ主おひとりだけが高く上げられ、麗しさの極みシオンから光が放たれるのです。私は、その日を心から待ち望みます。
イザヤはイスラエルを招いて言います。
私たちも、主の光のうちを歩みましょう。すべてを明らかにされる方の光に照らされながら歩みましょう。
暗闇に迷い込んで理性を失ってはなりません。そうならないためには「目を上げて天を見る」ことです。
預言のことばを軽率に扱ってはなりません。
主のみことばは「聞いて守る」ために語られるのです。
時が近づいています。
私たちは、聖書の預言にますます注意を払いましょう。その勧告を心に留めましょう。
夜は必ず明けます。
私たちに「確かな預言のみことば」を与えてくださった方がほめたたえられますように。
終わりまで、一緒に預言のみことばに目を留めつつ歩んでいきましょう。
祝福を祈ります。