No.259 キリストの愛に押し出されるまでは

気球

Ⅱコリント5:14
というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

パウロが捕らえられたのは愛です

パウロという人は爆発的な力に満ちていたように思います。

使徒24:5
実は、この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人の一派の首謀者であります。

パウロの裁判の時、テルティロという弁護士はパウロのことを「まるで疫病のような人間」と説明しました。

以前の新改訳では「ペストのよう」と訳されていました。現代語訳は「伝染病」と訳しています。

使徒26:24
パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ。おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。

パウロの証を聞いていた人が「パウロよ。おまえは頭がおかしい」と叫びました。以前の新改訳では「気が狂っているぞ、パウロ」と訳されています。

パウロの熱心は「狂信的」に見えたのでしょう。

救われたばかりのころ、私は本気でパウロのようになりたいと思ったのです。

同年代の仲間たちと一緒に「路傍伝道」に励みました。牧師先生の車に乗ってスピーカーでメッセージをしたり、トラクトを配ったり、ある時は、パチンコ店に行って「玉ではなく、御霊に満たされなさい」などと叫んだりしました。私は楽しかったけど、おそらく嫌々やっていた兄姉もいたと思います。悪いことをしたと反省しています。

半分だけ、私の夢は叶いました。

確かに「頭がおかしい」とは言われたわけです(笑)

しかし「疫病のような伝染力がある」とは全く言われませんでした。

そのうち、最初の「情熱も冷めて」しまい、私は「落ち着いた信仰生活」を歩むこととなります(笑)

「情熱」を原動力としてはなりません。それは「肉の力」です。

「救霊への思い」を人に「押し付けて」はなりません。それは「やらなければならない」という義務感で行うことではないからです。

パウロの外側を真似しても「感染力」は真似できません。

パウロは「キリストの愛が私たちを捕らえているから」と言ったのです。

「捕らえている」とは、別訳では「駆り立てている」です。辞書を引くと「追い立てられる」とも訳せるようです。そして、以前の新改訳では「取り囲んでいる」と訳されています。

ある先生は「ところてんのように押し出される」という意味だと言っています。

「押し出されるように」「駆り立てられるように」しかも「キリストの愛によって」

それが、私たちの「原動力」でなければなりません。これ以外の「動機」で行う奉仕は「仕事」もしくは「義務」となってしまいます。

「罪悪感」を生じさせたり「疲れ果てて」立ち上がれなくなってしまったりするでしょう。

キリストの愛に取り囲まれるまで、キリストの愛に押し出されるまで、あなたは座っていればよいのです。

雅歌8:4
エルサレムの娘たち。
私はあなたがたにお願いします。
揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。

「キリストの愛」があなたに満ちあふれる時、あなたは必ず、押し出されます。

そして、その時はもう「感染力」なんてどうでもいい、「自分の評判」もどうでもいいと思っているでしょう。

ただ「キリストの愛」に捕らえられたなら「すべての人」もちろん「私」も死んだのですと、考えるようになるでしょうから。

キリストの人知を超えた愛を教えてください
私は「主の愛」に捕らえられたいのです
主の愛によって押し出されますように