Ⅱコリント5:14
というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
パウロが捕らえられたのは愛です
パウロという人は爆発的な力に満ちていたように思います。
パウロの裁判の時、テルティロという弁護士はパウロのことを「まるで疫病のような人間」と説明しました。
以前の新改訳では「ペストのよう」と訳されていました。現代語訳は「伝染病」と訳しています。
パウロの証を聞いていた人が「パウロよ。おまえは頭がおかしい」と叫びました。以前の新改訳では「気が狂っているぞ、パウロ」と訳されています。
パウロの熱心は「狂信的」に見えたのでしょう。
救われたばかりのころ、私は本気でパウロのようになりたいと思ったのです。
同年代の仲間たちと一緒に「路傍伝道」に励みました。牧師先生の車に乗ってスピーカーでメッセージをしたり、トラクトを配ったり、ある時は、パチンコ店に行って「玉ではなく、御霊に満たされなさい」などと叫んだりしました。私は楽しかったけど、おそらく嫌々やっていた兄姉もいたと思います。悪いことをしたと反省しています。
半分だけ、私の夢は叶いました。
確かに「頭がおかしい」とは言われたわけです(笑)
しかし「疫病のような伝染力がある」とは全く言われませんでした。
そのうち、最初の「情熱も冷めて」しまい、私は「落ち着いた信仰生活」を歩むこととなります(笑)
「情熱」を原動力としてはなりません。それは「肉の力」です。
「救霊への思い」を人に「押し付けて」はなりません。それは「やらなければならない」という義務感で行うことではないからです。
パウロの外側を真似しても「感染力」は真似できません。
パウロは「キリストの愛が私たちを捕らえているから」と言ったのです。
「捕らえている」とは、別訳では「駆り立てている」です。辞書を引くと「追い立てられる」とも訳せるようです。そして、以前の新改訳では「取り囲んでいる」と訳されています。
ある先生は「ところてんのように押し出される」という意味だと言っています。
「押し出されるように」「駆り立てられるように」しかも「キリストの愛によって」
それが、私たちの「原動力」でなければなりません。これ以外の「動機」で行う奉仕は「仕事」もしくは「義務」となってしまいます。
「罪悪感」を生じさせたり「疲れ果てて」立ち上がれなくなってしまったりするでしょう。
キリストの愛に取り囲まれるまで、キリストの愛に押し出されるまで、あなたは座っていればよいのです。
「キリストの愛」があなたに満ちあふれる時、あなたは必ず、押し出されます。
そして、その時はもう「感染力」なんてどうでもいい、「自分の評判」もどうでもいいと思っているでしょう。
ただ「キリストの愛」に捕らえられたなら「すべての人」もちろん「私」も死んだのですと、考えるようになるでしょうから。
キリストの人知を超えた愛を教えてください
私は「主の愛」に捕らえられたいのです
主の愛によって押し出されますように