No.369 主の霊が注がれたなら預言するのです

夕日と木

使徒2:17
神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

預言することを熱心に求めなさいと言われます

主は「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」と言われました。

言い換えると、「終わりの日」が来たので、聖霊様が注がれたということです。もっと言えば「終わりの日」だからこそ、聖霊様が注がれたのです。

「終わりの日」には、聖霊に満たされる「しもべ」と「はしため」が必要なのです。

今は、終わりの日です。ずいぶん長く「終わりの日」が続いているように思いますが、間違いなく、今は「終わりの日」です。

ペンテコステの日より、ずっと「終わりの日」が近づいています。

私たちには、ますます「聖霊様の満たし」が必要です。

主は言われました。

「わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」と。

「主の霊」が注がれると、すべての人が「預言」するのです。

Ⅰコリント14:1
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

私たちは、もちろん「愛」を追い求めましょう。

そして、同時に「預言」することも熱心に求めましょう。

これは、みなが「預言者になることを求めよ」という意味ではありません。

Ⅰコリント14:3
しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。

「預言」することを熱心に求めるとは「人を育てることばや勧めや慰め」を求めるということです。

それを「人に向かって」話すことができるようにと求めることです。

「預言」することを「一部の選ばれた人たち」だけのものだと考えるのはやめましょう。

みなが「預言者」ではありません。しかし、みなが「預言」できると私は信じています。

私たちは「主が言われます」などと、大げさなことを言う必要はありません。むしろ言うべきではありません。

自然な口調で「慰め」や「励まし」を語ればよいのです。尊いことを語るなら、私の口は、主の口になると私は信じています。

ただ、日々、自分の舌を聖霊様に委ねればよいのです。

「主よ、私の舌をお用い下さい。主の愛を語らせてください。人の徳を建て上げることばを与えてください」と求めればよいのです。

今は「終わりの日」です。

主は「終わりの日」に「預言」をする聖徒を求めておられます。

私たちは、「預言」することを熱心に求めましょう。

「舌」を争いの道具としてではなく、平和のために用いてもらいましょう。

不平不満ではなく感謝を。

人を非難する言葉ではなく慰めのことばを。

人をへこますことばではなく徳を建て上げることばを。

私たちみなが「預言」を語るならば、教会は必ず「成長」します。

使徒2:17
神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

主の霊が注がれたならば、あなたも「預言」するのです。

主よ、私の舌をあなたに委ねます
聖霊様が私の舌を支配してくださいますように
主よ、徳を建て上げることばをお与えください