No.205 私は主に心を注ぎだします

星空

詩篇62:8
民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎだせ。神はわれらの避け所である。

どんなときにも信頼するのです

聖書は言います。

「どんなときにも神に信頼せよ」

「どんなときにも」です。私たちは「どんなときにも」神を信頼することができます。いえ、むしろ「信頼するべき」なのです。

私たちは、この方を「信頼して」そして「心を注ぎだす」のです。

失敗も、悲しみも、誘惑にあっていることも、ささいな喜びも、楽しみも、好きなことも、嫌いなことも。

すべての思いを御前に「注ぎだす」のです。

上手に言葉が出てこなくてもよいのです。たどたどしくてもよいのです。それでも「心を注ぎだす」のです。

何も言葉が出てこなければ「神よ、私を探ってください」と言えばよいのです。

すべてのことを「そのまま」申し上げればよいのです。隠しても無駄なのですから。

できないことは「できません」と言えばよいのです。

罪を犯したなら悔い改めなければなりませんが、その結果を負うことが困難だと思うなら「助けてください」と叫べばよいのです。

足りないものがあれば「与えてください」と言えばよいのです。

ヨハネ2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

マリアは、ぶどう酒がなくなったので、ただそのまま率直に「ぶどう酒がありません」とイエス様に言いました。

私たちも、そう言えばいいのです。

私たちは「みこころかどうか分からない」からと言って祈ることをしません。しかし、自分で「みこころかどうか」を考えて何になるのでしょう。それは、主が「決められる」ことです。

それが、答えられるかどうかは問題ではありません。私たちの多くは「言わなさすぎる」のです。

私たちは、一人で自分の心の中で、自分自身と会議をするかもしれません。ある人は、友人や家族、会社の同僚などとは頻繁に話し合っているかもしれません。

しかし、「神の御前に心を注ぎだす」ことは少ないのです。

祈りを形式的なものにしてはなりません。「心を注ぎだす」ことは、主を信頼することです。信頼は、形だけの付き合いからは、決して生まれません。

あなたは、本音の分からない人を心底から信頼できますか。自分の情報を隠す人に、あなた自身の情報を開示できますか。自分の思いを隠す人に、あなたの心の中の大切な秘密を明かせますか。

主は、あなたに「信頼」されたいと望んでおられるのです。全能の神が、あなたの信頼を得たいと望んでくださっているのです。それは、あなたに、主ご自身を啓示したいと願われるからです。

詩篇62:8
民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎだせ。神はわれらの避け所である。

主は、私たちの「心」を望まれます。主は、私たちの「心」に何があるのかを、私たちの言葉で聞きたいと望まれるのです。

私たちは、私たちを愛してくださり、私たちの心を知りたいと思ってくださる方を信頼するのです。この方を「どんなときにも」信頼するのです。

私は主を信頼します
私は心を注ぎだします
主にすべてを明け渡します