エペソ1:7
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。
身代金とはキリストの血です
キリストにあって「私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けて」いると聖書は言います。
「贖い」という概念には様々な意味が含まれていますが、この箇所に使われている原語の本来の意味は「身代金を払って自由にすること」です。
「背きの罪」とは、直訳すると「様々な違反」です。私たちの「様々な違反」は赦されました。神様の戒めに「違反」したことのすべてが赦されたのです。
私たちは、捕らわれの身でした。
私たちは「背きの罪の中にあり」「空中の権威を持つ支配者」の奴隷として生きていました。
しかし、私たちは解放されました。なぜなら御父が「身代金」を支払ってくださったからです。その「身代金」とは「キリストの血」です。
私たちの「身代金」は完全に支払われました。サタンは私たちの「様々な違反」に対して「権利」を主張してきます。「罪を犯した償いをしろ。できなければ、お前は俺様のものだ」と言うわけです。
しかし、覚えてください。
すべては「神の豊かな恵みによること」なのです。
デレク・プリンスという牧師は言いました。「神様は、やり過ぎだ」と。つまり「豊かに支払い過ぎだ」ということです。
イエス様の尊い御血は「たった一滴」であっても全世界を救っただろうとデレク師は言います。しかし、イエス様は「すべての血」を流されたと。
私も、そう思います。私も、イエス様は「すべての血」を流されただろうと信じています。「一滴」であっても尊い神の御子の「御血」が「すべて」流されたのです。
それが「神の豊かな恵み」の証です。
つまり、あなたと私のための「支払い」は十分なのです。全世界の「贖い」のための「身代金」は十分なのです。それは「余りある」のです。主は「十分以上に」血を流してくださいました。
イエス様はご自身の「いのちのすべて」を私たちのために支払ってくださったのです。サタンは「キリストの血」を私たちが持ち出すとき「支払いが十分である」ことを認めざるを得ないのです。
私は「違反」を責め立ててくる敵に対して、怯えたり恐れたりする必要はまったくありません。
しかし、もし、あなたが、もはや不当な敵の訴えに耳を傾けてしまって、罪悪感に打ちのめされているのであるならば…
「主イエスの流された血は私を贖うのに十分だ」と、今すぐ宣言すればよいのです。
私たちの神は「支払い過ぎて」くださいました。それは、あなたが安心して宣言できるためにです。「様々な違反」が多すぎて、もしかすると私のための支払いは「足りない」のではないかと心配することがないようにです。
私たちの神は「豊かな恵みの神」です。それは「余りある恵み」です。
私たちは「キリストにある」のです。それはすなわち「その血による贖い、背きの罪の赦し」を受けているということです。
私たちは「神の豊かな恵み」に信頼して歩むのです。
私は「キリストの血」によって贖われています
イエス様の血によって、すべての背きの罪は赦されました
豊かな恵みを感謝します