エペソ6:18
あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
すべての聖徒のために祈ります
「聖徒のために祈る」なんて難しそうで、何を祈ればいいのか分からないなどと言われます。
確かに「とりなし手」なる人々の証を読んだり、聞いたりすると、「自分には無理だな」と痛感します。
ある人は、まず、そんなに重荷を感じないし、続けて何時間も祈れないし、何より神様の御声なんて聞こえてこないなどと言います。
多くの人が「祈る気持ちはあるけれど何を祈ればいいのか分からない」と感じているのではと思います。
祈りは「武器」です。剣は手の届くところの敵を倒しますが、「祈り」は遠くの場所にまで飛ばすことができる「ミサイル」だと、ハ・ヨンジョ師が言っていました。
しかし、難しく感じる必要はありません。祈りは、優しい気持ちがあれば一言でも大丈夫なのです。
基本的に私たちのすべての言動は「愛によって働く信仰」からでなければなりません。「祈り」は、義務から行うのではなく、愛の心、思いやりの心から溢れてくるものです。
水野源三さんの「道案内」という詩があります。私は、この詩の心が「聖徒のために祈る」ことの基本形ではないかと思うのです。
主よ
道案内しますので
お訪ねください
コスモスの花が咲き乱れる
あの家です
淋しく病むあの人に
お話してください
父なる神様の
深いみ愛をこんな美しい朝に 水野源三の世界 いのちのことば社
源三さんは、首から下が自由に動かせないので、自分で「淋しく病むあの人」のところには行けません。なので、「主よ、どうぞお訪ねください」と祈るのです。そして、実際、それが一番良いのです。
私たちも同じように祈ることができます。
すべての聖徒のために祈りましょう。何と祈ればいいのか分からないと言わずに祈りましょう。一言でもいいので日々祈りましょう。
「主よ、あの兄弟をお訪ねください。思い煩っています。お語りください」
「主よ、あの姉妹をお訪ねください。悲しみに沈んでいます。お話してください」
私たちは、その人のところに「主が訪ねて」くださるように願いましょう。そうすれば必ず、主が「訪ねて」くださいます。天にも地にも満ちている方に訪ねられない場所などありません。
あなたが主の御前に「一言の祈り」を続けるなら、そのうち、主は「もっと多く」のことばを与えてくださるでしょう。蒔く者には「種」を与えられる方は、祈る者に「祈りのことば」を与えてくださると私は信じています。
そうすれば、あなたはもう「何を祈ればよいのか分からない」とは言わなくなります。
「あらゆる祈りと願い」を駆使して祈れるようになります。どんな時にも御霊によって祈れるように必ずなります。
私は聖徒たちのために祈ります。
主よ、どうかすべての聖徒を訪れてください。
愛をもって働く信仰によって祈れますように。