民数記6:27
アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。
わたしの名を置くなら祝福すると言われます
主は、私たちを祝福したいと望んでおられます。
祝福を受けるために必要なことは「主の御名を置く」ことです。
主は、大祭司アロンに祝祷を示してくださいました。
「祝祷」は、アロンたちが自分勝手に作り出した祈りではありません。
主ご自身が「このように祝福しなさい」と示されたものです。
これは、主の「みこころ」です。
主が、あなたに与えたいと望まれる「祝福」です。
アロンが、「このように祝福」するならば、イスラエルの民の上に「主の御名が置かれる」のです。
「祝福」は「主の御名が置かれる」ところに注がれます。
「祝祷」は魔法の言葉でも呪文でもありません。ただ暗記して唱えればよいわけではありません。そのような軽々しい扱いをしてはなりません。
「主の御名を置く」のだという敬意と信仰が大切です。
「主が」祝福してくださるのです。
「主が」恵んでくださるのです。
「主が」平安を与えて下さるのです。
すべてに、主の御名を置きましょう。
「置く」とは、その置くものに「ある位置を占めさせる」という意味です。
祝祷とは、主の御名のもとに「あるのだ」という宣言です。
私たちの上に「主の御名が置かれてる」ならば、私たちは「主の名」で呼ばれることになります。
大祭司アロンの額の上には「主の聖なるもの」という純金の札がありました。
そのように、私たちにも「主の御名が置かれる」なら「主の聖なるもの」という印が押されるのかもしれません。
見えない戦いにおいて、それは「とても有効」であると私は思います。
私たちは「主の御名」を置きましょう。「このように祝福しなさい」と命じられているとおり、祝祷をささげましょう。
自分の上に「主の御名を置いて」歩みましょう。
兄姉のうえに「主の御名を置き」ましょう。彼らが祝福されるためです。
あなたの上に「主の御名」が置かれているならば、敵は震えあがるでしょう。
誰も「主の御名」に立ち向かうことはできません。
「主の御名」が置かれているなら、主は必ず祝福してくださいます。
私は「主の御名」の下にいます
主が祝福してくださいますように
主が御顔を照らしてくださいますように