ルカ18:1
いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
これは信仰の戦いです
イエス様は「いつでも祈るべき」で「失望してはならない」ことを教えたいと思われたのです。
つまりそれは「大切なことだ」と言うことです。
イエス様は「しつこく求めるやもめ」のたとえ話をされました。
彼女は、誰かから「訴えられて」いました。それが、身に覚えのあることなのか、それとも、まったくの言いがかりなのか、それは分かりません。
どちらにせよ、彼女には「自分を守る術」がなかったのです。
この裁判官は、自分自身のことを「神を恐れず、人を人とも思わない」と言うような人です。彼は「不正な裁判官」です。
しかし、そのような彼が「やもめ」の訴えを取り上げて裁判を行なってやろうと考えるのです。
「うるさくて仕方がないから」とは、これはまた、ずいぶんな理由です。この言い方が面白くて、私はついつい笑ってしまいます。イエス様のたとえ話は愉快ですね。
「私は疲れ果ててしまう」とは、別訳では「私の顔をたたき続けることになる」です。
つまり「私は、さんざんな目に会わされるだろう」と言っているのです。もう少しくだけた言い方をするならば「あいつのせいでおかしくなってしまう」という感じでしょうか。
イエス様は言われます。
私たちの「主なる神」は、私たちの訴えを「うるさくて仕方がない」とは決して思われません。
主は、私たちが御前に出ることを待ち望んでおられます。
どうか、覚えてください。
「いつでも祈るべき」なのです。「失望してはいけない」のです。
私たちを訴える敵が「吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」います。
主は、不正な裁判官のような対応はされません。
「主なる神」は、すみやかに対処してくださいます。
問題は「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られる」かどうかなのです。
これは「信仰の戦い」です。「霊的な戦い」のことです。
一緒に祈り続けましょう。
「しつこいやもめ」となりましょう。不正な裁判官が「おかしくなりそうだ」と音を上げるほどに「ひっきりなし」に祈ろうではありませんか。
そのような、ある意味「泥臭く」「格好の悪い」「なりふり構わない」祈りが必要なのだと私は思うのです。
誰かに「そこまでしなくても」「そんなにしつこく求めなくても」と言われても、それでもやめない、そのような祈りが必要なのだと思うのです。
主よ、訴える者を退けてください。御国を来たらせてください。私たちの地境を広げてください。
私たちは、朝昼夜と祈り続けましょう。主が来られる日まで祈り続けましょう。
主は、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。
主よ、訴えを聞いてくださることを感謝します
いつでも祈ることができますように
失望せず祈り続けることができますように