No.430 いつでも祈るべきで、失望してはいけない その①

待ち望む猫

ルカ18:1
いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。

これは信仰の戦いです

イエス様は「いつでも祈るべき」で「失望してはならない」ことを教えたいと思われたのです。

つまりそれは「大切なことだ」と言うことです。

イエス様は「しつこく求めるやもめ」のたとえ話をされました。

ルカ18:3
その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」と言っていた。

彼女は、誰かから「訴えられて」いました。それが、身に覚えのあることなのか、それとも、まったくの言いがかりなのか、それは分かりません。

どちらにせよ、彼女には「自分を守る術」がなかったのです。

この裁判官は、自分自身のことを「神を恐れず、人を人とも思わない」と言うような人です。彼は「不正な裁判官」です。

しかし、そのような彼が「やもめ」の訴えを取り上げて裁判を行なってやろうと考えるのです。

ルカ18:5
このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやろう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。

「うるさくて仕方がないから」とは、これはまた、ずいぶんな理由です。この言い方が面白くて、私はついつい笑ってしまいます。イエス様のたとえ話は愉快ですね。

「私は疲れ果ててしまう」とは、別訳では「私の顔をたたき続けることになる」です。

つまり「私は、さんざんな目に会わされるだろう」と言っているのです。もう少しくだけた言い方をするならば「あいつのせいでおかしくなってしまう」という感じでしょうか。

イエス様は言われます。

ルカ18:6~7
不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

私たちの「主なる神」は、私たちの訴えを「うるさくて仕方がない」とは決して思われません。

主は、私たちが御前に出ることを待ち望んでおられます。

どうか、覚えてください。

「いつでも祈るべき」なのです。「失望してはいけない」のです。

私たちを訴える敵が「吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」います。

主は、不正な裁判官のような対応はされません。

ルカ18:8
あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

「主なる神」は、すみやかに対処してくださいます。

問題は「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られる」かどうかなのです。

これは「信仰の戦い」です。「霊的な戦い」のことです。

一緒に祈り続けましょう。

「しつこいやもめ」となりましょう。不正な裁判官が「おかしくなりそうだ」と音を上げるほどに「ひっきりなし」に祈ろうではありませんか。

そのような、ある意味「泥臭く」「格好の悪い」「なりふり構わない」祈りが必要なのだと私は思うのです。

誰かに「そこまでしなくても」「そんなにしつこく求めなくても」と言われても、それでもやめない、そのような祈りが必要なのだと思うのです。

主よ、訴える者を退けてください。御国を来たらせてください。私たちの地境を広げてください。

私たちは、朝昼夜と祈り続けましょう。主が来られる日まで祈り続けましょう。

主は、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。

主よ、訴えを聞いてくださることを感謝します
いつでも祈ることができますように
失望せず祈り続けることができますように