ヤコブ1:12
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。。
イエス様も試みられました
イエス様は、バプテスマを受けられた後、すぐに宣教を始められませんでした。御霊は、まず、イエス様を荒野に導かれたのです。それは、悪魔の試みを受けるためでした。
イエス様は「人」として試みにあってくださいました。「人」は誰でも「試み」にあうのです。
「試み」とは、試験のことです。不遜にも悪魔は、イエス様をテストしようと待ち構えていたのです。御父は、そのことを許されました。
しかし「試み」とは、いったい何でしょう。人はなぜ「試み」にあうのでしょう。今回は、「試み」について一緒に考えたいと思います。
私たちは試練にあいます。しかし、主は、試練に耐えて欲しいと願っておられます。ゆえに、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。
反対にサタンは、試練に耐えて欲しくないと願っています。ゆえに、試練の時に誘惑してくるのです。つまり、試練と誘惑は、しばしば同時に起こるということです。これが、試練と誘惑の区別をつけがたくしている理由です。
「試練」と「誘惑」は違いますが、その目的は、ある意味において同じであると言えます。
主は、イスラエルが40年間、荒野で過ごした理由を教えてくださいました。それは「苦しめて、試す」ためでした。
主はイスラエルの「心のうちにあるものを知るため」に荒野にイスラエルを導かれたのです。
「試練」の目的は、私たちの「心のうちにあるものを知るため」です。
主は、その試練によって、私たちの本当の心をあらわにされるのです。そして、実は、サタンの目的も同じなのです。
主は祝福するために試されます
主は、アブラハムに理解できない命令をされました。「あなたの愛するひとり子イサクを全焼のささげ物にせよ」と命じられたのです。
これは「試練」でした。主はアブラハムを試されたのです。アブラハムの「心のうちにあるものを知るため」にです。アブラハムの心にあるものは明らかにされました。
アブラハムの心からは「従順」があらわれました。「神を恐れていること」が明らかになりました。「自分のひとり子さえ惜しむことがない」心が証しされました。
主は、アブラハムを「大いに祝福し」と言われました。
試練にあわせたのは「祝福するため」です。それも「大いに」祝福するためです。
主がなさることは、すべて私たちを祝福するためのことです。私たちは試練にあいますが、それは私たちが「成熟した、完全なもの」になるために用いられます。
私たちは、どのような試練にあったとしても「神が真実な方」であり、その目的が「祝福するため」であることを忘れてはなりません。
サタンは罪に陥るように誘惑します
サタンの目的を、最も分かりやすく記しているのはヨブ記ではないかと思います。
サタンはヨブに心を留めました。そして、主に言ったのです。
「あなたがヨブを祝福しているので、ヨブは誠実でいられるのです。祝福が取り去られたとしても誠実でいられるのか試してみましょう」
ヨブが苦難にあった理由は「誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」からです。主が「わたしのしもべ」と親しく呼ばれるような人であったからです。
主は、サタンがヨブを「試す」ことを許されました。そうして、ヨブの苦難が始まりました。
サタンは、全財産を奪い、息子、娘の命を奪えば、ヨブは「罪に陥り、神に対して愚痴をこぼす」と思ったのです。苦しい目にあわせれば「神を呪う」だろうと考えたのです。
ヨブは「神に対して愚痴をこぼすようなこと」はしませんでした。それどころか「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と賛美したのです。
ヨブの心は「甘い水」で満ちていて、その口から湧き出したのは「賛美」でした。
しかし、サタンは、何とかしてヨブの心に「苦い水」を満たし「愚痴や不平不満」を湧きあがらせようとします。これがサタンのやり口なのです。
サタンは、ヨブ自身を「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打った」のです。これは、ひどい仕打ちです。
しかし、ヨブは「このすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった」のです。
明らかに、ヨブの心のうちには「甘い水」が満ちていました。このような苦難にあっても、彼は決して「神を呪う」ようなことはしなかったのです。
主は、ヨブの心のうちを喜ばれたと思います。
しかし、苦難はまだ続きました。
サタンは、私たちの心にあるものを明らかにしようとします。それは、ある意味において「神の与える試練」と同じ目的です。しかし、決定的な違いは、サタンは「甘い水」を「苦い水」に変えようとしてくることです。
たとえ最初は「甘い水」であったとしても、「苦み」を入れ続けることによって「苦い水」に変わるだろうと考えているのです。
これがサタンの試みです。それは常に「悪に誘惑する」のです。
試練の先にはいつも祝福があります
私たちは知っています。ヨブがとうとう「苦い水」を湧きあがらせてしまうことを。
しかし、その先も知っています。
主は、ヨブと対話してくださいました。苦難の理由をはっきりと語られたわけではありません。しかしヨブは「わたしの目があなたを見ました」と告白しています。
どれだけサタンが活躍しようとも、その結果、私たちの心が「苦い水」で満ちてしまうことがあったとしても、それでも、やはり「試練」を耐え忍べば「祝福」が与えられるのです。
ただ、覚えていてください。
サタンは私たちに「愚痴」や「不平不満」を言わせるために「試みる」のだということを。「唇の罪に陥れたい」と願っていることを。サタンは、私たちの心のうちに「苦い水」があることを、どんな手段をもってしても立証したいのです。それが、とても主の心を傷つけると知っているからです。
私たちが「愚痴」や「不平不満」を言うときに、誰よりも喜ぶのはサタンなのです。
イエス様はなぜ「試み」を受けられたのでしょう
イエス様が荒野に導かれたのは「試み」を受けるためです。
「試み」の目的はいつも同じです。イエス様も「心のうちにあるものを知るため」に試されたのです。
サタンは、こんな誘惑にイエス様が惑わされると本気で考えたのでしょうか? サタンはそんなに賢くないのでは?
私は、最初にこの聖句を読んだときにそう思ったのです。
しかし、聖書は言います。「蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」と。サタンは賢いです。何よりも狡猾です。となると、結論は一つです。
サタンは、このような誘惑でイエス様を惑わすことができると考えていたということです。
私たちは、イエス様が「まことの神である」ことを信じています。しかし、イエス様は同時に「まことの人」であるのです。この地上を「人」として歩まれました。神が人として生きられるとは、理解することのできない驚くべき事実です。
つまり「人として」のイエス様は「誘惑に屈する可能性があった」ということです。「人として」それは当然のことです。そうでなければ、イエス様が「罪を犯されなかった」ことは特筆すべきことではなくなります。
イエス様は宣教を開始される前に「何もない」ということを経験してくださいました。荒野で一人過ごされました。40日40夜の断食をされました。そして、人として「空腹」を覚えられたのです。
体が弱さを覚えている、そのようなときに「試みる者」は近づいてきたのです。そして、あろうことか、今一番言ってはいけない「食物」の話を持ちかけてきたのです。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」
サタンは、この誘惑でイエス様の心のうちから何を引き出そうとしたのでしょうか。それは、この地上で歩むとき、人として「何に依存しているのか」を明らかにしたかったのです。
そして、それが明らかにされることは御父のみこころでもあったのです。ゆえにこれは「試練」と同時に「誘惑」でもあったということです。
それは信頼をあらわすことでした
さて、考えてみましょう
空腹のときにパンを食べることは罪ではありません。空腹のときに、御父に食べ物をくださいと祈ることも罪ではありません。たとえ、イエス様が「石をパンに変えた」としても罪を犯されるわけではありません。
御霊の御力を「自分の肉の欲」のために使うのは救い主にふさわしくないからであるとは、よく聞く教えです。もちろん、その通りだと私は思います。けれど、それだけではないとも思うのです。
「試み」の目的は「心のうちにあるものを知るため」です。「石をパンに変える」という行為は、どのような「心のうちをあらわす」ことになるのでしょう。
それは、イエス様のお答を聞けば分かります。
イエス様は、人としてこの地を歩いておられたとき、私たちと同じように飲食をされました。サマリヤの女性に「水を飲ませてください」と言われたこともあります。空腹な群衆をかわいそうに思われて、パンと魚を増やして満腹にさせてくださったこともあります。イエス様は食物を軽んじてはおられません。
しかし「パンだけで生きて」はおられませんでした。もし、イエス様が「石をパンに変えて」空腹を満たされたなら「パンによって生きている」とみなされます。
サタンが引きだそうとしたのは「神以外により頼む心」です。イエス様は地上を歩かれたとき、ご自分の力に依存してはおられませんでした。
イエス様は完全に従順であられたのです。ご自分の「神としての御力」を自分のために使うことはおろか、どんな人のためにも、どんなことのためにもお用いにはなりませんでした。
イエス様は「神としてのあり方を捨てられた」のです。しかし、サタンは「はたして本当にそうなのでしょうか?」と試みてきたのです。
イエス様は「御父のみこころ」だけを行われました。それは徹底的にそうであったのです。御業を行うことだけではなく、生き方そのものを委ねておられました。
「学ぶ」とは、経験することによって知ることであると辞書にはあります。
イエス様は、全知全能の神でありながら、ご自分を無とされ、私たちと同じように「経験しながら」すべてのことを知ってくださったのです。
飢えることも渇くことも知られました。罪は犯されませんでしたが、すべての点において試みにあわれたのです。
イエス様は、実際に何も心配せずに生きられました。すべてを御父に依存して生きられました。「パン」がいのちを保っているのではないのです。いのちは「御父」が握っておられるのです。
もし、イエス様が「石をパンに変えた」なら、いのちを保つのは食物であると認めたことになるでしょう。イエス様の心のうちに「御父への信頼がない」ことになってしまいます。
サタンは、自分の力で生きるようにと誘ってきました。しかし、イエス様は決して御父以外に頼って生きようとはされませんでした。
イエス様の心には御父への愛と従順が満ち溢れていました。サタンが「苦み」を入れる余地はそこにはなかったのです。
イエス様のように退けます
イエス様の心には「みことば」が満ちていました。「試み」によって、イエス様から引き出されたのは「みことば」です。
その後も、サタンはしつこくイエス様を試みました。しかし、サタンのどのような誘いもイエス様は「みことば」によって退けられました。
これは、私たちが試練にあったときの模範です。御父が試練を許されたなら、サタンは走って私たちを誘惑しにやって来るでしょう。
そのとき、私たちから湧きあがるのは「甘い水」でしょうか?
私たちの心は「みことば」で満ちているでしょうか?
サタンは、私たちから「愚痴」や「不平不満」を引き出そうとします。私たちが「神を呪う」ことを望んでいるのです。「唇の罪に陥らせる」ために「苦み」を入れてくるのです。
ここまでなら我慢できるけど、これ以上はという状況に陥ることがあります。私たちは爆発してしまって「心にもないことを言ってしまった」と言います。
しかし「心にあることを口は話す」のです。爆発したときに出る言葉は「心にあること」なのです。
私たちの心にサタンが「苦み」を注ぐことを覚えてください。私たちの心は「苦い水」で少しづつ満たされていて、そして、最終的にそれがあふれ出てしまうのです。
私たちは「試練」を耐え忍びます。しかし「誘惑」には立ち向かうのです。
「試練」のとき、私たちの思いに「苦み」が加わったとしたら、それはサタンの仕業であると覚えてください。
御霊に満たされているあなたの心には「甘い水」が湧き上がっています。賛美を口から湧き上がらせることができるはずです。
しかし、苦難が続くと「喜んでいた心」が急にしぼんでしまうように感じることがあります。
主に感謝し、賛美をささげたいのに、心の中が「苦い」思いで満ちてしまって「愚痴」や「不平不満」があふれ出してしまうのです。
そうなるように仕向けている敵がいるのです。心の中の「苦い水」に気がついたなら、それこそ立ち向かうべき時です。「みことば」によって立ち向かいましょう。
「苦み」が溢れて「苦い水」で満たされてしまう前に立ち向かいましょう。
「愚痴」が口から出た瞬間に捕まえてください。それはサタンです。
心に「苦み」を少しでも感じたなら捕まえてください。私たちは「苦み」を退けなければなりません。
主から目を離してはななりません
敵は必ず「目を逸らせる」ように仕向けてきます。つまり「主なる神」から目を離すように誘ってくるのです。
苦難に目を向けさせます。「パンがないこと」が重大な問題であるかのように言ってきます。「空腹」に目を向けさせます。
サタンはヨブに「神はヨブを見捨てた」と思わせたのです。ヨブは「神は答えてくださらない」と思いました。しかし、それは偽りです。
ヨブの言ったことを思い出してください。
いつでも、どんな時でも「主を見る」ことが、すべての答えなのです。人から聞いた神の上に信仰を建て上げることはできません。あなたは、あなたの目で主を見なければならないのです。
そして、主を見たならば、決して目を離してはなりません。一心に真実な方を見続けるのです。
そうすれば、私たちの心は常に「甘い水」で満たされます。そして、口から「賛美」を湧き出させることができるでしょう。
試練の時、賛美を湧きあがらせることのできる人は幸いです。
確かに「試練」はあります。同時にサタンが「誘惑」してくることもあります。
しかし、どんな苦難の上にも神の主権があることを忘れてはなりません。主はすべてを治めておられます。主の許しなしに苦難は起こらないのです。
神の愛を疑ってしまうぐらい辛いことがあったとしても、この苦しみに意味なんて見出せないと思ったとしても、それでも、その上に神の御手があることは確かなのです。
主は、あなたに試練に耐えて欲しいと願っておられます。イエス様は私たちに同情できない方ではありません。
主は、忍耐の先にある祝福にあずかって欲しいと思っておられます。祝福は用意されているのです。
私たちは「甘い水」に満ちましょう。そして、あらゆる場合に賛美をささげましょう。
しかし、もし「苦い水」が心に満ちることがあったとしたら、その場合は耐え忍んではいけません。速やかに立ち向かうべきです。
私たちも同じように言うべきです。立ち向かうなら、サタンは必ず退きます。
それで状況が変わることもあります。また変わらないこともあるでしょう。主が良しとされるまで耐え忍ぶ必要があるかもしれません。
しかし、立ち向かうならば「誘惑」する者は退きます。
あなたの心には「甘い水」が満ち溢れ、あなたの口は「主をほめたたえる」でしょう。あなたは必ず試練を乗り越えることができます。
試練の先には「祝福」があります。主が、あなたを試練にあわせるのは「心のうちを知るため」です。そしてまた、それは「祝福を与えるため」です。
終わりの日が近づくにつれ、私たちの苦難も増すでしょう。しかし、走り抜けましょう。主から目を離さずに、一心にゴールを目指して走りましょう。その先に、主は必ず御手を広げて待っておられます。
走り抜けた私たちは、必ずいのちの冠を受けるのです。
祝福を祈ります。