創世記5:24
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
赤ちゃんの後追いのようだと思うのです。
創世記5章のこの短い一節は、いつ読んでも何度読んでも新鮮な感動を覚えます。
エノクは死を見なかったのです。
エノクは、神に喜ばれていたと聖書は言っています。
もちろん、それは「信仰によって」だということは分かります。「信仰がなければ神に喜ばれることはでき」ないからです。
けれど、エノクが信仰によって「どのように生きたのか」を私はもう少し詳しく知りたいと思ってしまうのです。
「エノクは神とともに歩んだ」を直訳するとこうなります。
「エノクは自ら神とともに歩き回った」
私は、この直訳を知ったとき「なんだか赤ちゃんの後追いみたいだな」と思ったのです。楽しそうに、主の後を追いかけるエノクの姿が見えるような気がします。
時には、仲良く並んで歩くように、時には、静かに語り合いながら、常にかたわらに主の臨在を感じながらエノクは人生を歩んだのでしょう。
ある人は言います。
「人生は長さではない。だれと歩んだのかが大切なのだ」と。
ハイハイができるようになった赤ちゃんは、保護者の後をどこまでもどこまでも追いかけてきます。それは、追いかけられる保護者にとって何とも愛らしい姿でしょう。(もちろん、実際には、家事の邪魔になったり、障害物が気になったりと困ることも多いでしょうが)
後追いは、ママやパパといった長い時間ふれあう保護者のかたに愛着や信頼感が芽生え、特別な存在だと認識できるようになることをきっかけに始まると考えられています。そのため、少しでも視界からいなくなると大きな不安を感じ、泣き出したり探し回ったりするのです。
ベネッセ教育情報HPより
エノクは、「自ら神とともに歩き回った」のです。
常に「神と」歩いたということです。「自ら」つまり自主的に、神とともに歩いたのです。
65年間は、普通の信仰者だったかもしれません。しかし、メトシェラが生まれてからの300年は、ずっと「自ら神とともに歩き回る」ようにして生きたのです。
エノクの中に「愛着や信頼感が芽生え」たのです。神を「特別なお方」として認識するようになったのです。
エノクは、神とともに「歩きたい」と自ら願ったのです。
私たちは「主がともにおられます」と告白します。それは、正しいことです。感謝なことです。
しかし「私」はどうでしょう?
「私」は、自ら望んで、神の御顔を慕い求めているでしょうか。
私たちは「主よ、私があなたを忘れる瞬間も、あなたがそばにおられることを感謝します」という態度をとっているのではないでしょうか。
確かに、私たちは、主に忘れられることはありません。主は、私たちを手のひらに刻み付けて、常に愛して下っています。
しかし、私は、神に愛され、なおかつ「喜ばれ」たいと思うのです。
私たちも言いましょう。
「主よ、あなたの御顔を慕い求めます」
私たちも「自ら」望んで、主とともに歩みましょう。
主よ、私はあなたを慕い求めます
あなたとともに歩きたいのです