ヨハネ6:57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
主イエスによって生きるのです
「わたしを食べる」とは、主イエスの「肉と血」にあずかることです。
イエス様の打ち傷によって私は癒されました。
イエス様の流された血潮によって私の罪は赦されました。
しかし「食べる」という表現には「それ以上のこと」が含まれています。
私たちは、主イエスを「食べる」必要があります。
私たちが「食べるもの」は、私たちの中に入り「身体の一部」となります。それは栄養となって私たちを生かします。
イエス様が、わざわざ「食べる、飲む」という表現を用いられたのはそのためです。
「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」
私たちは、イエス様によって生きているでしょうか。
私たちは「主イエスと一体」となって生きているでしょうか。
「わたしが父によって生きているように」とイエス様は言われます。
御父とイエス様の間にある「深い信頼」と「愛」の関係に、私たちも生きることができるのです。私たちは「主と一つの霊」となるのです。
そのためにこそ、主イエスは「いのち」を捨ててくださったのです。
「主と私は一つ」なのです。聖餐式とは「主のうちにあり、主がうちにおられる」ことの確認です。
聖餐式のパンは、本当に「からだ」に変わるわけではありません。
杯の中の「ぶどうの実からできた飲み物」は、本当に「血」に変わるわけではありません。
しかし、私たちは「主の御体」と「新しい契約の血」にあずかります。
それはただ「信仰」によるのです。そして、信じる者のために「御霊がいのち」を与えてくださいます。御霊と信仰によって「霊でありいのち」となるのです。
私たちは「信仰」によって「御体と血」にあずかります。
そして「信仰」によって「キリストが私のうちに生きておられる」と確信するのです。
今、私たちが生きているのは「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰による」のです。
私たちは信仰によって、主イエスの「御体と血」にあずかりましょう。
私は「信仰」によって確信します。
私は「主にとどまって」います。
そして、主は「私のうちにとどまって」おられます。
主は、ともにおられます。いえ、それ以上です。
主は「我がうちにおられる」のです。
イエス様の十字架の御業を感謝します
主の御体と血潮にあずかります
私のうちにおられる方は、この世のあの者より強いのです