Ⅰサムエル15:22
サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
サウル王は主に従ったつもりだったのです
「なぜ、主の御声に聞き従わず、悪を行ったのか」と問う預言者サムエルに、サウル王は「私は、主の御声に聞き従いました」と答えたのです。
サウル王は、確かにアマレク人を討ちました。その民をすべて聖絶しました。
しかし、アガク王は生け捕りにしました。そして、羊や牛の良いものを惜しんで聖絶しませんでした。
もちろん、これは言い訳です。主は「アマレク人を討ち、すべてのものを聖絶せよ」と言われたのです。
ただ討てばよいのではありません。勝利ではなく、全面的に従うことを求められるのです。
サウル王は「あなたの神」と言いました。サウル王にとって、主は、もはや「私の神」ではなかったのです。
主の使命を遂行していても、主の御心から外れることがあります。
サウル王は、確かにアマレク人と戦いました。そして打ち勝ちました。しかし、主は、それを「従順」とは認められませんでした。
「従順」であることは、すべてにまさります。
私たちは、奉仕をすることを「聞き従う」ことであると勘違いしてはなりません。
ある教会のリーダーは、いくつかの委員会で奉仕するために時間を使っていますが、家庭において妻や子どもに愛情を示していません。ある成功した経営者は、神の働きのために何千ドルもささげていますが、商取引において誠実ではありません。賜物が与えられている賛美歌手やワーシップ・リーダーは、日曜礼拝で会衆を導きますが、その週に自分を傷つけた仲間を赦そうとしません。
これらすべての人々は、従順の代わりにいけにえをささげているのです。
最後まで走り抜け デイビット・ヤング著 小山大三訳 岐阜純福音出版会
私は、自分の姿を顧みる必要があると強く感じます。
主が望んでおられるのは「勝利」ではないのです。「勝利」なら、主はご自身で勝ち取ることがお出来になります。
主が私たちに求めておられるのは「従順」であることです。「従順」とは、ただ主との関係に生きることです。
サウル王のように「戦いには勝ったのだから」という態度は、主との「関係」に生きる姿ではありません。
主は、アブラハムに言われたことを私たちにも望まれるのです。
「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」
私たちは、主の前を歩みましょう。主との関係の中で生きましょう。
主は、私たちの「奉仕」や「犠牲」ではなく、私たちとの「関係」を切に望んでおられるのです。
私は、主に聞き従います
主よ、私の心を探ってください
私は、あなたの御前を歩みたいのです