No.86 まことの礼拝者として生きる、今がその時です!

砂時計

【ヨハネ4:23】
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父は、そのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

まことの礼拝者が礼拝する時が来ます。

まことの礼拝者とは、「御霊と真理」によって礼拝する人のことです。御父は、「真の礼拝者」を求めておられます。

御父が求めておられるのは「礼拝」ではありません。つまり、「礼拝」という形ではないということです。

イザヤ1:13
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙り、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集ー わたしは、不義ときよめの集会に耐えられない。

主は、心の伴わないささげ物を「むなしいささげ物」と言われます。

私たちが礼拝と呼んでいるものは、本当に「礼拝」でしょうか?

真の礼拝とは「まことの礼拝者」でなくてはささげられないものなのです。

ローマ12:1
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

「あなたがたにふさわしい礼拝」とは、別訳では「あなたがたの霊的な礼拝」もしくは「あなたがたにとって理にかなった礼拝」となります。

私たちの礼拝とは「自分自身」を献げることです。

それが「霊的であり」「理にかなった」「ふさわしい」礼拝なのです。

「自分自身」を献げるとは「この世と調子を合わせない」ということです。

ローマ12:2
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

「世と調子を合わせない」とは「世の形にはまらない」とも訳せます。つまり、「世を愛さない」ことであり「世の友」とならないということです。

ヤコブ3:4
節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思うものは誰でも、自分を神の敵としているのです。

厳しいことばですね。しかし、「理にかなって」います。

主は「世の友」として歩んでいる人からの礼拝を望んでおられません。「世の友」として歩みながら「主よ、愛します。私をささげます」と聖日礼拝や賛美集会のときだけ大声で叫んだとしても、それは「むなしいささげ物」です。

「世の友」でいることは魅力的ですか?

しかし、もっと麗しい方がおられるのです。私たちは週に一度だけでなく毎日、毎時間、「神を愛し」て「神の友」として歩みます。「世と調子を合わせず」に「御霊に満たされて」歩みます。

御父は「まことの礼拝者」を求めておられます。

「まことの礼拝者」だけが「御霊と真理」によって喜ばれる礼拝をささげることができるのです。

礼拝の霊である「御霊」はここにおられます。「真理」はイエス様ご自身です。

礼拝をささげるのに必要なものは、すべて整えられています。

「今がその時です」とイエス様は言われました。

つまり、私たちは「まことの礼拝者」となれるのです。主は、あなたを「まことの礼拝者」として求めておられます。

今が、その時です。

私は「まことの礼拝者」として生きることができます。
御父が招いてくださっていることを感謝します。
世ではなく神とともに歩みます。