【ヨハネ4:23】
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父は、そのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
まことの礼拝者が礼拝する時が来ます。
まことの礼拝者とは、「御霊と真理」によって礼拝する人のことです。御父は、「真の礼拝者」を求めておられます。
御父が求めておられるのは「礼拝」ではありません。つまり、「礼拝」という形ではないということです。
主は、心の伴わないささげ物を「むなしいささげ物」と言われます。
私たちが礼拝と呼んでいるものは、本当に「礼拝」でしょうか?
真の礼拝とは「まことの礼拝者」でなくてはささげられないものなのです。
「あなたがたにふさわしい礼拝」とは、別訳では「あなたがたの霊的な礼拝」もしくは「あなたがたにとって理にかなった礼拝」となります。
私たちの礼拝とは「自分自身」を献げることです。
それが「霊的であり」「理にかなった」「ふさわしい」礼拝なのです。
「自分自身」を献げるとは「この世と調子を合わせない」ということです。
「世と調子を合わせない」とは「世の形にはまらない」とも訳せます。つまり、「世を愛さない」ことであり「世の友」とならないということです。
厳しいことばですね。しかし、「理にかなって」います。
主は「世の友」として歩んでいる人からの礼拝を望んでおられません。「世の友」として歩みながら「主よ、愛します。私をささげます」と聖日礼拝や賛美集会のときだけ大声で叫んだとしても、それは「むなしいささげ物」です。
「世の友」でいることは魅力的ですか?
しかし、もっと麗しい方がおられるのです。私たちは週に一度だけでなく毎日、毎時間、「神を愛し」て「神の友」として歩みます。「世と調子を合わせず」に「御霊に満たされて」歩みます。
御父は「まことの礼拝者」を求めておられます。
「まことの礼拝者」だけが「御霊と真理」によって喜ばれる礼拝をささげることができるのです。
礼拝の霊である「御霊」はここにおられます。「真理」はイエス様ご自身です。
礼拝をささげるのに必要なものは、すべて整えられています。
「今がその時です」とイエス様は言われました。
つまり、私たちは「まことの礼拝者」となれるのです。主は、あなたを「まことの礼拝者」として求めておられます。
今が、その時です。
私は「まことの礼拝者」として生きることができます。
御父が招いてくださっていることを感謝します。
世ではなく神とともに歩みます。