詩篇23:1
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
私は乏しいことがない
ダビデは、はっきりと宣言しています。
「私は乏しいことがありません」
主が羊飼いなのだから、そんなことは当然だと言わんばかりです。ダビデはほかの箇所でもこう告白しています。
「主を恐れる者、主を求める者には乏しいことはない」と言っているのです。
乏しいことがないとはどういう状態でしょうか。乏しいことがない羊とはどういう状態なのでしょう。私たちは想像します。コロコロした可愛らしい羊が、牧場でのんびり過ごしている姿を。
しかし、本当に状態の良い羊というのは太ってはいないものなのです。コロコロしたまん丸の姿は可愛らしいけれど、太っている羊はとてもよく転ぶそうです。そして羊は、転んでしまうと自力で起き上がれません。
つまり欲しいだけ草を食べられるということが、乏しくないという状態ではないということです。
どうも私たちが想像するところの乏しくない状態と、主が与えてくださる「乏しいことがない」状態は少し違うようです。
「私は乏しいことがない」とダビデが言うとき、それは物質的な満足を意味していないのは明らかです。主の聖徒であっても物質的に貧しい状態に置かれることは実際に起こり得ます。
ダビデ自身もそうだったでしょう。サウルから逃げて逃亡者の身となったときダビデがしたことを思い出してください。
逃亡者となったダビデは「パン五つでも、あるものをください」と祭司アヒメレクに頼んでいるのです。ダビデも、ひもじい思いを経験しているのです。
エリヤはどうでしょう。
主は、カラスを用いてエリヤを養われます。これは素晴らしい奇跡ですね。しかし、お腹いっぱい、いつも満腹とまではいかなかったでしょう。しかも、川の水が涸れるのです。その後、貧しいヤモメに養われることになりますが、もちろん裕福な暮らしではなかったでしょう。
私たちのイエス様はどうでしょう。
「枕するところもありません」と言われました。とても豊かで充分な暮らしであるとは言えません。
パウロはこう言っています。
貧しくあることも富むことも知っていると言っています。パウロは、「どんな境遇にあっても満足することを学んだ」と言っているのです。つまり満足するということに、状況や境遇は関係ないということです。
アー・キンという女性の証
「追龍伝愛-香港九龍城砦へ伝えた愛の記録-」という本があります。ジャッキー・ボリンジャー宣教師の伝記です。1960年代から1970年代にかけての出来事が本になっています。
1つのエピソードだけ紹介します。原文のままでは長くなりすぎるので、かなり要約します。それでも少し長くなりますがご容赦ください。
あなたと同じ職業の人が聖書にいる
「アー・キン(仮名)」と呼ばれている女性の話です。
アー・キンは50歳ぐらいの女性です。寝る場所、つまり家はありません。いつもみかん箱に座ってお客を待っています。彼女が、夜、屋根の下で眠れるのは、誰かに自分を買ってもらったときだけです。彼女の職業は、聖書で言うところの罪深いと呼ばれた女性と同じであったのです。
ジャッキーは、アー・キンにこの罪深い女性の話をしました。
パリサイ人は、この女性を「罪深い女」だと言いました。しかし、イエス様は、その女性に「あなたの罪は赦されています」と言われました。
アー・キンには、この聖書の話が本当によく分かったのです。
彼女は、ジャッキーにこう言いました。
「それこそ、あたしに必要な主だよ」と。
そして、周囲の人々が嘲笑っているのも気に留めず、イエス様を信じると告白して祈ったのです。彼女は祈って、そして顔を上げたのです。その顔は、輝いていました。喜びに満ち溢れていたのです。
ジャッキーは、アー・キンにお金をあげたのではないのです。新しい仕事を紹介したわけでもないし、住む家を提供したわけでもないのです。ただ聖書の話を伝えただけです。
「あなたと同じ職業の女性がいたのよ。イエス様は、罪深いと陰口を叩かれていた女性を愛してくださったの。そして、今、イエス様はあなたをも愛しているわ」
そう伝えただけなのです。
アーキンは、それをただ信じました。そして、ただ主に祈りました。
それだけです。それだけなのです。
そして、それだけのことで彼女の顔は喜びに輝いたのです。
神様にすべてをゆだねる
ジャッキーは、正直、恐れていたことが起こってしまったと思いました。なぜでしょう?
だって救われたばかりの霊的な赤ちゃんを保護してあげるすべが自分にはないのですから。その当時、ジャッキーはマフィアから脱退した少年たちの世話で手いっぱいでした。保護施設は少年たちで溢れていました。アー・キンを入れてあげる場所を見つけることができなかったのです。
財布にお金もありませんでした。バス代すらなかったと彼女は言っています。
しかし、伝えなければなりません。アー・キンは、神様の子どもとなったのですから。
ここから本文を少し引用します。
「アー・キン。あなたは、もう神様の子なのだから、毎日のお米のために男の人を見上げることはないのよ。神様だけを見上げるのよ」
追龍伝愛 p281
アー・キンは、機嫌よく大声で笑って言いました。
「あんた、天から米が降ってくるとでも言うのかい?」
「たぶんね、神様が本当に神様であるなら、天からあなたにお米を送るくらい簡単なことよ。あなたはもう、こんな暮しを続けてはいけないのよ。」
彼女は私の言うことを飲み込んだようだった。
「あのさ。今度あんたに会ったら、お米がどこから来たか教えてやるよ。」
私は箱の上に座った彼女を残して歩き去った。私はそんなことをしたくはなかったし、それは新しい命の幸先の良い始まりとはとても言えなかったが、私は彼女を完全に神様の手にお委ねすることに決めたのだ。
1週間後、私はまた彼女に出会った。
「一つ分かったよ。神様が米代をくれるのは筋が通ってるけど、ヘロイン代はダメだね。」
それが私が彼女を見かけた最後だった。売春婦たちに彼女がどこに行ったのか尋ねると彼女たちは
「ああ、あの人はもうこれをやめたんだよ。どっかに行っちまったよ。ヤクを止めるためにどこかに行ったんだよ」
と言った。私はいつも、アー・キンが、神様が与えてくださった最高の家の中に座っていて、その頭の上に、神様がお米を降り注いでくださる姿を想像している。
この証を紹介したのは、伝道の方法について議論するためではありません。もちろん、様々な意見があるであろうことは承知しています。
けれど、注目していただきたいことは、この「アー・キン」という女性が一瞬で喜びに輝いたということです。そして、この劣悪な環境の中で「新しい場所」へ踏み出す力を得たという事実です。
私は信じます。私も信じたいのです。
私は、「天国に行ったら会いたい人リスト」を作るのが趣味ですが、アー・キンにも必ず会って、そして聞きたいと思います。「ねえ、お米どこから来たの?」って。
主の恵みは十分あります
どのような状況でも、どんな人にでも、主を見上げるならなら喜びが来ます。心が喜びで満ちたります。顔は喜びで輝きます。
パウロの言ってることを聞きましょう。
「わたしの恵みはあなたに十分である」と主がパウロに言われたのです。
ゆえにパウロは言います。
「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」とは、決して喜べるような状況ではありません。しかしパウロは、喜んでいると言っているのです。前の訳(第3版)では「甘んじています」となっていました。原語の意味からすると「喜んでいます」の方が良い訳なのかなと思います。
この「喜んでいる」と訳された語は、ギリシャ語では「~を気に入ってる」「心に適う」「好ましい」もしくは「それに賛同している」「賛成していると」いう意味です。
パウロはこの状態を、「苦難のある今」「困難のある今」を「気に入っている」と言っているのです。この状況に「賛成です」「今が好ましい」と言っているのです。
「喜んでいる」「満足している」今のこの時がどういう状態であったとしてもです。
今、現在を喜んでいるのです。
なぜでしょう?
なぜならパウロはイエス様の言葉を聞いたからです。
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」
イエス様の恵みは、私たちにも十分あるのです。私たちは決して乏しくはないのです。その状況がどんなものであったとしても、主に満たせないほどひどい状況はないのです。主の喜びが輝けない悲しみなどないのです。主の光が届かない暗闇もないのです。
私は、これを自分に言い聞かせています。そうです。自分自身に何度も何度も繰り返し言い聞かせています。
アー・キンよりもひどい状況だという人は、一体どれほどいらっしゃるでしょう。そんな境遇の人はあまりいないのかもしれません。しかし、私は職業柄というか、かなり辛い境遇の方の話をお聞きすることがあります。
ある人は泣きながら、ある人はポツリポツリと、ある人は怒りに満ちて…
そして、いつも私は心の中で思います。「何を言えばいいのかわからない、何をすればいいのかもわからない」と。
「神様なぜ?」と叫びたくなることもあります。「本当にこの状況が改善するのか?」と疑いたくなることもあります。しかし、そのような時、私は「アー・キン」の証を思い出します。そして、自分に言い聞かせるのです。「神に不可能なことは一つもない」と。
主の御手は「下」にあります。私たちが思う「どん底」よりも「下」にあります。
覚えてください。永遠の御手はいつも下にあるのです。
ダビデは言います。「私は乏しいことがありません」と。飢えも渇きも、追われる恐怖も、反逆されることも、失う辛さも、裏切られた絶望も、全てを経験したダビデが言うのです。「私は乏しいことがない」と。
なぜですか?
主が羊飼いだからです。
族長ヤコブも言います。
「今日この日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ」とヤコブは告白しています。
そうです。主こそ「私の羊飼い」なのです。
牧場の羊は、羊飼いがそばにいると争いをやめるそうです。羊は羊飼いがそこにいるだけで争いをやめ、恐れから解放され、牧場に伏すのです。羊飼いがいるから安心安全だと、ちゃんと分かっているのです。
「主は私の羊飼い」
私たちがこの方を見上げるなら、心の争いは治まります。ザワザワした心は落ち着きを取り戻します。恐れは消えます。主を見上げるなら、私たちは満ちたります。
主よ。あなたこそ羊飼いです。
私は乏しいことがありません。
今、祈りましょう。
私たちの手をも心をも神に向かってあげましょう。そして喜びにあふれて宣言しましょう。
「私は乏しいことはありません」と。