No.272 それは「キリストの平和」ではないからです!

ブランコの子

コロサイ3:15
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

キリストの平和が審判者です

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と聖書は言います。

「支配する」とは「審判者である」「裁定する」「仲裁する」「決定する」などとも訳せます。

私たちは「心の平和、平安」に導かれて歩む必要があります。「キリストの平和」によってすべてを判断して歩まねばなりません。

しかし、ある人は言います。

「それは分かるけれど、私の平安は当てにならないのです」

私は、そのように言う人の気持ちがよく分かります。私も、ずっと「自分の平安はあてにならない」と感じてきましたから。

オズワルト・J・スミスという聖書教師が、とても分かりやすい証をしています。

ある時私は、バンクーバーでビクトリア行きの船に乗りました。私は席を取り、船客を見回しました。万時好都合にいっていると感じていました。恐れも、疑いも、不安もありません。切符は買ったし、ビクトリア行きの船に乗っているのです。~中略~
私は心の底から船旅を楽しんでいました。そのうちに事務長が来て、私の切符を調べました。その瞬間、私の感情は大きく変動しました。私は間違った船に乗っており、ビクトリアではなく、ワシントン州のシアトルに向かっているとのことでした。~中略~
わたしの感情は、導きに関するかぎり、完全に私を裏切りました。
聖霊の満たし オズワルド・J・スミス著 いのちのことば社

私は、この証を読んだとき、なぜ「私の平安はあてにならないのか」という謎が解けました。

私が「平安」だと思っていたものは「穏やかな気持ち」「不安のない気持ち」という感情であったということです。

確かにそうなのです。

よく自分を観察してみると「胸のあたりがぞわぞわしないこと」「不安がないこと」を「平安」であると思っているようなのです。

それは「平安」ではありません。

私たちは「不安がない」「心が穏やかである」ことを基準にして、自分の人生に決断をもたらします。

それが上手くいけば「平安があったからな」と満足します。

しかし、うまく行かなければ「私の平安はあてにならない」とがっかりしてしまうのです。

当てにならないのは「平安」ではなくて「感情」なのです。私たちは、時々「平安」と「穏やかな気持ち」を勘違いしてしまうのです。

「心の奥底」にある平安は、どんな状況であっても変わることがありません。

聖霊に導かれる聖徒は、時々、不思議な状態になるでしょう。

それは「胸のあたりはザワザワするのに、腹の底の方が平安に満ちている」という状態です。

「感情は激揺れしているのに、なぜか、心の奥底は冷静で平和だ」という状態です。

不思議なことですが、確かにそのような状態になることがあります。

そして、そのようなとき私の場合はですが、「腹の底の方の平安」に従うことを宣言するなら「胸のザワザワ」がおさまります。

私たちは「感情」に主導権を渡してはなりません。

「感情」は、私たちを「別の船」に導きます。そして「乗り間違え」に気がつくまで「良い気分」は続きます。けれど、いくら「良い気分」であっても、その船の行き先は「間違っている」のです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」

キリストの平和は「物と事」で揺れ動くことは決してありません。

キリストの平和は「心の奥底」に与えられます。御霊が住んでいる聖徒にならば、必ず与えられるのです。

私は「キリストの平和」に支配されます
感情に振り回されません
御霊の満たしを心から求めます