【創世記13:2】それが祝福なのですか?

夕暮れの虹

創世記13:2
アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。

イエス様の試練とアブラハムの試練

アブラハムの人生をよく学んでみると、彼の背後に霊的戦いがあるのだなということがわかります。サタンは、イエス様を誘惑したように、アブラハムも誘惑しているのだと感じます。

サタンは、なぜイエス様を誘惑したのでしょう? どのように誘いかけたのでしょう?

マタイ4:1~2
それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。

イエス様が荒野に導かれたのは、悪魔の試みを受けるためでした。イエス様はそこで「何もない」ということを経験されます。四十日の断食です。そして、イエス様は空腹を覚えられたのです。

人はここで試されるのです。食物がなければ「死ぬ」と私たちは思います。そこで、なんとしても生きるために手段を講じるのです。

サタンは、そこにつけ込んできます。

「神の子でしょう。愛されているのでしょう。あなたを満たす神がいるのに、なぜ空腹なの?」

「奇跡を起こしてみたらどう?」

「石がパンになるんじゃないの?」

もちろん石をパンにすることなど簡単におできになったでしょう。それどころか、何もなくても空中にパンを浮かべることだっておできになったでしょう。

しかし、もしそれをしたらどうなるでしょう?

もしイエス様が、人として、そのことを行われたなら。

それは、いのちを保つことが「パンによる」と認めることになります。無くなる食物のために働くなと言われた方が、無くなる食物のために御業を使うという矛盾が生じるのです。

マタイ4:4
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」のです。

私たちは、誰が自分を生かしているのかをしっかりと認識せねばなりません。私たちはパンだけで生きているのではないのです。

よしんば、もしパンが手に入らなくなっても主が生かしてくださるなら生きます。主がもうよいと言われるなら召されます。生きるのも死ぬのも、ただ主の御手にあることです。

しかし、サタンはそのことを揺さぶってくるのです。それを踏まえて、今一度、アブラハムの話を学んでみましょう。

エジプトに守られるアブラム

カナンの地に、激しい飢饉が起こります。

創世記12:10
その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。

それは激しい飢饉で、ここにいたならもう生活ができないというレベルであったのでしょう。アブラムは、エジプトに下ることにします。それは、生きていくために必要と思えることでした。

アブラムが、当時の大都会から、カナンの地へ導かれたのは、イエス様が荒野に導かれた理由と同じではなかったのかなと考えることがあります。約束の成就までの様々なことが、イエス様と似ているなと思うのです。

荒野で空腹を覚えられたイエス様。カナンの地で飢饉に見まわれたアブラム。どちらも自分のいのちを守るように働きかけられました。

アブラムは、いのちを守るためにエジプトに下ります。

聖書は偉人の伝記とは違います。信仰の父祖アブラハムの失敗もちゃんと記されています。

アブラムは、エジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき「恐れ」に満たされてしまいます。エジプトでは、神様の守りはないと感じたのでしょうか? 自分のいのちを守るために妻を妹であると偽るのです。(半分は本当ですけれど)

そして、その偽りのためサライはファラオに召し入れられてしまいます。

創世記12:16
アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

アブラムは、世の中の富で満ちました。サライを召しだしたお陰です。ある意味、石をパンに変えたようなものです。

サタンの本当の目的

サタンは、アブラムに仕掛けたようなことを私たちにも仕掛けてきます。

世の中に立ち向かわず、すり寄っていく生き方を選ぶ信仰者に、世の中のいわゆる祝福を与えるのです。

富とか成功とか、その人の欲するものを与えるのです。

これは終わりの日に必ず起こることです。

ダニエル11:32
彼は、契約に対して不誠実にふるまう者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う。

彼(アンティオコス4世エピファネスのこと)は、ユダヤ人の中で律法を軽んじる人々、律法を捨てる人々を優遇しました。彼(アンティオコス4世エピファネス)にすり寄るユダヤ人たちは、神様の契約を捨て、同胞を裏切って、好待遇を選んだのです。

終わりの時にも、同じことが起こります。主の契約を軽んじる人々、主に背を向ける者達に、反キリストは何らかの報いを与えるでしょう。

主に背く者達に、この世の良いものが与えられます。

主に背く者たちは、自分たちの一時的ないのちを保つでしょう。もしかすると、お金持ちになったり、出世したりするかもしれません。

しかし、本当に主を知る者は、イエス様のように宣言せねばなりません。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と。

今は、まだ「反キリスト」は出現していません。しかし、今もサタンは、巧言を持って誘ってきます。言葉巧みに「良いもの」で誘ってきます。「罪」には見えないもので誘ってきます。

サタンの目的を「罪を犯させること」だと思ってはいけません。サタンの目的は、あなたを「神から離すこと」です。

自分の神を知る人たちは、堅くたって事を行ないます。しかし、逆を言えば、「自分の神」として「主」を知らなければ、簡単に騙されてしまうでしょう。

それは祝福のバロメーターではありません

創世記13:2
アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。

エジプトから戻ってきたときアブラムは非常に豊かでした。

私は、何十年もこの個所を読んできました。そして思っていました。「エジプトでこんなことをしても、アブラムは祝福されたのだな」と。

そして、つい最近またこの個所を読んで、その自分の考えにゾッとしました。

なぜ、私はこの箇所に主の祝福を感じたのでしょう? これは本当に祝福されたということを告げている箇所なのでしょうか?

サライをファラオに召し出し、そうしてエジプトから得た報酬ではありませんか。さらにこの豊かな富が何をもたらしたのか考えてみれば分かります。

創世記13:6~7
その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。

彼らの持ち物が多すぎて、一緒に住めなくなったのです。そして、そのことが原因で争いが起こったというのです。

誤解しないでください。私は、豊かになることが罪だと言っているのではないのです。世の中で働いて報酬を得ることが罪だと言ってるわけでもありません。

出エジプト12:35~36
イスラエルの子らはモーセの言葉どおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。

エジプトを脱出するとき、イスラエルはエジプトから「はぎ取って」行きました。それは、主の御心でした。つまり、私は、エジプトから物をもらうことが良くないと言っているわけではありません。

清く貧しく「清貧」が善であるとも言ってません。だいたい貧しいことが良いことであるとも思いません。

私が言いたいのは、「物」と「事」は祝福のバロメーターではないということです。

パウロの場合を考えてみます

ピリピ4:11~12
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

パウロは、貧しくあることも、富むことも知っていると言っています。そして、どんな状況にあっても対処する秘訣を心得ているとも言っています。

つまり貧しいから祝福されていないということはありません。そして、豊かであるから祝福されているということでもないということです。

ピリピ4:13
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

「私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」これがパウロの秘訣です。

世の中の価値基準は、「豊かであれば祝福」「成功すれば祝福」「貧しければ不幸」「失敗すれば不幸」というものです。

けれど私たちは違います。私たちは常に恵みの上を歩みます。たとえ、つまずいても下には永遠の御腕があります。すべてのことがともに働いて益となることを知っています。倒されますが、滅びません。

ピリピ3:4~8
ただし私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれた八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえに全てを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

パウロは、この世的には「立派」であるものを持っていました。生粋のヘブル人で学歴もありました。しかしパウロは続けて言います。

私はキリストのゆえにすべてを失ったけれど、その失ったものは「ちりあくた」であると。

世の中の価値基準で言えば、「なんてバカなこと」「なんてもったいないこと」と思われるかもしれません。世の中だけではありません。私たちの考えはどうでしょう。

「失ったけれど、100倍を得ました。今は億万長者です。」という証には心が躍ります。

「失ったけれど、今は大教会の牧師です。大きな会堂が建ちました。」このような証には、もっと心が躍ります。

パウロの場合はどうでしょう?

Ⅱコリント11:23~27
彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

読むだけで心が痛みます。涙が出ます。まったく心は踊りません。もちろん、この箇所から勇気は与えられます。しかし、好んでこの状況に身を置きたいとは、私には思えません。

私たちの中でこれほどの思いをしたことのある人は何人ぐらいいるでしょうか。

寒さの中で裸でいたパウロは、神様の祝福から外されてしまったのでしょうか。町でも荒野でも「難」にあった彼は、不幸なのでしょうか。

答えは、明らかです。

Ⅱコリント12:10
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、わたしが弱いときこそ、私は強いからです。

パウロは「喜んでいる」のです。原語の意味には「満足している」「気に入っている」などの意味も含まれます。パウロは、自分の歩んできた道を「気に入っている」のです。

私たちはどうでしょう?

あなたは自分の人生を「喜んでいる」と言えますか?

自分の人生を「気に入っている」と言えますか?

それは危機でした

私は、主とともに歩いてきたつもりだったのに、私の「価値基準」は、世の中に対して死んでいなかったのです。私は、そのことにゾッとしたのです。古い人とは、なんとしぶといことでしょう。

エジプトにいた時、アブラムは主と一緒にに歩んでいたのでしょうか? サライに妹だと言わせて過ごした日々を神様と共に歩めたのでしょうか?

アブラムは知らなかったでしょうが、ここには人類の危機があったわけです。

イサクから続いて行くはずの救い主の系図がなくなるのですから。つまり、救い主イエス様が生まれなくなってしまうという危機があったわけです。

悪魔のやり口はこうなのです。

私たちを、「世の中の価値基準で歩むようにする」こと、「世の中のフィルターを通して祝福を見る」ように仕向けることです。

そうすることで、私たちは、食物を確保します。自分の命を守ります。成功したと言われる人になります。もしかすると大金持ちになるかもしれません。

しかし、イエス様を失います。主にある「永遠のいのち」と「豊かないのち」を失うのです。

逆もまた同じであることを覚えてください。

自分の人生を世の中の基準で「不幸」であると決めつけて歩くこともまた「イエス様を見失っている」のです。

Ⅰペテロ1:8~9
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれど愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

救いは、それだけで「喜び」を湧きあがらせるものです。誰も、どんな状況も、私たちから「救い」を奪うことはできません。私たちは、常に「ことばに尽くせない喜び」に湧きあがることができるのです。

主の御名を呼び求めました

創世記13:3~4
彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。

エジプトから出て、アブラムは以前に祭壇を築いた場所に来ます。そこで主の御名を呼び求めるのです。

多くの財産では満たされないものがあったのです。主の御名を呼び求めずにはいられなかったのです。そこには、さまざまな思いがあったでしょう。しかし、やはり主がおられなければ空しいのです。

何のためにウルからカナンの地までやってきたのでしょう。約束の源である主なる神がおられなければ、アブラハムは人生の意味を見失ってしまうでしょう。

私たちも同じです。私たちは、主がおられなければ、そこに祝福を見出すことはできないのです。

Ⅱコリント5:16~17
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(聖書 新改訳第3版)

私たちは人間的な標準でキリストを知ろうとはしません。以前の考え方は、過ぎ去ったのです。

私たちは、キリストのうちにある新しい者なのです。古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。

私たちの考えは、新しくなりましたか?

以前の価値基準に縛られていませんか?

終わりの日、悪しき者の巧言に騙されませんか?

堅く立って事を行うことができますか?

自分の神がどんな方か知っていますか?

さあ、私たちの手も心も主に向かって上げましょう。そして、一緒に告白しましょう。

詩篇16:1~2
神よ 私をお守りください。
私はあなたに身を避けています。
私は主に申し上げます。
「あなたこそ 私の主。
私の幸いは あなたのほかにはありません。」