【創世記13:2】
アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。
イエス様の試練とアブラハムの試練
アブラハムの人生をよく学んでみると、彼の背後に霊的戦いがあるのだなということがわかります。サタンは、イエス様を誘惑したように、アブラハムも誘惑しているのだと感じます。
サタンは、なぜイエス様を誘惑したのでしょう? どのように誘いかけたのでしょう?
イエス様が荒野に導かれたのは、悪魔の試みを受けるためでした。イエス様はそこで「何もない」ということを経験されます。四十日の断食です。そして、イエス様は空腹を覚えられたのです。
人はここで試されるのです。食物がなければ「死ぬ」と私たちは思います。そこで、なんとしても生きるために手段を講じるのです。
サタンは、そこにつけ込んできます。
「神の子でしょう。愛されているのでしょう。あなたを満たす神がいるのに、なぜ空腹なの?」
「奇跡を起こしてみたらどう?」
「石がパンになるんじゃないの?」
もちろん石をパンにすることなど簡単におできになったでしょう。それどころか、何もなくても空中にパンを浮かべることだっておできになったでしょう。
しかし、もしそれをしたらどうなるでしょう?
もしイエス様が、人として、そのことを行われたなら。
それは、いのちを保つことが「パンによる」と認めることになります。無くなる食物のために働くなと言われた方が、無くなる食物のために御業を使うという矛盾が生じるのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」のです。
私たちは、誰が自分を生かしているのかをしっかりと認識せねばなりません。私たちはパンだけで生きているのではないのです。
よしんば、もしパンが手に入らなくなっても主が生かしてくださるなら生きます。主がもうよいと言われるなら召されます。生きるのも死ぬのも、ただ主の御手にあることです。
しかし、サタンはそのことを揺さぶってくるのです。それを踏まえて、今一度、アブラハムの話を学んでみましょう。
エジプトに守られるアブラム
カナンの地に、激しい飢饉が起こります。
それは激しい飢饉で、ここにいたならもう生活ができないというレベルであったのでしょう。アブラムは、エジプトに下ることにします。それは、生きていくために必要と思えることでした。
アブラムが、当時の大都会から、カナンの地へ導かれたのは、イエス様が荒野に導かれた理由と同じではなかったのかなと考えることがあります。約束の成就までの様々なことが、イエス様と似ているなと思うのです。
荒野で空腹を覚えられたイエス様。カナンの地で飢饉に見まわれたアブラム。どちらも自分のいのちを守るように働きかけられました。
アブラムは、いのちを守るためにエジプトに下ります。
聖書は偉人の伝記とは違います。信仰の父祖アブラハムの失敗もちゃんと記されています。
アブラムは、エジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき「恐れ」に満たされてしまいます。エジプトでは、神様の守りはないと感じたのでしょうか? 自分のいのちを守るために妻を妹であると偽るのです。(半分は本当ですけれど)
そして、その偽りのためサライはファラオに召し入れられてしまいます。
アブラムは、世の中の富で満ちました。サライを召しだしたお陰です。ある意味、石をパンに変えたようなものです。
サタンの本当の目的
サタンは、アブラムに仕掛けたようなことを私たちにも仕掛けてきます。
世の中に立ち向かわず、すり寄っていく生き方を選ぶ信仰者に、世の中のいわゆる祝福を与えるのです。
富とか成功とか、その人の欲するものを与えるのです。
これは終わりの日に必ず起こることです。
彼(アンティオコス4世エピファネスのこと)は、ユダヤ人の中で律法を軽んじる人々、律法を捨てる人々を優遇しました。彼(アンティオコス4世エピファネス)にすり寄るユダヤ人たちは、神様の契約を捨て、同胞を裏切って、好待遇を選んだのです。
終わりの時にも、同じことが起こります。主の契約を軽んじる人々、主に背を向ける者達に、反キリストは何らかの報いを与えるでしょう。
主に背く者達に、この世の良いものが与えられます。
主に背く者たちは、自分たちの一時的ないのちを保つでしょう。もしかすると、お金持ちになったり、出世したりするかもしれません。
しかし、本当に主を知る者は、イエス様のように宣言せねばなりません。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と。
今は、まだ「反キリスト」は出現していません。しかし、今もサタンは、巧言を持って誘ってきます。言葉巧みに「良いもの」で誘ってきます。「罪」には見えないもので誘ってきます。
サタンの目的を「罪を犯させること」だと思ってはいけません。サタンの目的は、あなたを「神から離すこと」です。
自分の神を知る人たちは、堅くたって事を行ないます。しかし、逆を言えば、「自分の神」として「主」を知らなければ、簡単に騙されてしまうでしょう。
それは祝福のバロメーターではありません
エジプトから戻ってきたときアブラムは非常に豊かでした。
私は、何十年もこの個所を読んできました。そして思っていました。「エジプトでこんなことをしても、アブラムは祝福されたのだな」と。
そして、つい最近またこの個所を読んで、その自分の考えにゾッとしました。
なぜ、私はこの箇所に主の祝福を感じたのでしょう? これは本当に祝福されたということを告げている箇所なのでしょうか?
サライをファラオに召し出し、そうしてエジプトから得た報酬ではありませんか。さらにこの豊かな富が何をもたらしたのか考えてみれば分かります。
彼らの持ち物が多すぎて、一緒に住めなくなったのです。そして、そのことが原因で争いが起こったというのです。
誤解しないでください。私は、豊かになることが罪だと言っているのではないのです。世の中で働いて報酬を得ることが罪だと言ってるわけでもありません。
エジプトを脱出するとき、イスラエルはエジプトから「はぎ取って」行きました。それは、主の御心でした。つまり、私は、エジプトから物をもらうことが良くないと言っているわけではありません。
清く貧しく「清貧」が善であるとも言ってません。だいたい貧しいことが良いことであるとも思いません。
私が言いたいのは、「物」と「事」は祝福のバロメーターではないということです。
パウロの場合を考えてみます
パウロは、貧しくあることも、富むことも知っていると言っています。そして、どんな状況にあっても対処する秘訣を心得ているとも言っています。
つまり貧しいから祝福されていないということはありません。そして、豊かであるから祝福されているということでもないということです。
「私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」これがパウロの秘訣です。
世の中の価値基準は、「豊かであれば祝福」「成功すれば祝福」「貧しければ不幸」「失敗すれば不幸」というものです。
けれど私たちは違います。私たちは常に恵みの上を歩みます。たとえ、つまずいても下には永遠の御腕があります。すべてのことがともに働いて益となることを知っています。倒されますが、滅びません。
パウロは、この世的には「立派」であるものを持っていました。生粋のヘブル人で学歴もありました。しかしパウロは続けて言います。
私はキリストのゆえにすべてを失ったけれど、その失ったものは「ちりあくた」であると。
世の中の価値基準で言えば、「なんてバカなこと」「なんてもったいないこと」と思われるかもしれません。世の中だけではありません。私たちの考えはどうでしょう。
「失ったけれど、100倍を得ました。今は億万長者です。」という証には心が躍ります。
「失ったけれど、今は大教会の牧師です。大きな会堂が建ちました。」このような証には、もっと心が躍ります。
パウロの場合はどうでしょう?
読むだけで心が痛みます。涙が出ます。まったく心は踊りません。もちろん、この箇所から勇気は与えられます。しかし、好んでこの状況に身を置きたいとは、私には思えません。
私たちの中でこれほどの思いをしたことのある人は何人ぐらいいるでしょうか。
寒さの中で裸でいたパウロは、神様の祝福から外されてしまったのでしょうか。町でも荒野でも「難」にあった彼は、不幸なのでしょうか。
答えは、明らかです。
パウロは「喜んでいる」のです。原語の意味には「満足している」「気に入っている」などの意味も含まれます。パウロは、自分の歩んできた道を「気に入っている」のです。
私たちはどうでしょう?
あなたは自分の人生を「喜んでいる」と言えますか?
自分の人生を「気に入っている」と言えますか?
それは危機でした
私は、主とともに歩いてきたつもりだったのに、私の「価値基準」は、世の中に対して死んでいなかったのです。私は、そのことにゾッとしたのです。古い人とは、なんとしぶといことでしょう。
エジプトにいた時、アブラムは主と一緒にに歩んでいたのでしょうか? サライに妹だと言わせて過ごした日々を神様と共に歩めたのでしょうか?
アブラムは知らなかったでしょうが、ここには人類の危機があったわけです。
イサクから続いて行くはずの救い主の系図がなくなるのですから。つまり、救い主イエス様が生まれなくなってしまうという危機があったわけです。
悪魔のやり口はこうなのです。
私たちを、「世の中の価値基準で歩むようにする」こと、「世の中のフィルターを通して祝福を見る」ように仕向けることです。
そうすることで、私たちは、食物を確保します。自分の命を守ります。成功したと言われる人になります。もしかすると大金持ちになるかもしれません。
しかし、イエス様を失います。主にある「永遠のいのち」と「豊かないのち」を失うのです。
逆もまた同じであることを覚えてください。
自分の人生を世の中の基準で「不幸」であると決めつけて歩くこともまた「イエス様を見失っている」のです。
救いは、それだけで「喜び」を湧きあがらせるものです。誰も、どんな状況も、私たちから「救い」を奪うことはできません。私たちは、常に「ことばに尽くせない喜び」に湧きあがることができるのです。
主の御名を呼び求めました
エジプトから出て、アブラムは以前に祭壇を築いた場所に来ます。そこで主の御名を呼び求めるのです。
多くの財産では満たされないものがあったのです。主の御名を呼び求めずにはいられなかったのです。そこには、さまざまな思いがあったでしょう。しかし、やはり主がおられなければ空しいのです。
何のためにウルからカナンの地までやってきたのでしょう。約束の源である主なる神がおられなければ、アブラハムは人生の意味を見失ってしまうでしょう。
私たちも同じです。私たちは、主がおられなければ、そこに祝福を見出すことはできないのです。
私たちは人間的な標準でキリストを知ろうとはしません。以前の考え方は、過ぎ去ったのです。
私たちは、キリストのうちにある新しい者なのです。古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。
私たちの考えは、新しくなりましたか?
以前の価値基準に縛られていませんか?
終わりの日、悪しき者の巧言に騙されませんか?
堅く立って事を行うことができますか?
自分の神がどんな方か知っていますか?
さあ、私たちの手も心も主に向かって上げましょう。そして、一緒に告白しましょう。