ピリピ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
「何も」とは本当に「何も」です
グラハム・クックという預言者が、自分の見た夢について語っています。
夢の中でイエス様は、彼にこう言われたそうです。
「グラハム、わたしのものを返しなさい」
しかし、グラハム師には何のことだか全くわかりませんでした。
イエス様は続けて言われたそうです。
「その悩み、心配、苛立ち、恐れ、苦々しさのことだ。それは、みな、わたしのものだ。十字架に架かったのはそのためだ。わたしは、あなたが思い煩う可能性のすべてを取り去ったのだ。」と。
ある牧師も言います。
「私たちに思い煩う権利はない」
私たちは「何も」思い煩わないようにと言われているのです。
「何かがある」なら「何も」ではありません。大きなことも小さなことも「何も」です。とてつもない問題も些細な問題も「何も」です。
あなたを「思い煩わせて」いるものは何でしょう。または誰でしょう。
私たちを「焦らせ」「心配させ」「苦々しくさせ」「怒らせ」「落ち込ませ」るものは何でしょう。
それが、何であれ、私たちは「その思い煩い」を持ち続けてはなりません。
なぜなら、それは「私のもの」ではないからです。
それらは、すべてイエス様が取り去ってくださったものだからです。
「肉」は、争ったり、憤ったりします。苦々しく思います。妬んだりします。
私たちは、そのような「肉」に振り回されて、心配したり、焦ったり、イライラしたりするのです。
しかし「肉」は十字架につけられたのです。
私たちは「肉」に振り回されて生きる必要はないのです。
イエス様は、私たちが「肉」に従って歩まなくてもよいようにしてくださったのです。
「思い煩う」ことは、イエス様が、せっかく取り除いてくださったものを「取り戻して」生きることです。
イエス様は、私たちが「恵みと平安」のうちに歩むことを望んでおられます。
どんな時でも「喜び」の中を歩むことを望んでおられます。
「永遠のいのち」と「豊かないのち」のために十字架に架かってくださったのです。
主は、あなたが「豊かないのち」を歩む姿を喜びとして、十字架を忍んでくださったのです。
私たちが「思い煩って」歩むことは、イエス様の喜びを奪うようなものです。
主は、私たちが「喜びにあふれて」いきる姿を見たいと願っておられるのです。
世にあって「患難」があったとしても、私たちから「恵みと平安」が取り去られることはありません。
私たちは「思い煩う」ことなく生きることができるのです。
なぜなら、それは「すでに取り去られて」いて私たちのものではないからです。
「思い煩い」をわざわざ取り戻して、イエス様から喜びを奪い取ってはなりません。
私は思い煩う必要がありません
私の肉は十字架につきました
私は豊かないのいちを生きます