No.9 あわれみを乞う

アライグマの写真

【ダニエル2:18】
それは、ダニエルとその同僚たちが、ほかのバビロンの知者たちと一緒に滅ぼされることがないように、この秘密について、天の神に憐れみを乞うためであった。

この秘密について

「天の神にあわれみを乞うため」と書かれています。

新改訳2003では、「天の神のあわれみを請い」と記されています。

翻訳された先生方がこの箇所は、「請う」ではなく「乞う」がふさわしいと考えられたのでしょう。

「請う」は、許したり認めてくれるように頼むこと

「乞う」は、へりくだった態度でしてくれるように頼むこと

角川類語辞典

私の持っている数冊の国語辞典にはどれも「請う」と「乞う」を同じとしてありました。

ですので、どちらの字を用いても間違いではないのです。

けれど、この聖書箇所を日本語に訳すにあたって「乞う」の字を用いられたことは、大変意義深いと感じています。

そうです。ダニエルたちは「乞う」たのです。

自分たちには何の落ち度もありません。

ただ不当に命を脅かされているのです。

主の御前に自分たちの正当性を訴え権利を主張することもできたでしょう。

しかし、ダニエルたちはそうしませんでした。

この切迫した状況の中、彼らはただへりくだって主のあわれみを「乞う」たのです

(マタイ5:3〉
心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

貧しいとは、「極貧」と訳せる語が使われています。

心が(直訳すると霊が)極貧状態にある人ということです。

もうどうすることもできない、絶望的な状態であると認めている人とも言えるでしょう。

そのような人こそ幸い(羨ましがられる状態)だと主が言われます。

天の御国はその人のものです。

天にあるすべての霊的祝福が注がれます。

なぜならそのような人は主に向かって手を上げるからです。

手を上げるとは文字通り「お手上げです」と認めることです。

私は、もうどうしようもありません。
どうすることもできません。
どうか哀れんでください。

私たちは主の御前に「乞う」ものでありましょう。

天の神にあわれみを「乞う」ものでありましょう。

天の神にあわれみを「乞う」たダニエルたちは、ただちに啓示をいただきました。

主は、へりくだるものに恵みを与えてくださるのです

〈ヤコブ4:6〉
神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それでこう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」

〈哀歌3:41〉
私たちの手をも心をも
天におられる神に向けて上げよう。
(聖書新改訳©2003新日本聖書刊行会)

主よ
私は手をも心をもあなたに向けて上げます
どうか、あわれんでください。