ローマ4:18
彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
望み得ない時に…
「望み」がないのに、どのよにして「望み」を抱くのでしょうか。
「望みはない」のです。抱くべき「望み」は、もう失われてしまったのです。
「望み」がある間、アブラハムは何とか約束を得ようと努力したでしょう。
人は「まだ望みがある」と思えるうちは一生懸命に頑張れるものです。
私も、まだ「望みがある」と思える間、とても頑張ることができました。
ほとんど望みがないと思えるときでも頑張ることができました。
ほんの小さな望み、欠片のような望みを探し出しては、それを握って頑張ることができたのです。
しかし、その「ほんの小さな望み」さえ失われたとしたならば…
「欠片のような望み」が握っていた手から滑り落ちたとしたらどうでしょう?
私は、もはや頑張ることができなくなってしまいました。
そして、そのとき気が付いたのです。
私が握っていた「望み」とは「可能性」のことであったのだと。
愛する兄弟姉妹。
「望み」を探し回るのはやめなさい。
その「欠片のような望み」を握り続けるのはやめなさい。
それは「本当の望み」ではなく「可能性」なのです。
「可能性」とは「まだできる」「まだやれる」と感じさせるものです。
覚えてください。
サタンは、私たちに偽りの「望み」を抱かせます。
「可能性」とは、サタンが用いる「偽りの望み」なのです。
アブラハムは「自分の身体がすでに死んでいる」ことを認めなければなりませんでした。同じようにサラにも、「もう望みはない」と認めなければならなかったのです。
どこにも「可能性」はありません。
「可能性はないのだ」ということを認める必要があったのです。
「何の望みもない」とは「何の可能性もない」ということです。「できるかも」と欠片も思うことのできない状態のことです。
そして「何の可能性もないとき」に抱く「望み」こそ本当の「望み」なのです。
その「望み」とは「神ご自身」のことです。
人の世界における望みが完全に断たれた時、そこには、ただ「神ご自身」だけがおられます。
主は、あなたに「創造のみわざ」を再び現したいと望んでおられるのです。
光は闇の中に輝きます。主は「何もない」ところから「光」を創造されます。
「望み」とは、かすかな「光」をつかむことではありません。「望み」とは「見つけるもの」ではないのです。
「望み」とは、信仰によって保証される「見えないもの」です。
「見えているもの」は「望み」ではありません。
私たちは「見えない方」を信じます。
「見えない方」が「望みそのもの」であることを信じます。
私たちは「望み得ない時に、神ご自身を抱いて」歩むことができるのです。
主よ、あなたこそ私の望みです
私の救いは、ただあなたから来ます
見えない方を信じます

