2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.560 望み得ない時に望みを抱いて信じます

湖の夜

ローマ4:18
彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。

望み得ない時に…

「望み」がないのに、どのよにして「望み」を抱くのでしょうか。

「望みはない」のです。抱くべき「望み」は、もう失われてしまったのです。

「望み」がある間、アブラハムは何とか約束を得ようと努力したでしょう。

人は「まだ望みがある」と思えるうちは一生懸命に頑張れるものです。

私も、まだ「望みがある」と思える間、とても頑張ることができました。

ほとんど望みがないと思えるときでも頑張ることができました。

ほんの小さな望み、欠片のような望みを探し出しては、それを握って頑張ることができたのです。

しかし、その「ほんの小さな望み」さえ失われたとしたならば…

「欠片のような望み」が握っていた手から滑り落ちたとしたらどうでしょう?

私は、もはや頑張ることができなくなってしまいました。

そして、そのとき気が付いたのです。

私が握っていた「望み」とは「可能性」のことであったのだと。

愛する兄弟姉妹。

「望み」を探し回るのはやめなさい。

その「欠片のような望み」を握り続けるのはやめなさい。

それは「本当の望み」ではなく「可能性」なのです。

「可能性」とは「まだできる」「まだやれる」と感じさせるものです。

覚えてください。

サタンは、私たちに偽りの「望み」を抱かせます。

「可能性」とは、サタンが用いる「偽りの望み」なのです。

アブラハムは「自分の身体がすでに死んでいる」ことを認めなければなりませんでした。同じようにサラにも、「もう望みはない」と認めなければならなかったのです。

どこにも「可能性」はありません。

「可能性はないのだ」ということを認める必要があったのです。

「何の望みもない」とは「何の可能性もない」ということです。「できるかも」と欠片も思うことのできない状態のことです。

そして「何の可能性もないとき」に抱く「望み」こそ本当の「望み」なのです。

その「望み」とは「神ご自身」のことです。

人の世界における望みが完全に断たれた時、そこには、ただ「神ご自身」だけがおられます。

主は、あなたに「創造のみわざ」を再び現したいと望んでおられるのです。

光は闇の中に輝きます。主は「何もない」ところから「光」を創造されます。

「望み」とは、かすかな「光」をつかむことではありません。「望み」とは「見つけるもの」ではないのです。

「望み」とは、信仰によって保証される「見えないもの」です。

「見えているもの」は「望み」ではありません。

私たちは「見えない方」を信じます。

「見えない方」が「望みそのもの」であることを信じます。

私たちは「望み得ない時に、神ご自身を抱いて」歩むことができるのです。

主よ、あなたこそ私の望みです
私の救いは、ただあなたから来ます
見えない方を信じます